北へ
3日目
朝餉の席に座った瞬間から、京は律さんの視線を感じ取っていた。
膝の上で手を組んでいても、湯気の立つ椀を持ち上げても、その冷ややかな目は揺らがない。

鈴はというと、いつもと変わらず明るかった。
「おはようございます、律さん。今日もいい天気ですね」
朗らかに挨拶をし、律さんに笑みを返されて、ほっと息を弾ませている。
まるで昨夜の一件がなかったかのように。

京は唇を結んだ。
鈴が純粋だから赦されたことは分かっていた。
けれど、自分に向けられる視線はあまりにも違っていた。
「わかっていて黙っていた」
「わかっていて助けた」
そのどちらも律さんにとっては同じ罪。
その眼差しが、そう告げていた。

慎は、膳の向こうで飄々とした顔をしていた。
「律さん、今日も俺が掃除手伝いますよ」
軽い調子でそう言うと、律さんは小さく頷いた。
彼に向けられる視線は、京に向けられるものとはまるで違っていた。
悪ふざけも罰を受けて済む存在。
だが京だけは、律さんにとってそうではない。

京は、熱い味噌汁を口に含みながら、喉の奥に刺さる棘を飲み下そうとした。
自分だけが、ここで試されている。
そう思うと、屋敷の空気がいっそう重たく感じられた。

食後、鈴が廊下を小走りで追いかけてきた。
「京、昨日はごめんね」
大きな瞳でこちらを覗き込み、まるで言葉だけを投げるようにそう告げる。

京は立ち止まり、少し肩を落とした。
「……気にしてない」
そう返すしかなかった。
鈴の謝罪が本気であるかどうか、もう分かっていたからだ。
鈴はただ、昨日の続きを夢のように抱えている。
星が綺麗だったこと、屋根の上で風が冷たかったこと――。
そこに危険や禁忌の影は一切含まれていない。

「また一緒に見ようね」
鈴は屈託なく笑い、駆け足で去っていった。
京は胸の奥に冷たい塊を残されたような気がした。

その日の昼、静かな廊下に律さんの声が響いた。
「京、こちらへいらっしゃい」

ただ自分だけが呼ばれた。
その一言で、胸が強く締めつけられる。
慎のふざけも鈴の無邪気も許されるのに、なぜ自分だけ。
答えは分かっていた。律さんが最も注意を払っているのが、自分だからだ。

畳の部屋に通されると、律さんは背筋を伸ばして座していた。
「京。あなたは、もう子どもではありませんね」
その声は優しくも厳しくもなく、ただ逃げ場を与えない響きを持っていた。

京は静かに頷いた。
律さんの瞳が、真っ直ぐに自分を射抜く。
「ならば、分かるはずです。この屋敷の外にあるものが、どれほど危ういか。
そして、ここで私に従って生きることが、あなたにとってどれほど大切か」

言葉は甘やかすようでいて、鋼のように硬かった。
依存させようとする律さんの手が、京の胸に届きかけている。

「京。あなたは特別だからこそ、心も体も私が導かねばならないのです」

その声は柔らかいのに、背筋を冷やす。
次の瞬間、律さんの手が京の肩を強く掴んだ。
細い指先なのに、鉄のように硬い。
「分かっていますね。昨日のことは、ただの軽率さでは済まされません」

京は唇を噛み、首を縦に振った。
肩に食い込む痛みに、言い訳の言葉も掻き消されてしまう。

律さんはさらに京を畳に押し伏せた。
腕に走る痺れるような痛み。
けれど声を上げれば、その瞬間に“従わない子”の烙印を押される――そんな恐怖が喉を塞ぐ。

「……良い子ですね」
律さんは囁き、ようやく力を緩めた。
けれどその手はすぐに京の顎を持ち上げる。
「覚えておきなさい。あなたは私なしでは生きられない。痛みさえ、私が与えて、私が取り除いてあげられる」

京はただ頷く。
頷くしかなかった。
胸の奥で何かが軋む。
それでも顔には、従順な微笑を浮かべてみせた。

律さんの目が細められた。
その瞬間、ほんの僅かに、満足げな色が宿ったように見えた。
 
京は律さんの言葉を胸に刻まされ、肩に残る鈍い痛みと共に、逆らうことの意味を嫌でも理解していた。
声を荒げなくとも、律さんは恐怖を与えられる。その優しげな微笑みが、何よりも冷たく感じられた。

それからの京は、律さんの前では従順に振る舞った。
「ええ、分かっています」
「もう二度としません」
そう繰り返すうちに、律さんの顔に確かに満足の色が浮かぶ。

けれど――。

庭で遊ぶ鈴を、書物をめくる慎を、京の視線はいつも追っていた。
声をかけることはなくても、気にかけてしまう。
それは律さんの目には隠しようもなく映っていた。

「……まだ、あの子たちが気になるのですね」
律さんの声音は穏やかだった。だが、その裏に沈殿している色を京は感じ取る。

「京。鈴も、慎も――忘れなさい」

言葉は命令ではなく、囁きのようだった。
しかし、その響きは、昨日の痛みよりも重く、鋭く京の胸を刺した。

京は頷いた。そうするしかなかった。
けれど心の奥底では、「忘れてはいけない」と小さな声が必死に叫んでいた。
< 4 / 13 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop