【完結】春の庭~替え玉少女はお飾りの妻になり利用される~
01 公爵夫人の私と、夫との関係
私は最後の一音を奏でた指を、鍵盤に置いたままゆっくりと瞼を閉じる。
深呼吸をしながら天井のぶどう棚を仰ぎ、閉じていた目を開ける。
スポットライトは真夏の太陽のようにギラギラと輝き、私の目を焼く。
静寂の後、割れるような拍手と歓声、スタンディングオベーション。
私はゆっくりと椅子から立ち上がり、観客に向かって胸に手をあて、深々とお辞儀をする。そうすると、さらに拍手の音が波のように大きなうねり始める。
もう他にはどんな音も聞こえない。
私は音楽を、色んな音の繋がりを愛しているが、この拍手の音は特別だ。
私がこの舞台に立っていいと、ピアノを弾き続けていいと、生きていていいと教えてくれる慈愛の音だ。
一度舞台そでに下がるが、拍手は鳴りやまない。
私にタオルを渡しながら、マネージャーのアリスがはじける笑顔で何度もうなずいている。簡単に顔と首筋の汗を抑えたタオルを彼女に返し、もう一度舞台に上がる。
私がピアノに戻り椅子に腰かけると、拍手は鳴り止み会場に静けさが戻る。
小さく息を吐き、鍵盤に手を置きゆっくりとアンコール曲を弾き始めた。
アンコール曲は決まっている『春の庭』だ。
私の29年の人生、辛い少女時代を乗り越えられたのは、この曲のおかげだった。
そして、これからの人生も私を支え続けてくれるだろう。
いつもこの曲をアンコールで弾くものだから、私、ピアニスト、オリヴィア・キャンベルといえば『春に庭』、『春の庭』といえばオリヴィア・キャンベルと言われるようになった。
元々はピアニストにとっては有名な曲だが、一般の人には馴染みの薄い曲だった。
だが、私の人気と共にこの曲も人気曲となり、今ではホテルのラウンジやレストランでも、よく弾かれるようになったと聞く。『春の庭』の作曲家だったレッグ氏はもう300年以上前に亡くなっているけれど、少しは喜んで下さっているかしら。
あぁ駄目ね、ちょっと走り過ぎたかしら。アンコール曲とはいえ丁寧に丁寧に……
だって今日は、1週間続いたコンサート最終日。
何も言ってはいなかったけれど、きっと彼は観客席にいる。
楽屋に戻ると、たくさんの花束のむせ返るような匂いと共に、マネージャーのアリスがいつもの温めのハーブティーを用意し、出迎えてくれた。
「お疲れ様でした! 今日も素晴らしかったです! お忍びで陛下と王妃様、王太子殿下、王太子妃殿下も来られていたんですよ~!」
「あら、ご挨拶に伺わなくちゃ……」
「今日はお忍びとの事でしたので、もうお帰りになられました。来月の王女様の誕生パーティーでの演奏も楽しみにされているそうです」
王女様は王太子殿下と王太子妃殿下の第一子で、今年6歳になられる。
「誕生パーティーは昼間で、お子様方が多いのよね? 明るくて楽しい楽曲がいいわね。クレバー夫人に相談しないと……」
するとアリスがポケットから1枚のメモを差し出してくる。
「キャンベル公爵閣下がこの曲はどうかと……」
メモには市井でも人気の曲が数曲と、合唱曲として有名な曲、そして『春の庭』が書かれていた。
「あの人ったら忙しいでしょうに……」
この前も一カ月間、隣国に出張に行っていた。鉄道業が軌道に乗り、今度は海運業を始めるためだという。
あの人はひたすらお金を儲けるため、馬車馬のように働き続ける。
まるで、それしか出来る事がないかのように、贖罪のように。
彼の働きによって、キャンベル公爵家はかつてないほど裕福になった。
これ以上の資産を持てば、王家から睨まれるのではないかしら。
「公爵閣下はオリヴィア様の元パトロンですもの。音楽への造詣も深い方ですし、少しでもお力になりたかったのでは?」
そんな事よりもっと身体を大事にして欲しいし、家族との時間を持って欲しい。
曲を決めるなら昔みたいに、二人で意見を出し合って決めたいと思うのは我が侭かしら。
コンコンコン。ドアのたたく音がする。
「失礼します。キャンベル公爵閣下がお見えになられました」
とたんにアリスの顔が輝く。綺麗なもの好きな彼女のお眼鏡に、夫の顔は叶ったようで「見ているだけで幸せな気分」になるそうだ。
「お母さま!」
夫と同じ黒髪をなびかせ、ピンクのドレスをまとった小さなレディが、ゴムまりのようにはじけ飛んできて、私の腰にしがみつく。
「お母さますごく素敵だったわ! 今日のドレスもすごくきれい!」
「あら、私の小さな評論家さんは私のピアノを褒めて下さったのかしら? それともドレスを褒めて下さったのかしら?」
