交換日記
角の席のノートが、いつもより分厚くなっている。

私は毎朝八時半にこのカフェに来る。角の席に座り、ブラックコーヒーを飲みながら一時間ほど本を読む。それが三年続けている習慣だった。大学院での研究に疲れた心を、この静かな時間が癒してくれる。

向かいの席には、いつも同じ時間に来る女性がいる。肩にかかるくらいの黒髪で、いつも薄いピンクのカーディガンを着ている。彼女は紅茶とトーストを注文し、小さなノートに何かを書いている。ペンを持つ手が繊細で、時折考え込むように天井を見上げる仕草が印象的だった。私たちは一度も言葉を交わしたことがない。挨拶すらしたことがない。それでも、なぜか彼女の存在が私の朝には欠かせないものになっていた。

最初の頃は意識していなかった。ただ、同じ時間に同じ場所にいる人がいる、という程度の認識だった。しかし、ある日彼女が体調を崩したのか一週間姿を見せなかったとき、私は自分がどれほど彼女の存在を当たり前に思っていたかに気づいた。コーヒーの味も、本の内容も、いつもの半分も頭に入ってこなかった。

そして彼女が戻ってきた日、薄いピンクのカーディガン姿で席に座った瞬間、私は心の底から安堵していた。彼女も私の存在に気づいているのだろうか。時々、本のページをめくる手を止めて顔を上げると、彼女が慌てたように視線を逸らすことがあった。

今朝、いつものように席に着くと、彼女の席にノートが置かれたままになっていた。彼女の姿はない。店のマスターに声をかけようとしたとき、ふと表紙が開いているのが見えた。

『雨の音が好きです。今日みたいな日は、なんだか特別な気分になります』

きれいな文字だった。思わず見入ってしまい、気づくと私はペンを取り出していた。この三年間、一度も交わしたことのない言葉を、なぜか自然に文字にしていた。

『私も雨の日が好きです。本を読むのに集中できる気がして』

そう書いてから、慌てて席に戻った。心臓がドキドキしていた。彼女が戻ってきたとき、きっと驚くだろう。もしかしたら不快に思うかもしれない。しかし、後悔はしなかった。

十分後、彼女が戻ってきた。いつものように紅茶とトーストを注文し、席に着く。ノートを見つめる彼女の表情が、わずかに変わった。驚き、そして、小さな微笑み。彼女は私の方を一瞬見てから、またノートに向かった。

翌朝、ノートは元の位置にあった。しかし、ページが一枚めくられていた。

『本がお好きなのですね。今日読んでいらっしゃるのは何という本ですか?昨日は突然のことで驚きましたが、とても嬉しかったです』

私は手に持っていた村上春樹の小説のタイトルを書いた。そして、勇気を出して彼女に質問を返した。

『「ノルウェイの森」です。あなたはいつも何を書いているのですか?』

『日記です。でも最近は、向かいの席の方のことも書いています。どんな本を読んでいるのか、今日はどんな表情をしているのか。失礼だったでしょうか』

頬が熱くなった。私も同じことを考えていた。彼女のカーディガンの色、髪をかき上げる仕草、紅茶を飲むときの上品な手つき。すべてが私の記憶に刻まれていた。

『失礼だなんて。私も同じことを考えていました。不思議ですね、こんなに近くにいるのに』

こうして私たちの交換日記が始まった。彼女の名前は美月といい、近くの図書館で働いていた。児童書担当で、子どもたちに読み聞かせをするのが好きだという。私は大学院で近現代文学を研究していることを書いた。太宰治の作品について卒論を書いている最中だった。

『太宰治ですか。重いテーマが多いですが、どこに惹かれるのですか?』

『彼の抱えていた孤独感に、共感する部分があるんです。でも最近は、孤独も悪くないと思えるようになりました』

『それは、私のせいでしょうか』

『そうかもしれません』

ページは日に日に増えていった。互いの好きな本、映画、音楽。子供の頃の思い出。将来の夢。美月は子どもの頃から本が好きで、いつか自分で物語を書いてみたいと思っているという。私は文学研究者になって、いつか大学で教鞭をとりたいと書いた。

