空蝉の姫
第四話 明鏡止水
——ぴちゃん。
ピンと張りつめた空気の中、かすかに水の音が聞こえた。
挾石の門の傍に、月を映す鏡のような水面があった。
「この池はね、月夜の水鏡——。
覗いた人の、心の有様を映し出すの。」
姫はふわりと舞い、池の上で静かに浮いていた。
池は、静かに波紋を広げるが、やがて鏡のように静まり返った。
「さあ、沙織もこちらへ。」
沙織が池をのぞき込むと、ざわざわと波立ち始めた。
「そう、いろいろな思いがごちゃごちゃで、整理できないんだね。
そうして、考えることをやめて、心を閉ざしてしまった。」
沙織の魂は、姫の声に呼応するように、揺らいでいった。
「でも心は叫んでいたのね。
あなたを守るために……ね。」
チリン——
遠くで鈴の音が一つだけ、静寂の中に響いた。
「本当は、泣きたかった。
でもできなかった。
後輩たちに心配させないために。」
「怒りたかった。
それもできなかった。
和を乱したくなかったから。」
沙織の魂が、ぐずって泣いているように見えた。
「そう、心を落ち着けて——。
いい子ね……。」
ゆっくりと沙織の魂が、鎮まっていった。
ゆっくりと、深く息をしているようだ。
そのとき——池の奥から、風が吹いた。
音のない風。
息吹のような、祈りのような、名もなき風。
風に吹かれて、沙織の魂から一枚、また一枚と、感情の皮がはがれていく。
悲しみ。怒り。罪悪感。
すべてが、ただ静かに、消えていった。
「……これが、『無になる』ということ。」
姫がぽつりとつぶやいた。
「考えないことではなく、考えを『離す』こと。
苦しみをなくすのではなく、苦しみと『別れる』こと。」
沙織の魂は、微かにうなずいた。
その顔は、まるで赤子のように無垢で、力が抜けていた。
「わたしたちはね、この世でたくさんの『あるべき姿』に縛られるの。
『こうでなきゃいけない』『頑張らなきゃいけない』
そのひとつひとつに、心が捕らわれてしまうの。」
姫は、水鏡の上に一輪の白い蓮を咲かせた。
静かに、凛として、曇りのない光を放っていた。
「でもね、沙織。
ただ、ここに在る。
それだけで、いいのよ。」
水鏡は、もはや何も映していなかった。
ただ月だけが、水面に浮かんでいた。
月夜の水鏡は、静けさをとり戻した。
沙織の魂は、透き通った清水のようになった。
「空っぽになったのね。」
沙織の魂は、静かにそこに、たたずんでいた。
「沙織……今、あなたは空っぽになれました。
ここから、どんな人生になっていくのか。
どんな彩にあふれた出会いが、待っているのでしょうね。」
沙織の魂は、再び命の輝きで満たされていった。
それは鮮やかで、力強いものだった。
「沙織、あなたは何にでもなれるの。
魂の深淵を覗いてしまったのあなたには……。
これ以上怖い物なんて、ないわよ。」
姫は沙織の魂を抱いた。
「さあ、もう大丈夫。
あなたならきっと、自分の空へ飛びたてるわ。」
二人は月夜の水鏡の上にそっと立った。
水鏡は美しい波紋を描き、やがて静かにおさまっていった。
どこからか笛の音が聞こえる。
姫は、沙織の魂を抱いて、静かに舞い踊った。
しずまれし みかがみのごと おだやかに
うつつをてらす つきのひかりか
沙織の魂の輝きに照らされて、姫は美しく、そして儚げに舞っていた。