クールなバリキャリなのに甘く蕩かされています
鉄仮面の女
田所不動産に勤務する戸田冴子(とだ さえこ)、二十九歳。もうすぐ三十歳の誕生日が迫るが、結婚を焦る様子は微塵もない。恋人いない歴は五年。いや、正確には、なんとなく自然消滅したあの関係が「交際」と呼べるのかすら怪しい。実家の母親からは「そろそろお見合いでも」としつこく電話がかかってくるが、冴子は毎回一蹴。「仕事が生き甲斐だから」と軽くかわすのが常だ。
実際、仕事は楽しい。田所不動産の営業として、顧客の笑顔や契約成立の瞬間に立ち会えるのは、冴子にとって何ものにも代えがたい喜びだ。オフィスでは、同僚から「鉄仮面の女」と呼ばれている。冴子の冷静沈着な態度と、どんなクレームにも動じない姿勢がそう呼ばせるのだろう。
「おい、鉄仮面だぞ」
「今日も痺れるくらいに極寒だな」
そんな会話が背後で聞こえてくる。コンプライアンス的にどうかと思うが、いちいち反応するのは面倒くさい。
冴子は黙々と資料を整理し、次の商談の準備に取りかかる。内心では「鉄仮面って、悪くないかも」と少しだけ思う。だって、感情に振り回されず、仕事を完璧にこなす自分に、ちょっとした誇りがあるからだ。
ただ、時折、夜のオフィスで一人残業していると、ふと思うことがある。このまま仕事一筋でいいのか、と。別に結婚が全てとは思わない。でも、誰かと笑い合ったり、くだらないことで喧嘩したり、そんな日常も悪くないかもしれない。
そんな考えが頭をよぎると、冴子はすぐに打ち消す。「まぁ、今はいいや。契約書、チェックしなきゃ」。そうつぶやき、彼女は再びデスクに向かう。鉄仮面の女は、今日も自分のペースで突き進む。
(好き勝手に言ってればいいわ)
「俺ら、仕事なくね?」「戸田さんに任せておけば問題ないっしょ」このやる気のなさ、さすが家族経営の中小企業。そして、ロバに髪をハムハムされたような社長はいつも新聞を読んでいる。冴子の眉間にはシワが寄った。
「お疲れ様です!ただいま戻りました!」
冴子がコピー機の前で書類を揃えていると、夏の熱気をまとった銀縁眼鏡の男性社員が自動ドアを踏んだ。額に汗を滲ませ、ネクタイを少し緩めたその男は、浅葱柊生(あさぎ しゅうせい)、二十七歳。田所不動産営業部のエースだ。
柊生はほぼ毎日と言っていいほど契約をまとめ、成績を上げ続けている。今日も一件、難航していた案件を成約に導いたと社長に報告し、オフィスでは拍手と歓声が沸き起こる。「浅葱、またやったな!」「さすがエース!」と同僚たちがはやし立てる中、柊生は照れくさそうに笑うだけだ。
冴子はそんな喧騒を横目に、流れるような動きで奥のスタッフルームへ。冷蔵庫からキンキンに冷えた麦茶を注ぎ、冷たいおしぼりを用意する。彼女のこうした気遣いは、誰に頼まれたわけでもないが、田所不動産の暗黙の習慣だ。冴子はトレイに麦茶とおしぼりを載せ、柊生のデスクにそっと置く。
「お疲れ、浅葱さん。暑かったでしょ」
軽く声をかけるが、鉄仮面の異名通り、表情はクールだ。柊生は「戸田さん、ありがとうございます」と笑顔で受け取り、ぐいっと麦茶を飲む。実は、冴子はこの瞬間が嫌いじゃない。柊生の汗と笑顔には、どこか人間らしい生々しさがある。
普段は数字と書類に囲まれた冴子だが、彼の「ありがとう」は小さな波紋のように心に広がる。それでも、冴子はすぐにコピー機に戻る。「さて、次」とつぶやき、書類を手に取る。鉄仮面の女は、今日も淡々と仕事を進めるが、どこかで柊生の笑顔が頭の片隅に残っている。
(よっしゃああ!柊生くんスマイル頂きました!)
