聖騎士様と始める異世界旅行事業 ~旅行会社の会社員でしたが異世界に転生したので起業します~
(なんなんだ、ここは……?)
気がついたら、たったひとりで水揺らぐ世界に立っていた。上下左右どこを見渡しても水の中だ。ふと見上げてみれば、水のゆらめきが光をまとった精霊の衣のように無数に揺らいでいる。
綺麗だった。とても美しい場所だ。けれど水の揺らぐ音が耳元で聴こえるだけで他にはなんの気配もない。足元すらもおぼつかなかった。
アベルはその場を動くことができなかった。たしかに自分は水の中にいるはずなのに、なぜか息はできているのだ。不思議な感覚だった。
(もうウンディーネの試練が始まっているんだろうな)
この不思議な空間は、おそらくウンディーネが生み出した特別なものなのだろう。そう判断したアベルは、深く息を吐きだしてゆっくりと深呼吸をする。落ち着こう。どのような試験が待ち受けていても全力を出せるように。ここで聖騎士としての自分の力が確かなものであることを示さなければならない。ウンディーネに自分のことを認めてもらわなければならないのだ。
ここで自分がしくじれば、セシリーナはウンディーネと契約できないばかりか、自分がいままで立派な聖騎士になるために積み上げてきた努力もまた、ウンディーネだけに水の泡になってしまう……なんて冗談を言っている場合じゃなく。
精霊に聖騎士として認められなかったということは、この世界を竜王の手から守る者としてふさわしくないとレッテルを貼られるようなものだ。竜王と戦うには力不足と判断されたようなものなのだから。そんなことになったら、自分は存在する意味を見失ってしまうだろう。自分は今まで、立派な聖騎士になるためだけに生きてきたのだから。
(俺は、自分の存在価値を失ったら、きっと生きる意味をなくしてしまう……)
自分はそれほどまでに聖騎士という立場に縛られ、守られてきたのだ。自分は価値は聖騎士であることにしか……ないのだから。
(……そんなことになったら、きっとセシィの信頼も失っちまうことになる)
彼女を悲しませることだけは避けたかった、耐え難かった。
だって自分は――そう、自分は幼い頃からずっと、彼女のことが好きなのだから。
(だから、ここで失敗するわけにはいかない)
落ち着いて両目を開けると、まるで見えない水の壁を隔てた向かい側にもうひとりの自分が立っていた。自分と寸分違わぬ外見をしていて、どこか困ったような表情でこちらを見つめ返している。ああ、内面を試すということは自分と向き合うということだったのか――アベルは一呼吸おいてから、目の前のもうひとりの自分に問いかける。
「――……おまえは、俺か?」
もうひとりのアベルはうなずいて、こちらに問い返す。
「アベル、君は……つらくはないのかい? 自分の生まれを憎んだことはないのかい?」
「憎む……?」
「そう。君はローレンス家に生まれてしまったがために、聖剣に選ばれ、聖騎士として生きる道しかなくなってしまったんだ。君も身に染みてわかっているだろうけれど、みんな君のことを『聖騎士』のアベルハルトとしか見ていない」
「…………」
「だから、仮に君が『聖騎士』でなくなれば君自身にはなんの価値もなくなってしまうかもしれない」
もうひとりの自分が語る言葉は、アベル自身が常日頃思っていることだった。皆、アベルハルトというひとりの人間として自分のことを見てはくれないのだ。だから、自分の価値は『聖騎士』であることだけ――その価値を失えば、きっと自分は誰からも相手にされず、誰からも愛されないだろう。生きる意味を失ってしまうだろう。
(だから俺は立派な聖騎士になるためだけに生きてきたんだ……)
張りつめた糸のような人生を、自分を追い詰めながら生きてきた。
自分が聖騎士として強くなればなるほど、皆が喜んでくれて、認めてくれたから。
(俺は、聖騎士であることを誇りに思いながらも、それにすがって生きることしかできないんだ。本当はつらくてつらくて逃げ出したいのに)
聖騎士の家系に生まれなければ違った人生もあったかもしれない。出自に縛られないセシリーナやケルヴィンが羨ましいと思うことがなかったと言えば嘘になる。けれども自分の出自を憎むことはなかった。自分には、聖騎士として生きる人生以外を想像できなかったから。
アベルは、もうひとりの自分の言葉に首を左右に振った。
「……ローレンス家に生まれたことも聖騎士に選ばれたことも、俺は憎んだことはないよ。後悔したこともない。そりゃつらいと思ったことは山ほど……というか、つらいと思わねぇ日はないくらいだが、俺には聖騎士として生きる人生以外は考えられねぇから」
「そう。そうやって自分を鼓舞して生きてきたんだね。君は傍から見たら本当に追い詰められているように思えるよ。見ていてかわいそうなほどにね」
「かわいそう……」
その一言が胸に突き刺さるようだった。
自分はかわいそうなのだろうか。聖騎士に生まれて、それ以外に生きる道がなくて。どこまでも孤独に頑張り続けなければならない人生――その道を生きることは、とてもかわいそうで残酷なことなのだろうか。
(わからない……俺には、この人生以外を歩むことはできないから)
自分と他人の人生を比較することなど、正確にはできないだろうから。自分の人生に苦しみや悲しみがあるように、きっと他人にも同じものがある。だからどちらの人生が良い悪いなど判断することはできないのだと思う。だから――。
アベルは顔を上げた。
「俺は、たとえおまえがもうひとりの俺なのだとしても、おまえに俺の人生をかわいそうだと言われる筋合いはない。俺は俺の人生を、かわいそうだと思ったことはないから」
「それは失礼した。けれども、逃げ出したいと思ったことはないのかい? ローレンス家に生まれたことも、聖騎士であることも捨てて、普通のアベルハルトとして生きたいと思ったことは?」
「ない。たとえ逃げ出したとしても、どんどんと失っていくだけだ。そんなことをしたら取り返しがつかなくなる。だから、どうしても逃げたくなったら、もがいてあがいて闘うだけだ。たとえどんなことがあっても、俺はすべてを捨てて逃げることだけはしない!」
アベルは、ぐっと拳を握って言いきる。
どんなに耐え難いことが起きたとしても、諦めて背を向けることだけはしない。そんな情けないことをするくらいだったら、みっともないくらいにあがいてやる。
そう宣言すると、もうひとりの自分がふっと優しく笑んだ。
「そうか。それを聞いて安心したよ。君は立派な志を持った聖騎士だ。君になら、この世界のことも、そしてセシリーナのことも任せられる」
「セシィのことなら心配いらない。彼女は俺が守ると誓った女性だから」
「君の健闘を祈っているよ。もしも心が折れそうになったときは、どうかさきほどの君の言葉を思いだして。きっと勇気を奮い立たせてくれるはずだから」
アベルは強くうなずいて、差し出されていた手を握り返す。もうひとりの自分と固く握手を交わしたと思った瞬間――水の中だった世界が一気に水の泡となって弾け飛んだ。
気がついたら、たったひとりで水揺らぐ世界に立っていた。上下左右どこを見渡しても水の中だ。ふと見上げてみれば、水のゆらめきが光をまとった精霊の衣のように無数に揺らいでいる。
綺麗だった。とても美しい場所だ。けれど水の揺らぐ音が耳元で聴こえるだけで他にはなんの気配もない。足元すらもおぼつかなかった。
アベルはその場を動くことができなかった。たしかに自分は水の中にいるはずなのに、なぜか息はできているのだ。不思議な感覚だった。
(もうウンディーネの試練が始まっているんだろうな)
この不思議な空間は、おそらくウンディーネが生み出した特別なものなのだろう。そう判断したアベルは、深く息を吐きだしてゆっくりと深呼吸をする。落ち着こう。どのような試験が待ち受けていても全力を出せるように。ここで聖騎士としての自分の力が確かなものであることを示さなければならない。ウンディーネに自分のことを認めてもらわなければならないのだ。
ここで自分がしくじれば、セシリーナはウンディーネと契約できないばかりか、自分がいままで立派な聖騎士になるために積み上げてきた努力もまた、ウンディーネだけに水の泡になってしまう……なんて冗談を言っている場合じゃなく。
精霊に聖騎士として認められなかったということは、この世界を竜王の手から守る者としてふさわしくないとレッテルを貼られるようなものだ。竜王と戦うには力不足と判断されたようなものなのだから。そんなことになったら、自分は存在する意味を見失ってしまうだろう。自分は今まで、立派な聖騎士になるためだけに生きてきたのだから。
(俺は、自分の存在価値を失ったら、きっと生きる意味をなくしてしまう……)
自分はそれほどまでに聖騎士という立場に縛られ、守られてきたのだ。自分は価値は聖騎士であることにしか……ないのだから。
(……そんなことになったら、きっとセシィの信頼も失っちまうことになる)
彼女を悲しませることだけは避けたかった、耐え難かった。
だって自分は――そう、自分は幼い頃からずっと、彼女のことが好きなのだから。
(だから、ここで失敗するわけにはいかない)
