黄昏乙女は電車で異世界へ 恋と運命のループをたぐって

2

 馬車は城を出て街道を行く。

 これから向かう先は知っているが、ジジとスヌープを排除したことで展開が変わっていくことになるはず。

 それが不安でもあり、また期待もある。

 王子は背もたれに背を預け座っていた。ブーツの足がだらりと前に延びている。その靴先がさらの足を軽く蹴った。

 彼女は足を曲げて椅子に横座りした。邪魔なのかと思ったのと蹴られたくなかったから。

 「……姉やがよくそうしていた。彼女の話をお前は嫌いだろうが……」
 
 王子の声にさらは顔を上げた。

 彼女は彼が「姉や」の身代わりとして扱うことへ反発してきた。似た髪型にさせようとしたり、衣装をそれっぽく着せたりと、代用どころか人形扱いに抵抗してきた。なのに力で捩じ伏せられ、だからこそ彼を忌まわしく思った。

 しかし、彼の過去を含む未来を経験し、抱いていたその感情を苦く思い返してしまう。

 王子の振る舞いは確かに褒められたものではなかった。ひどいものもあった。

 けれど、その意味が今はわかる。彼の中でサラにまつわる過去の傷が、彼ですら制御できなくなってしまっている。

 未来の十七歳の王子がさらにくれた手紙を思い出す。

 『……嬉しくない。君がいない日々は好きじゃない。一人で残されるのはとても嫌だ。……』。

 それでも堪えながら耐えて、その時間の中でいつしか笑わなくなった。一途な思いをこじらせて、小さな怪獣を心に飼うようになるのはいつからか……。

 ふと、さらは自分を見つめる王子を見返しながら涙ぐんでいた。指で拭うと王子の声がかかった。

 「ダリアが恋しいのか?」

 同じ状況は二度目だ。その言葉に聞き覚えがあった。ダリアへの思慕を見抜かれ、あの時のさらはうろたえた。

 今回は違う。

 もちろんダリアへ好意は持っている。憧れてもいるだろう。ただ前のように『廃宮殿の侍女』になぞらえて、彼を崇拝するような気持ちはなかった。

 さらは首を振った。

 王子の目には、当たり前に彼とダリアを比較している彼女の様子が映ったはずだ。頻繁に。だが、そのことで責められたことは一度もなかった。

 彼女の気持ちなどどうでも良かった、とも取れるが、「恋しいのか?」と尋ねるくらいだ。気に留まっていたに違いない。

 「お前に入れ知恵をした者の見当はつく。誰かがシュバル城での僕の行状を宮殿に書き送ったに違いない。その者からの命には従うな。お節介は不快なだけだ」

 王子は、城でさらに執着するその様子を従者が王宮の誰かに報告したと考えている。その人物から彼女に王子の情報が渡ったと。

 さらにはそれが誰かも読めた。おそらく婆やだと彼は踏んでいる。

 「二度とリヴとは呼ぶな」

 「……じゃあ何て呼べば?」

 「そんな必要はない」

 「わたしは……、何なの?」

 問いに答えず王子はさらの手を取った。強く引く。つかまれた後がまだそれで痛んだ。強引に腰を抱き膝に乗せた。そのまま口づけた。

 過去にサラと交わしたキスは触れるだけのささやかなものだった。彼女へのいたわりと彼自身の羞恥がそこにはあって、ひどく優しかった。

 恥じらいなくさらの中に押し入って貪るだけ。

 それが悲しかった。強いられている自分も惨めだった。以前のさらはこれを耐えてやり過ごした。癇癪を弾けさせた彼の怒りが怖かったから。

 さらは王子の胸を押し、自分から唇を離した。

 「もう止めて、リヴ」

 「その名で呼ぶなと言った」

 「でも、わたしにはリヴなのだもの。婆やじゃない。あなたのことは誰からも何も聞いていない。気づいて、……わかったの。あなたには信じ難いだろうけれど、わたしの中にサラがいるの」

 王子は返事をしなかった。ただ彼女を凝視しているだけだ。

 さらは王子の膝を降りて裾を直した。王子は止めなかった。向かいの席に戻った。

 「邸でわたしの母の手紙を見つけたことを覚えている? 居間の暖炉の側に落ちていたの。母がエイミ様に宛てたものよ。さっさとあなたが広げて読むから驚いた……」

 思いついたエピソードを途切れなく話した。

 その手紙にはエイミが心を寄せたある紳士のことが書かれていた。その人物の名からのちの王子の愛称が生まれたのだと、二人で話した。婆やも知らないサラと王子だけの二人の記憶だ。

 「……あなたに王子を降りると告げられた時は戸惑ったわ。よく考えてと言ったら「心外だな」と返された。わたしを妻にするとも言ってくれた。あの時は動揺していて、ちゃんと返事もできなかったわね。嬉しかったのに、ごめんなさい……」