『素敵な夢ですね。きっと学生たちに愛される先生になります』

『あなたも物語を書くべきです。きっと子どもたちが喜ぶような温かい話を書けると思います』

私たちは本の貸し借りも始めた。私が推薦した本を、彼女が次の日にはもう読み終えていることもあった。彼女の推薦する本は、どれも心に響くものばかりだった。

『時々、お顔を上げて笑っていらっしゃいますね。ノートを読んでくださっているのでしょうか』

『はい。あなたの文字を読むのが、毎日の楽しみになりました。朝起きると、今日はどんなことを書いてくれているだろうと思います』

『私も同じです。でも不思議ですね。こんなに近くにいるのに、声をかけるのは怖くて』

『きっと話しかけてしまったら、この特別な時間が終わってしまう気がするのです』

『わかります。この関係が、とても大切に思えて』

秋が深まり、彼女のカーディガンが厚手のものに変わった頃。オレンジ色の毛糸のカーディガンが、彼女によく似合っていた。ノートには以前より長い文章が綴られるようになっていた。

『実は、来月で図書館の仕事を辞めることになりました。故郷の青森に帰らなければならない事情ができて。母が体調を崩し、一人では生活が困難になったんです』

手が震えた。ページをめくると、続きがあった。

『最後に一度だけ、お話ししてみたいです。あなたの声を聞いてみたい。でも勇気が出ません。もしかしたら、想像していた方と違うかもしれない。この美しい関係が壊れてしまうかもしれない』

私は迷わずペンを取った。

『僕もです。毎日あなたと話している気分でしたが、本当の声を知りません。でも、文字で知ったあなたが、僕にとっての本当のあなたです。今度の日曜日、ここで待っています。何時でも構いません。勇気を出しましょう』

『ありがとう。でも、もし私が来られなかったとしても、怒らないでください。三年間、あなたがここにいてくれたから、私は毎日を頑張れました』

日曜日の朝、私はいつもより早くカフェに着いた。マスターが不思議そうに見ていたが、何も言わなかった。九時、十時、十一時。彼女は現れなかった。コーヒーを五杯も飲んでしまい、手が震えていた。

午後二時頃、店員がテーブルを拭きながら言った。

「あの席の常連さん、もう来られないんですよ。昨日、お母様がお迎えに来て、荷物を取りに来られました。『息子さんによろしく』って言伝を預かったんですが、意味がわからなくて」

机の上に、きれいに畳まれた紙があった。

『お時間をいただいて、ありがとうございました。日曜日、カフェの外から中を見ていました。あなたの横顔を初めてじっくり見ることができました。想像していた通りの、優しそうな方でした。

でも、やはり声をかける勇気が出ませんでした。この三年間の時間があまりにも特別で、壊したくなかったのです。きっと、私は臆病者ですね。

あなたとの交換日記は、私の宝物です。きっと忘れません。青森でも、毎朝8時半になると、あなたのことを思い出すでしょう。

いつか、もしもう一度お会いできる日が来たら、その時は勇気を出して、最初の言葉を口に出して言いたいと思います。

「雨の音が好きです」

あなたの研究が上手くいきますように。きっと素晴らしい先生になります。

美月』

私は紙を胸に押し当てた。角の席はもう、いつもより静かになってしまった。彼女がいない朝のコーヒーは、味気なく感じられた。

それから三年が経った。私は博士課程を修了し、念願の大学講師として働き始めた。それでも毎朝、時間があるときは同じカフェの同じ席に座っている。時々、雨の日には特に、薄いピンクのカーディガンの女性が現れるような気がしてしまう。

マスターは相変わらずで、時々美月のことを話題にすることがあった。「あの人、本当に毎日楽しそうにノート書いてたよね」と。

そして今朝、久しぶりの雨の中、いつものように席に着くと、テーブルの上に見慣れないノートが置かれていた。新しいノートだった。

手が震えた。まさか、と思いながら表紙をそっと開くと、見覚えのある文字でこう書かれていた。

『雨の音が好きです。お久しぶりです。

母の介護が一段落して、東京に戻ってきました。今度は勇気を出して、最初に声をかけてみようと思います。でも、その前にもう一度、この方法で。

あなたはまだ、ここに来ていますか?』

私は震える手でペンを取り、答えを書いた。

『ずっと待っていました。おかえりなさい』
< 1 / 1 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

