空蝉の姫
第一話 ここには何もないの
ふと、浜辺の空気が微かに揺れた。
鈴の音が静寂を破り、凛とした響きをもたらした。
空気が一瞬だけ乱れ、風が、どこからか『何か』を運んできた気配。
「……魂が、来たわね。」
姫はゆっくりと、舞いの動きを止めた。
白砂の浜に、一つの影が落ちていた。
異様な黒さが、その存在を物語っていた。
それは、今まさに現世との境界をさまよう魂。
苦しみによって引き裂かれ、体と心が乖離したまま、たどり着いた存在。
ただならぬ痛みを背負った気配だった。
魂が激しく波打っていた。
まるで、傷ついた羽をばたつかせる鳥のように……乱れていた。
姫は静かに、口を開いた。
「……落ち着きなさい。
大丈夫よ。
もう誰も……あなたを苦しめないわ。」
足音ひとつ立てずに、姫は近づいた。
しゃがみ込み、やさしく微笑むように目を細めて。
「あなたの心……悲鳴をあげているわ。
でもそれに気づいてくれる人が、誰もいなかったのね。」
淡い光の中で、
『あなた』の魂が、少しだけ静まった。
「無理に言葉にしなくていいの。
思い出すのも、つらいでしょう?」
魂は、少し震えているようだった。
「あなたが何を抱えて、ここに来たのか……
わたしには、なんとなくわかる気がするの。」
姫は、そっと目を閉じて、魂に触れた。
すると、その奥から、黒い波のように、激しい叫びが押し寄せてきた。
——魂の叫びが、見えた。
怒号が飛ぶ。
ここは、どこかの窓口ね。
どんなに怖くても、頑張って、立ち続けていた。
「黙ってニコニコしてればいいんだよ。」
「上のもん出せ、あんたじゃ話にならん。」
書類の山が、机から崩れ落ちた。
時計の針は、深夜2時を何度も過ぎていた。
それはまるで、壊れたかのように。
誰も助けてくれない。
どんなに疲れても、笑っていないといけない職場。
叱責。
理不尽な要求。
終わらない残務処理。
……やがて、視界がぼやけてきた。
耳鳴りがして、呼吸がうまくできない。
目の前が真っ暗になっていく。
そして——ここに来た。
「……そういうこと、だったのね。」
姫の声は、まるで涙のように優しかった。
「よく、ここまで耐えてきたね。」
姫は、波の音を聴くようにゆっくりと語った。
彼女の声は、空気に溶けていくようにやわらかい。
「誰かの顔色を見る必要もない。
明日のことを考えなくてもいい。
何かにならなきゃって焦ることも、ここでは——いらないの。」
白い袖が、ゆるやかに揺れた。
「少し落ち着いたようね。……胸の奥が、ほんの少し緩んだ気がしたわ。」
姫は魂をそっと撫でた。
「お名前は……?」
「……沙織。」
「そう、沙織ね。
沙織、あなたは今、『ここにいていい』の。
それだけで、もうじゅうぶんだから。」
姫は静かに、沙織のそばに腰を下ろした。
白い袖がさらりと波打ち、浜の砂をふわりと撫でる。
「……ここにはね、そう、何もないの。」
少しだけ間を置いて、姫は続けた。
「ただあるのは、静かな海と、優しい波の音。
どこまでも広がる、やさしさの空間なの。」
彼女の声は、風に溶けるようにやわらかく、そしてどこか、懐かしい響きだった。
「だから、安心して。
ここにはもう、あなたを叱る人も、責める人も、終わらないお仕事も、なにもないから。
あなたは、ただ『いる』だけで、いいのよ。」
姫は、すぐ隣にいる沙織の気配を、そっと見つめた。
「沙織……あなたの心は少し、お休みしたいようね。」
「……うん。」
「ここには、時間なんてないの。
だから、いつまでも、休んでいていいのよ。」
砂の音が、さらりと風に混じる。
潮の香りとともに、爽やかな橘の香りが立ち込めた。
「そうして、少しだけ気分がよくなったら、
そのときは、ゆっくりと……お話ししましょう。」
それだけ言うと、姫はすっと立ち上がった。
海に向かって一礼し、白く透ける袖をふわりと広げる。
その瞬間——
浜に風が吹いた。
音もなく、でもたしかに空気が揺れた。
風に乗って、遠くから琴の音が響いてくる。
細く、やわらかく、空間を満たすように。
祈るように、受け入れるように。
その瞳は、うっすらと涙を湛えていた。
姫は、舞いはじめた。
この世の悲しみを引き受け、赦しを舞う、白拍子のように。
あづまより いでしつきよの しらはまに
しずかなうみに ひかりさすみち
それは、魂にふれる舞だった。
沙織の魂が、やわらかく波打った。
そのまま、ゆっくりと眠りに落ちるように、音と舞に包まれていく——
その姿は儚く、幻想的で、
まるで、天女のようだった。