だが、時として鉄仮面の女は人知れずその仮面を外す。冴子はデスクの下にわざと書類を落とし、拾うふりをしてこっそり口元を綻ばせる。その瞬間、彼女の心は誰も知らない秘密で満たされる。
実は、冴子は浅葱柊生に片思いをしていた。柊生の銀縁眼鏡の下に隠された子犬のような純粋な瞳、無邪気な笑顔、そしてそれに反する低く落ち着いた声。そのギャップが、冴子の心を掴んで離さない。彼が営業所に異動してきた初日、書類を渡す瞬間に目が合ったとき、冴子は一目惚れをしたのだ。
冴子と柊生のデスクは隣同士。忙しいオフィスの中で、ふとした瞬間に彼の汗ばんだ首筋から漂うシダーウッドのオーデコロンの香りが冴子の鼻をかすめる。そんなとき、鉄仮面の女の頬はほのかに色づく。普段は冷静沈着、どんなクレームにも動じない冴子だが、柊生が「戸田さん、これどう思う?」と書類を見せながら近づくと、心臓が少しだけ速く打つ。彼女は「ふむ、悪くないね」とそっけなく答えつつ、内心では彼の声の響きに耳を澄ませている。
それでも、冴子は自分の気持ちを封印する。仕事が生き甲斐だと公言する彼女にとって、恋愛はどこか遠い世界の話だ。柊生が他の同僚と笑い合う姿を見ると、胸がちくりと痛むが、「まぁ、いいか」と自分に言い聞かせる。書類を手にコピー機に向かいながら、冴子は思う。「鉄仮面でいる方が楽だ」。だが、柊生の笑顔が頭にちらつくたび、仮面の下の彼女は小さく微笑むのだ。
実際、仕事は楽しい。田所不動産の営業として、顧客の笑顔や契約成立の瞬間に立ち会えるのは、冴子にとって何ものにも代えがたい喜びだ。オフィスでは、同僚から「鉄仮面の女」と呼ばれている。冴子の冷静沈着な態度と、どんなクレームにも動じない姿勢がそう呼ばせるのだろう。
「おい、鉄仮面だぞ」
「今日も痺れるくらいに極寒だな」
そんな会話が背後で聞こえてくる。コンプライアンス的にどうかと思うが、いちいち反応するのは面倒くさい。
冴子は黙々と資料を整理し、次の商談の準備に取りかかる。内心では「鉄仮面って、悪くないかも」と少しだけ思う。だって、感情に振り回されず、仕事を完璧にこなす自分に、ちょっとした誇りがあるからだ。
ただ、時折、夜のオフィスで一人残業していると、ふと思うことがある。このまま仕事一筋でいいのか、と。別に結婚が全てとは思わない。でも、誰かと笑い合ったり、くだらないことで喧嘩したり、そんな日常も悪くないかもしれない。
そんな考えが頭をよぎると、冴子はすぐに打ち消す。「まぁ、今はいいや。契約書、チェックしなきゃ」。そうつぶやき、彼女は再びデスクに向かう。鉄仮面の女は、今日も自分のペースで突き進む。
(好き勝手に言ってればいいわ)
「俺ら、仕事なくね?」「戸田さんに任せておけば問題ないっしょ」このやる気のなさ、さすが家族経営の中小企業。そして、ロバに髪をハムハムされたような社長はいつも新聞を読んでいる。冴子の眉間にはシワが寄った。
「お疲れ様です!ただいま戻りました!」
冴子がコピー機の前で書類を揃えていると、夏の熱気をまとった銀縁眼鏡の男性社員が自動ドアを踏んだ。額に汗を滲ませ、ネクタイを少し緩めたその男は、浅葱柊生(あさぎ しゅうせい)、二十七歳。田所不動産営業部のエースだ。
柊生はほぼ毎日と言っていいほど契約をまとめ、成績を上げ続けている。今日も一件、難航していた案件を成約に導いたと社長に報告し、オフィスでは拍手と歓声が沸き起こる。「浅葱、またやったな!」「さすがエース!」と同僚たちがはやし立てる中、柊生は照れくさそうに笑うだけだ。
冴子はそんな喧騒を横目に、流れるような動きで奥のスタッフルームへ。冷蔵庫からキンキンに冷えた麦茶を注ぎ、冷たいおしぼりを用意する。彼女のこうした気遣いは、誰に頼まれたわけでもないが、田所不動産の暗黙の習慣だ。冴子はトレイに麦茶とおしぼりを載せ、柊生のデスクにそっと置く。
「お疲れ、浅葱さん。暑かったでしょ」
軽く声をかけるが、鉄仮面の異名通り、表情はクールだ。柊生は「戸田さん、ありがとうございます」と笑顔で受け取り、ぐいっと麦茶を飲む。実は、冴子はこの瞬間が嫌いじゃない。柊生の汗と笑顔には、どこか人間らしい生々しさがある。
普段は数字と書類に囲まれた冴子だが、彼の「ありがとう」は小さな波紋のように心に広がる。それでも、冴子はすぐにコピー機に戻る。「さて、次」とつぶやき、書類を手に取る。鉄仮面の女は、今日も淡々と仕事を進めるが、どこかで柊生の笑顔が頭の片隅に残っている。
(よっしゃああ!柊生くんスマイル頂きました!)
だが、時として鉄仮面の女は人知れずその仮面を外す。冴子はデスクの下にわざと書類を落とし、拾うふりをしてこっそり口元を綻ばせる。その瞬間、彼女の心は誰も知らない秘密で満たされる。
実は、冴子は浅葱柊生に片思いをしていた。柊生の銀縁眼鏡の下に隠された子犬のような純粋な瞳、無邪気な笑顔、そしてそれに反する低く落ち着いた声。そのギャップが、冴子の心を掴んで離さない。彼が営業所に異動してきた初日、書類を渡す瞬間に目が合ったとき、冴子は一目惚れをしたのだ。
冴子と柊生のデスクは隣同士。忙しいオフィスの中で、ふとした瞬間に彼の汗ばんだ首筋から漂うシダーウッドのオーデコロンの香りが冴子の鼻をかすめる。そんなとき、鉄仮面の女の頬はほのかに色づく。普段は冷静沈着、どんなクレームにも動じない冴子だが、柊生が「戸田さん、これどう思う?」と書類を見せながら近づくと、心臓が少しだけ速く打つ。彼女は「ふむ、悪くないね」とそっけなく答えつつ、内心では彼の声の響きに耳を澄ませている。
それでも、冴子は自分の気持ちを封印する。仕事が生き甲斐だと公言する彼女にとって、恋愛はどこか遠い世界の話だ。柊生が他の同僚と笑い合う姿を見ると、胸がちくりと痛むが、「まぁ、いいか」と自分に言い聞かせる。書類を手にコピー機に向かいながら、冴子は思う。「鉄仮面でいる方が楽だ」。だが、柊生の笑顔が頭にちらつくたび、仮面の下の彼女は小さく微笑むのだ。