「もちろん両方よ!」
「それならその栄誉のひとつは、母様にドレスを贈った父様に与えてくれるのかい?」
そう言いながら紫の薔薇を一輪の差し出すのは、私の夫であるキャンベル公爵。
「オリー。今日も素晴らしい演奏でした」
「ありがとうございます」
まだ冬なのに希少な紫の薔薇は、一輪とはいえ高価だろう。
私のソロデビューコンサートの楽屋に彼が初めて来た時、大柄な彼の姿が隠れるほどの大きな深紅の薔薇の花束を贈ってくれたが、私が誤ってその重量級の花束を足に落としてケガをして以来、希少な花を一輪だけ贈ってくれるようになった。
「この薄紫のドレスを着たお母さまって、まるで絵本に出て来る妖精みたい。はぁ~私もお母さまみたいに銀髪で紫の瞳が良かった!」
「まぁ。貴女もお父様も、お母様のようにぼんやりした色じゃなく、映える色で素敵なのに」
そう、私はこんなどこにいるか分からないような、かげろうのような色合いの髪や瞳が嫌いだった。
シャーロットは夫を見上げて不服そうにつぶやく。
「お父さまは男の人だから、この色でかっこよく見えるの! でも私はかっこいいより可愛いがいいの!……それなのにアーサーはお母さまと同じ銀髪なんてずるいわ」
去年産まれた小さな弟に対して、評論家さんはご立腹だ。
口下手な私はどうやって娘の機嫌を取ろうかと、長身の夫を見上げる。
すると夫は眉毛を下げ、困ったように私を見つめている。
あの日から夫はいつもこんな表情で私を見る。
彼は私に不機嫌な仕草をしたこともないし、声を荒げたこともない。いつも私の機嫌を伺い、申し訳なさそうに私を見つめる。
少女時代をほぼ監禁状態で育った私だが、もう29歳になり母にもなったのだ。多少は世間を知るようになり、この夫婦の関係はいびつだと感じるようになった。
そりゃ彼のしたことに当時はショックを受けたし、恨みもした。
でも彼にも事情があったし、その後の献身には感謝しているのだ。
私を妻に迎え、何不自由ない暮らしを与えてくれ、ピアニストとして成功させてくれた。
彼の贖罪は充分果たされたと思う。
だからもう彼を解放してあげたい。
この負い目だらけの結婚を解消して、お互い幸せになる道を探した方がいいのではないかと思う。
深呼吸をしながら天井のぶどう棚を仰ぎ、閉じていた目を開ける。
スポットライトは真夏の太陽のようにギラギラと輝き、私の目を焼く。
静寂の後、割れるような拍手と歓声、スタンディングオベーション。
私はゆっくりと椅子から立ち上がり、観客に向かって胸に手をあて、深々とお辞儀をする。そうすると、さらに拍手の音が波のように大きなうねり始める。
もう他にはどんな音も聞こえない。
私は音楽を、色んな音の繋がりを愛しているが、この拍手の音は特別だ。
私がこの舞台に立っていいと、ピアノを弾き続けていいと、生きていていいと教えてくれる慈愛の音だ。
一度舞台そでに下がるが、拍手は鳴りやまない。
私にタオルを渡しながら、マネージャーのアリスがはじける笑顔で何度もうなずいている。簡単に顔と首筋の汗を抑えたタオルを彼女に返し、もう一度舞台に上がる。
私がピアノに戻り椅子に腰かけると、拍手は鳴り止み会場に静けさが戻る。
小さく息を吐き、鍵盤に手を置きゆっくりとアンコール曲を弾き始めた。
アンコール曲は決まっている『春の庭』だ。
私の29年の人生、辛い少女時代を乗り越えられたのは、この曲のおかげだった。
そして、これからの人生も私を支え続けてくれるだろう。
いつもこの曲をアンコールで弾くものだから、私、ピアニスト、オリヴィア・キャンベルといえば『春に庭』、『春の庭』といえばオリヴィア・キャンベルと言われるようになった。
元々はピアニストにとっては有名な曲だが、一般の人には馴染みの薄い曲だった。
だが、私の人気と共にこの曲も人気曲となり、今ではホテルのラウンジやレストランでも、よく弾かれるようになったと聞く。『春の庭』の作曲家だったレッグ氏はもう300年以上前に亡くなっているけれど、少しは喜んで下さっているかしら。
あぁ駄目ね、ちょっと走り過ぎたかしら。アンコール曲とはいえ丁寧に丁寧に……
だって今日は、1週間続いたコンサート最終日。
何も言ってはいなかったけれど、きっと彼は観客席にいる。
楽屋に戻ると、たくさんの花束のむせ返るような匂いと共に、マネージャーのアリスがいつもの温めのハーブティーを用意し、出迎えてくれた。