 彼の顔にこれまでの冷めた表情が消えた。

 現れたのは驚きにうろたえる心の内側だ。それが見えてようやく彼女の声が届くように思えた。

 「お前は、……あのサラなのか?」

 「ええ。そう」

 「なぜ……?」

 「気づいたのはさっき。セレヴィアを立つちょっと前のこと」

 王子は頭を抱え湧き上がる感情と対峙している。波どころではない、嵐のような混乱が彼の中で起きている。再会を容易く喜べないのは、理性と疑念が戦っているから。

 騙されたくない。そんな彼の心の声が聞けそうに思う。

 彼はそのままの姿勢で問う。

 「メイドと護衛を外させたのも意味があるのか?」

 「ええ。後で話すけれど、込み入っていて、複雑なの」

 「答えてくれ。僕が熱を出した晩、姉やが寄り添ってくれた。その時誰かの真似をして僕を笑わせた。誰の真似をしたか、サラにしかわからない」

 「リヴが熱を出した……」

 さらは記憶を辿る。何度かそんな夜はあった。彼が甘えて、彼女に寝室にいてほしいとねだったものだ。

 目を宙にさまよわせ、思い出をたぐる彼女を王子は凝視に近い眼差しで見つめている。

 「ああ、あれね。わたしの里の継母のせりふ。確か…」

 「可愛いお前にとびきりのドレスを作ってやるよ。どの紳士でもお前の尻の側から離れやしないようなのをさ」。

 大伯母から小切手が入ったことで気を良くした継母が、娘のボーに行った言葉だ。辛そうにしている彼を笑わせたくて話した。結果彼は咳き込みながらも笑ってくれた。強烈なせりふだから、彼もさらも忘れかねている。

 「婆やにも言っていないわ。とびきり下品だから、もう繰り返したくな…」

 そのさらの言葉が終わるのを待たずに王子は立ち上がった。

 さらの前で片膝を床につけて屈んだ。彼女の手を取り自分のものと重ねて包んだ。

 「全部教えてくれ。僕にわかるように、全部だ。頭が割れそうなんだ。そうじゃないと、そうじゃないと……」

 王子が彼女に膝に顔を押し当てた。泣いているのが伝わる。

 それが切なくて、さらは彼の髪に自分の頬を当てた。知っている彼の髪の匂いだ。日毎なじむことに拒絶感を抱いていたのに。今ではその匂いがひどく近い。

 (気づいてあげられなかった)

 「ごめんなさい、リヴ……」

 (見つけてあげられなかった)



 前回と同じように王子の一行はある貴族の邸に立ち寄った。そこで宿を取ることになる。

 さらは馬車を降り優雅な邸を眺めた。以前はここで命を落とした。スヌープに突き立てられた刃が胸に沈んでいくあの痛みを今も忘れられない。

 嫌な記憶を頭を振って追いやった。

 王子はさらの腕を取って組ませた。

 「気分が悪いのか?」

 旅慣れた彼とは違い馬車の揺れでやや酔った感がある。だが横になるほどではない。首を振った。その彼女に彼が気遣わしげな視線を向ける。

 さらを見る目はこれまでと同じ。

 さらにサラが重なったことで彼の仕草に変化はない。所有物のように腕をつかむのも手を握りしめる癖も同じだ。意思も問わない。

 以前はそれらを執着と捉えた。今は彼の痛々しい純粋さを感じる。

 失いたくないから強引に引き寄せて身近に置く。触れたいから抱きしめて無理にでも口づける。気持ちを汲んでくれないのは、そうすることで彼女が離れてしまうから。

 王子の身分を振りかざせば、どれほど嫌われていても彼女は彼から逃げられない。

 さらは頭を彼の肩に預けた。

 「もう少しゆっくり歩いて。あなたから遅れそうなの」

 彼は何も言わずに歩調を緩めた。

 王子の訪問は非常に名誉だ。セレヴィアと同じく邸を上げての歓待を受けた。二人は客間に招かれたが、王子がそれを断った。

 「彼女の気分が優れないようだ。晩餐まで休ませてやりたい」

 また自分が付き添うと告げる。

 「急ぎご案内させます」

 歓迎の催しが用意されていたようだ。庭に華やかな幔幕と楽隊が待機しているのが見えた。王子は庭の人々に手を挙げて注目を集め、それを歓迎の儀式に代えた。

 尊敬されることに慣れた堂々とした鷹揚な振る舞いだった。周囲を見ながらも意思を通すことを臆さない。セレヴィアの城では感じなかったのは、さらがそんな彼を見ようとしていなかったからかもしれない。

 案内された寝室に入った。王子に用意された部屋で彼の荷物が運び入れられている。さらのものはなかった。

 体調の悪い彼女が休む為に彼の寝室に案内された。「休む」を別な意味に取られているような気がした。

 そう勘繰ったのはさらだけで、王子は気にも留めていない。上着を脱いであちらに放った。

 馬車の中では死んだ彼女が浜辺で目覚め、キシリアに助けられセレヴィアに迎えられたことまでを告げた。できるだけ王子に理解し易いように、邸の襲撃後から話すことしたのだった。

 彼が歓迎を断ったのは、さらの体調を気遣うより話の続きを求めてのことだろう。豪華なお茶の準備が届いても一瞥もせず、彼女を見つめている。

 使用人が去り、さらは欲しかった熱いお茶を飲んだ。王子は手もつけず前のめりに掛けたままだ。

 美味しそうな焼き菓子に惹かれ、手が伸びた。ほろっと口溶けがよくおいしい。ついもう一枚を頬張った。彼と目が合った。

 焦ったいだろうに、さらが食べるのを待ってくれた。
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