温厚専務の秘密 甘く強引な溺愛
夕暮れの海を望むレストラン。
キャンドルの灯りがテーブルを照らし、波の音が遠くで響いている。
綾香と向かい合いながら、圭吾はワインに口をつけた。

「ここの料理、美味しいね」
綾香が笑顔を見せる。
だが次の瞬間、声の調子を変えて、ふと父を見つめた。

「ねえ、お父さん……“はる”って、誰?」

グラスを持つ手が止まった。
一瞬にして、空気が張りつめる。

沈黙が、波の音より重く二人の間に落ちた。
圭吾はゆっくりと口を開く。

「……俺の、大事な人だよ」

「そうなんだ。どんな人なの?」
綾香がフォークを置き、興味深そうに身を乗り出す。

「普通の人だよ」
「美人?」
「……綺麗な人だ。心も、見た目も」

「どこで知り合ったの?」
「会社の取引先で」

「えー、また? 佐倉さんに振られたばかりじゃない」
綾香が少し呆れたように笑う。

圭吾は真っすぐ娘を見返した。
「波瑠とは……本気だよ」

「お父さん、それって、誰にでも言ってなかった?」
皮肉めいた声に、圭吾は小さく息を吐く。

「波瑠とは……結婚したいと思っている」

テーブルの上で、綾香はしばらく黙り込んだ。
やがて、目を細めて小さく笑う。

「……そっか。お父さんも、ようやく真実の愛を見つけたか」

「なんだその言い方は」
思わず吹き出す圭吾。
南国の夜風の中、父娘の笑い声が重なった。

「お父さん、どうして結婚したくなったの? あんなに再婚には興味なかったでしょう?」
綾香がワイングラスを傾けながら問いかける。

圭吾は少し考えてから、真っすぐ答えた。
「……波瑠の前でだけ、自然体でいられるからだ。好きなものや趣味も合う。だが、それ以上に…素のままの自分でいられるほど安らぐものはないんだ」

「……あー、わかる気がする」
綾香が肩をすくめる。
「お母さんとは何ひとつ合わなかったもんね。ま、政略結婚だったし」

「家族愛はあったぞ」
「御曹司もお嬢様も大変だよね」

「綾香、お前もお嬢様なんだぞ」
「はいはい、自覚はありますよ。でも、お父さんは私を政略結婚させないでしょ?」

「さあな。政略結婚でも、恋愛できればそれでいいんじゃないか?」
「うん、わかってる。必要ならお見合いもするから、その年まで待ってね」

「まだまだ若いんだ。いろんな経験を積め」
「うん、そうする」

軽いやりとりのあと、綾香はメニューをめくって顔を上げる。
「デザートはチーズケーキでお願いします」

圭吾は思わず笑みをこぼした。
波瑠の名を口にした後でも、こうして娘と笑い合える瞬間があることが、不思議で少し救いに思えた。



その夜、スイートの灯りの下で、圭吾はスマホを握りしめた。
波瑠に謝罪のメッセージを送る。けれど何日たっても、既読がつくことはなかった。

胸に焼き付いて離れないのは、あのときの彼女の顔。
俺の言葉にショックを受けて、凍り付いた波瑠。

「そんなんだから噂されるんだ」
嫉妬に狂った勢いで、吐き捨てるように言ってしまった。
絶対に口にしてはならなかった言葉だった。

後悔してもしきれない。
噂なんてどうでもよかったのに。
波瑠がそんな女性ではないことくらい、誰よりも知っていたのに。

彼女を傷つけるすべてのものから守ってやる…ずっとそう思っていたはずだ。
なのに、あの晩の俺は……嫉妬に狂い…

「……っ」
両手で頭を抱え、圭吾は深くうつむく。
自分の声が今も耳にこびりついて離れない。

あの瞬間、波瑠の瞳から光が消えた。
信じたかった相手に裏切られたように、ただ静かに凍り付いた顔。
その表情が、何度まぶたを閉じても焼き付いて離れない。

守るはずだった俺が、一番彼女を傷つけた。

罪悪感に押し潰されながら、圭吾はただひとつの願いを繰り返す。
早く戻りたい。
そして彼女のもとへ戻り、何度でも謝りたい。抱きしめて、もう二度と手放さないと誓いたい。

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