「お疲れ様でした! 今日も素晴らしかったです! お忍びで陛下と王妃様、王太子殿下、王太子妃殿下も来られていたんですよ~!」
「あら、ご挨拶に伺わなくちゃ……」
「今日はお忍びとの事でしたので、もうお帰りになられました。来月の王女様の誕生パーティーでの演奏も楽しみにされているそうです」
王女様は王太子殿下と王太子妃殿下の第一子で、今年6歳になられる。
「誕生パーティーは昼間で、お子様方が多いのよね? 明るくて楽しい楽曲がいいわね。クレバー夫人に相談しないと……」
するとアリスがポケットから1枚のメモを差し出してくる。
「キャンベル公爵閣下がこの曲はどうかと……」
メモには市井でも人気の曲が数曲と、合唱曲として有名な曲、そして『春の庭』が書かれていた。
「あの人ったら忙しいでしょうに……」
この前も一カ月間、隣国に出張に行っていた。鉄道業が軌道に乗り、今度は海運業を始めるためだという。
あの人はひたすらお金を儲けるため、馬車馬のように働き続ける。
まるで、それしか出来る事がないかのように、贖罪のように。
彼の働きによって、キャンベル公爵家はかつてないほど裕福になった。
これ以上の資産を持てば、王家から睨まれるのではないかしら。
「公爵閣下はオリヴィア様の元パトロンですもの。音楽への造詣も深い方ですし、少しでもお力になりたかったのでは?」
そんな事よりもっと身体を大事にして欲しいし、家族との時間を持って欲しい。
曲を決めるなら昔みたいに、二人で意見を出し合って決めたいと思うのは我が侭かしら。
コンコンコン。ドアのたたく音がする。
「失礼します。キャンベル公爵閣下がお見えになられました」
とたんにアリスの顔が輝く。綺麗なもの好きな彼女のお眼鏡に、夫の顔は叶ったようで「見ているだけで幸せな気分」になるそうだ。
「お母さま!」
夫と同じ黒髪をなびかせ、ピンクのドレスをまとった小さなレディが、ゴムまりのようにはじけ飛んできて、私の腰にしがみつく。
「お母さますごく素敵だったわ! 今日のドレスもすごくきれい!」
「あら、私の小さな評論家さんは私のピアノを褒めて下さったのかしら? それともドレスを褒めて下さったのかしら?」
「もちろん両方よ!」
「それならその栄誉のひとつは、母様にドレスを贈った父様に与えてくれるのかい?」
そう言いながら紫の薔薇を一輪の差し出すのは、私の夫であるキャンベル公爵。
「オリー。今日も素晴らしい演奏でした」
「ありがとうございます」
まだ冬なのに希少な紫の薔薇は、一輪とはいえ高価だろう。
私のソロデビューコンサートの楽屋に彼が初めて来た時、大柄な彼の姿が隠れるほどの大きな深紅の薔薇の花束を贈ってくれたが、私が誤ってその重量級の花束を足に落としてケガをして以来、希少な花を一輪だけ贈ってくれるようになった。
「この薄紫のドレスを着たお母さまって、まるで絵本に出て来る妖精みたい。はぁ~私もお母さまみたいに銀髪で紫の瞳が良かった!」
「まぁ。貴女もお父様も、お母様のようにぼんやりした色じゃなく、映える色で素敵なのに」
そう、私はこんなどこにいるか分からないような、かげろうのような色合いの髪や瞳が嫌いだった。
シャーロットは夫を見上げて不服そうにつぶやく。
「お父さまは男の人だから、この色でかっこよく見えるの! でも私はかっこいいより可愛いがいいの!……それなのにアーサーはお母さまと同じ銀髪なんてずるいわ」
去年産まれた小さな弟に対して、評論家さんはご立腹だ。
口下手な私はどうやって娘の機嫌を取ろうかと、長身の夫を見上げる。
すると夫は眉毛を下げ、困ったように私を見つめている。
あの日から夫はいつもこんな表情で私を見る。
彼は私に不機嫌な仕草をしたこともないし、声を荒げたこともない。いつも私の機嫌を伺い、申し訳なさそうに私を見つめる。
少女時代をほぼ監禁状態で育った私だが、もう29歳になり母にもなったのだ。多少は世間を知るようになり、この夫婦の関係はいびつだと感じるようになった。
そりゃ彼のしたことに当時はショックを受けたし、恨みもした。
でも彼にも事情があったし、その後の献身には感謝しているのだ。
私を妻に迎え、何不自由ない暮らしを与えてくれ、ピアニストとして成功させてくれた。
彼の贖罪は充分果たされたと思う。
だからもう彼を解放してあげたい。
この負い目だらけの結婚を解消して、お互い幸せになる道を探した方がいいのではないかと思う。
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