落ち着いて両目を開けると、まるで見えない水の壁を隔てた向かい側にもうひとりの自分が立っていた。自分と寸分違わぬ外見をしていて、どこか困ったような表情でこちらを見つめ返している。ああ、内面を試すということは自分と向き合うということだったのか――アベルは一呼吸おいてから、目の前のもうひとりの自分に問いかける。
「――……おまえは、俺か?」
もうひとりのアベルはうなずいて、こちらに問い返す。
「アベル、君は……つらくはないのかい? 自分の生まれを憎んだことはないのかい?」
「憎む……?」
「そう。君はローレンス家に生まれてしまったがために、聖剣に選ばれ、聖騎士として生きる道しかなくなってしまったんだ。君も身に染みてわかっているだろうけれど、みんな君のことを『聖騎士』のアベルハルトとしか見ていない」
「…………」
「だから、仮に君が『聖騎士』でなくなれば君自身にはなんの価値もなくなってしまうかもしれない」
もうひとりの自分が語る言葉は、アベル自身が常日頃思っていることだった。皆、アベルハルトというひとりの人間として自分のことを見てはくれないのだ。だから、自分の価値は『聖騎士』であることだけ――その価値を失えば、きっと自分は誰からも相手にされず、誰からも愛されないだろう。生きる意味を失ってしまうだろう。
(だから俺は立派な聖騎士になるためだけに生きてきたんだ……)
張りつめた糸のような人生を、自分を追い詰めながら生きてきた。
自分が聖騎士として強くなればなるほど、皆が喜んでくれて、認めてくれたから。
(俺は、聖騎士であることを誇りに思いながらも、それにすがって生きることしかできないんだ。本当はつらくてつらくて逃げ出したいのに)
聖騎士の家系に生まれなければ違った人生もあったかもしれない。出自に縛られないセシリーナやケルヴィンが羨ましいと思うことがなかったと言えば嘘になる。けれども自分の出自を憎むことはなかった。自分には、聖騎士として生きる人生以外を想像できなかったから。
アベルは、もうひとりの自分の言葉に首を左右に振った。
「……ローレンス家に生まれたことも聖騎士に選ばれたことも、俺は憎んだことはないよ。後悔したこともない。そりゃつらいと思ったことは山ほど……というか、つらいと思わねぇ日はないくらいだが、俺には聖騎士として生きる人生以外は考えられねぇから」
「そう。そうやって自分を鼓舞して生きてきたんだね。君は傍から見たら本当に追い詰められているように思えるよ。見ていてかわいそうなほどにね」
「かわいそう……」
その一言が胸に突き刺さるようだった。
自分はかわいそうなのだろうか。聖騎士に生まれて、それ以外に生きる道がなくて。どこまでも孤独に頑張り続けなければならない人生――その道を生きることは、とてもかわいそうで残酷なことなのだろうか。
(わからない……俺には、この人生以外を歩むことはできないから)
自分と他人の人生を比較することなど、正確にはできないだろうから。自分の人生に苦しみや悲しみがあるように、きっと他人にも同じものがある。だからどちらの人生が良い悪いなど判断することはできないのだと思う。だから――。
アベルは顔を上げた。
「俺は、たとえおまえがもうひとりの俺なのだとしても、おまえに俺の人生をかわいそうだと言われる筋合いはない。俺は俺の人生を、かわいそうだと思ったことはないから」
「それは失礼した。けれども、逃げ出したいと思ったことはないのかい? ローレンス家に生まれたことも、聖騎士であることも捨てて、普通のアベルハルトとして生きたいと思ったことは?」
「ない。たとえ逃げ出したとしても、どんどんと失っていくだけだ。そんなことをしたら取り返しがつかなくなる。だから、どうしても逃げたくなったら、もがいてあがいて闘うだけだ。たとえどんなことがあっても、俺はすべてを捨てて逃げることだけはしない!」
アベルは、ぐっと拳を握って言いきる。
どんなに耐え難いことが起きたとしても、諦めて背を向けることだけはしない。そんな情けないことをするくらいだったら、みっともないくらいにあがいてやる。
そう宣言すると、もうひとりの自分がふっと優しく笑んだ。
「そうか。それを聞いて安心したよ。君は立派な志を持った聖騎士だ。君になら、この世界のことも、そしてセシリーナのことも任せられる」
「セシィのことなら心配いらない。彼女は俺が守ると誓った女性だから」
「君の健闘を祈っているよ。もしも心が折れそうになったときは、どうかさきほどの君の言葉を思いだして。きっと勇気を奮い立たせてくれるはずだから」
アベルは強くうなずいて、差し出されていた手を握り返す。もうひとりの自分と固く握手を交わしたと思った瞬間――水の中だった世界が一気に水の泡となって弾け飛んだ。