  • 処理中にエラーが発生したためひとこと感想を投票できません。
  • 投票する

この作家の他の作品

運命の契約書

総文字数/122,747

恋愛(純愛)30ページ

第9回noicomiマンガシナリオ大賞【ベリーズカフェ】エントリー中
表紙を見る 表紙を閉じる
こちらはマンガシナリオになります。 「第9回noicomiマンガシナリオ大賞」にエントリーしています。 神崎蓮は大手商社「神崎グループ」の若き専務。冷静沈着で完璧主義だが、過去の恋愛で裏切られた経験から心の壁を作っている。一方、横井美優は苦学する大学生。正義感が強く、将来は国際機関で働くことを夢見ている。 ある雨の日、美優がアルバイト先のカフェでクレーマーに困っているところを蓮が助ける。後日、美優は蓮の落とした名刺入れを返しに会社を訪れるが、そこで二人の間には大きな社会的格差があることを痛感する。 その後、大学の説明会で再会したことをきっかけに、蓮は美優にインターンシップを提案。美優は一度は断るものの、蓮の誠実さに惹かれ徐々に心を開いていく。やがて二人は惹かれ合い、恋人同士となる。 しかし、蓮の元婚約者である宮下麻里子の登場により、二人の関係に暗雲が立ち込める。麻里子は様々な策略で美優を苦しめ、ついには二人の間に決定的な誤解を生んでしまう。傷ついた美優は蓮に別れを告げ、二人は一度は道を違えてしまう。
桜散る前に

総文字数/84,349

恋愛(純愛)29ページ

ベリーズカフェラブストーリー大賞エントリー中
表紙を見る 表紙を閉じる
老舗和菓子屋「桜屋」の一人娘、高橋亜矢は、東京での大学生活を終え、故郷の金沢に戻り家業を継ぐ決意をする。伝統を重んじる父、健一郎の期待に応えようとする一方で、心の奥底では自由への憧れを抱いていた。 そんな中、金沢の街並み再開発プロジェクトの責任者として、大手不動産会社のエリート、西村翔太が東京からやってくる。現代的な価値観を持つ翔太と、伝統を守ろうとする亜矢は、再開発の説明会で出会い、互いの考えに反発しながらも、その真摯な姿勢に惹かれ合う。 ひょんなことから二人は互いの立場や想いを理解し始め、密かに会うようになる。亜矢は翔太に和菓子作りを教え、翔太は亜矢に新しい世界を見せる。しかし、亜矢の父が二人の関係に気づき、猛反対。さらに、翔太の再開発計画が亜矢の実家周辺も対象地域に含むことが判明し、事態は悪化する。 身分違いの恋、そして家族の反対。様々な障壁が二人の前に立ちはだかる。亜矢は父によって座敷牢同然に監禁され、翔太は会社から東京への転勤を命じられる。愛し合いながらも、別れざるを得ない状況に追い込まれた二人は、それぞれの道を歩むことになる。 3年の月日が流れ、亜矢は見合い話が進み、翔太は仕事に打ち込む日々を送るが、互いを忘れられない。そんな中、亜矢の母が病に倒れ、死の床で娘の本当の幸せを願う言葉を残す。母の死をきっかけに、父は自分の頑なさを反省し始める。 母の葬儀に現れた翔太は、亜矢への変わらぬ愛を告白する。二人の純粋な愛情を目の当たりにした父は、ついに心を開き、二人の結婚を許す。翔太は会社を辞め、金沢で地域密着型の建築設計事務所を立ち上げ、伝統と革新を融合させた街づくりに取り組む。亜矢も和菓子店を継承し、現代的な要素を取り入れた商品開発を始める。 翌年の桜の季節、亜矢と翔太は結婚式を挙げる。多くの人々に祝福され、二人は手を取り合い、新たな人生を歩み始める。金沢の街には、伝統と革新が調和した美しい風景が広がっていた。
アンケート

総文字数/112,590

ミステリー・サスペンス104ページ

表紙を見る 表紙を閉じる
フリーターの三枝美佳は、謝礼に惹かれて軽い気持ちでオンラインアンケートに回答する。しかし最後の設問で「消えてほしい人の名前」を書いた直後、その人物が謎の死を遂げる。 やがて「次の質問」が届き、美佳は逃れられない“選択”を迫られていく。やがて判明するのは、自分だけではなく他にも同じように“選ばされた”者たちが存在するという事実。 答えれば誰かが消え、拒めば自分が狙われる── 繰り返される悪意の連鎖と操作された運命の果てに、美佳がたどり着くのは…。

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop