聖くんの頼みは断れない
プロローグ
用水路から話しかけられた気がして、私は振り返る。
「どうしたの仁愛ちゃん」
先を歩く柴野葉純ちゃんが、足を止めた私を見る。
用水路は、ゆらゆらと流れているけれど、話しかけてなんてこなかった。それはそう。用水路だもん。用水路はしゃべらない。
昔から空耳が多いんだよね、私。
「ううん。なんでもない」
私は、葉純ちゃんに数歩駆けだして葉純ちゃんに追いつく。葉純ちゃんは、ツインお団子がチャームポイントの女の子なの。いつも明るくて元気な子。中学校に入学してから仲良くなったんだ。
少し歩くと、葉純ちゃんとはお別れ。
「じゃあ、あたしの家こっちだから。バイバイ、仁愛ちゃん」
「また明日ねー!」
葉純ちゃんと別れ、ひとりで用水路沿いの遊歩道を歩く。遊歩道にはたくさんの花が植えられていて、すごくいい匂い。この道を歩いて登下校をするのが、すごく好きなんだ。花の香りをふくんだ風が、ふわっと私のハーフアップの髪をゆらす。
中学校に入学して2週間。ようやく、新しい生活にも慣れてきた。葉純ちゃんっていうお友だちもできたし、勉強も、なんとかついていけている。
中学校では、楽しく学校生活を送れますように、って毎日願っている。
小学校のときは、ちょっと、大変だったから……。
イヤなことを思い出してしまって、私は慌てて首を振る。
あれは、昔のことだもん。
今日は、楽しい気持ちでお散歩して帰ろう。
舗装されていない土の部分はシロツメクサで覆われているから、まるで花畑の中を歩いているみたい。
ちっちゃいころは、ここでシロツメクサを集めて花冠を作ったっけ。思い出に浸りながら歩いていると。
――ねえ、だれかー! いっしょにあそぼう!
また、だれかに話しかけられた、と思ってふりかえる。でも、だれもいない。
「空耳かな……」
きっと、中学に入学して疲れが出てきたんだ。少し深呼吸して、歩き出す。
もうとっくに散ってしまったけど、桜の季節は用水路がピンク色にいろどられてすっごくきれいなんだ。思いだしただけで、楽しい気持ちになるよ。
気を取り直して歩いていると……。
――おねーちゃん、ぼくの声が聞こえるんだ。
やっぱり、聞こえる。葉純ちゃんがいたずらで言ってる? でも、男の子の声だ。
立ち止まって、きょろきょろとあたりを見まわす。
――逃げないってことは、遊んでくれるってことだよね!
声が、どんどんと近づいている気がする。
木の陰にかくれているとか? でも、声はもっと近く、用水路の方、そして足元から聞こえたような……シロツメクサに覆われた部分の足を踏み入れて、用水路の方に近づく。あの岩場の影に、だれかしゃがんで隠れているとか?
視線を落として、探そうとすると……。
ぐっと足をにぎられた感覚があったと同時に、すごい力でひっぱられた。
「きゃっ!」
えっ、用水路に引きずりこまれるってこと!?
目の前にあった木につかまろうとしたけど、手は空をきっただけ。
上半身が地面に打ちつけられる。頭が揺れたし、胸が痛くて息が止まりそうだったけど、足がすでに用水路に浸かっているとわかり、必死にシロツメクサをつかむ。でも、これ以上の力でひっぱられたら、シロツメクサじゃ支えられない。
このままじゃ、用水路に引きずりこまれて……沈められて……死んじゃう!?
私、こんなところでたった13年の人生を終えるの?
イヤだよ! まだ、恋もしてないのに!
握ったシロツメクサの根っこが、土の中からあらわになる。
もう、だめだ――!
ぎゅっと目を閉じてあきらめかけた、そのとき。
「イタズラはもう終わりだよ」
男の子のするどい声が聞こえてきたと思ったら、私の体が、ふわりと浮いた。誰かに抱きかかえられていたみたいで……あたたかいぬくもりが、私の体を包んでいる。
え、なんで、と思って目を開く。
目の前に、人の顔があった。
黒いフードをかぶっている男の子、みたい。フードの隙間から、淡いピンク色の髪の毛が見える。
私、この男の子に助けられたの?
しかも……けっこう、かっこいい男の子に、お姫様だっこされている!?
よくよく見なくても、すっごくかっこいい男の子……というのは、わかる。濃いまつげに縁取られた大きな目、すっと通った鼻筋、細くとがったアゴ、すべすべのお肌……。
画面の向こうにいるアイドルだって、こんなにかっこよくない!
今、どういう状況!?
内心あわてふためく私をよそに、男の子は表情を変えずにこちらを見つめる。
黒くて、どこまでも見通せそうな澄んだ瞳を目の前にして、思わず目をそらす。
ウソついたり、ごまかしたり、適当なことを言ったら、ぜんぶ見抜かれちゃいそうだよ……。
「もう大丈夫」
男の子は、私をそっと地面におろしてくれた。足はぐっしょりぬれているし、服や手は土で汚れたけど、無事みたい。
驚きのお姫様だっこに一瞬心が持っていかれたけど……今、怖い思いをしたよね?
私、用水路に引きずりこまれそうになったよね?
思い返して、背筋がひやーっとする。
もしかして……死んじゃうところだった!?
「え、えと……ありがとうございました……」
ふるえる声でお礼を言う。助けてもらえなかったら、おぼれて死んでいたかもしれない。
ちらり、と助けてくれた男の子を見る。
やっぱり……フードで隠れていてもわかる、きれいな顔立ちの男の子だ。二重の目の形も、鼻筋も、輪郭も、すべてが整っている。白くかがやくような肌は、直視できないほどまぶしくて……。
視線を落とすと、男の子は白い札のようなものを持っていた。
なんだろう?
確認する間もなく、それをダーツの矢を投げるかのように用水路に投げ入れる。薄い白い紙のはずが、まるで意思を持った生き物のように、すばやいいきおいで水の中に飛び込んでいった。
その瞬間、水面がぴんと張って光を放つ。
え、え、え、何今の!
すぐに、元の通りの用水路に戻る。
夢でも、見た?
どういうこと?
私がぽかんとしている間に、男の子は用水路をじーっと見つめて声をかけた。
「あんまりこっちの世界に来るなよー」
――ちぇっ、見つかっちゃった!
幼い男の子の声がどこからか聞こえてきた。でもそれ以上言葉は聞こえなくて、用水路は静けさに包まれる。
私はあっけにとられて、助けてくれた男の子を見る。きれいな顔立ちだけでなく、フードから見えかくれするピンク色の髪色が特徴的。
こんな目立つ男の子、この辺に住んでいるのかな? 見かけた覚えはないんだけど……。
そうだ、助けてくれたお礼を言わないと!
「あ、ありがとうございました!」
男の子は、ハッキリした二重の大きな目でじっと私を見つめている。
無言。
なにか言ってほしいんだけど……。
私から質問してみよう。
「あ、あの! 今のはいったいなんですか? 見つかっちゃった、って聞こえたけど。水の中から……」
私の言葉に、男の子ははっとしたように目を見開く。
「へぇ、聞こえるんだ」
ぼそりと、わずかに聞こえるような声でつぶやく。でもすぐに、表情をクールなものに戻した。
「あれは河童。もういたずらしないよう言い聞かせて、結界をはっておいたから」
河童? 結界? なんの話?
「あ、あのもう少しくわしく……」
「名札、しまったほうがいいよ」
男の子が、私の胸元の名札を見る。学校を出たら、個人情報を守るために名札を上着の胸ポケットにおさめないといけないのに、出しっぱなしだった!
あわてて名札を胸ポケットにいれる。中学に入学してまだ2週間だから、うっかり忘れてしまう。名前、見られちゃったかな……。
「じゃ、気をつけて帰って」
名札をしまっている間に、男の子は私に背を向けて歩いて行ってしまった。追いかけて、今のできごとをくわしく聞いてみたい。
今起きたことって、なに?
あなたは、だれ?
でも、足はぐっちょぐちょ。足を動かそうとすると、靴の中で水が音を立ててじょうずに歩けない。靴をぬいで、水を捨てる。不快な思いをしたことで、さっきまでの出来事が夢ではなかったんだと思い知る。
男の子を追いかけたいけど……とりあえずきれいにしたい。
すぐにでも家に帰って洗わなくちゃ!
あの男の子も、河童っていうのも、よくわからないままだったけど……この不思議なできごと以降、私はたいへんなことを頼まれるようになってしまった。
「どうしたの仁愛ちゃん」
先を歩く柴野葉純ちゃんが、足を止めた私を見る。
用水路は、ゆらゆらと流れているけれど、話しかけてなんてこなかった。それはそう。用水路だもん。用水路はしゃべらない。
昔から空耳が多いんだよね、私。
「ううん。なんでもない」
私は、葉純ちゃんに数歩駆けだして葉純ちゃんに追いつく。葉純ちゃんは、ツインお団子がチャームポイントの女の子なの。いつも明るくて元気な子。中学校に入学してから仲良くなったんだ。
少し歩くと、葉純ちゃんとはお別れ。
「じゃあ、あたしの家こっちだから。バイバイ、仁愛ちゃん」
「また明日ねー!」
葉純ちゃんと別れ、ひとりで用水路沿いの遊歩道を歩く。遊歩道にはたくさんの花が植えられていて、すごくいい匂い。この道を歩いて登下校をするのが、すごく好きなんだ。花の香りをふくんだ風が、ふわっと私のハーフアップの髪をゆらす。
中学校に入学して2週間。ようやく、新しい生活にも慣れてきた。葉純ちゃんっていうお友だちもできたし、勉強も、なんとかついていけている。
中学校では、楽しく学校生活を送れますように、って毎日願っている。
小学校のときは、ちょっと、大変だったから……。
イヤなことを思い出してしまって、私は慌てて首を振る。
あれは、昔のことだもん。
今日は、楽しい気持ちでお散歩して帰ろう。
舗装されていない土の部分はシロツメクサで覆われているから、まるで花畑の中を歩いているみたい。
ちっちゃいころは、ここでシロツメクサを集めて花冠を作ったっけ。思い出に浸りながら歩いていると。
――ねえ、だれかー! いっしょにあそぼう!
また、だれかに話しかけられた、と思ってふりかえる。でも、だれもいない。
「空耳かな……」
きっと、中学に入学して疲れが出てきたんだ。少し深呼吸して、歩き出す。
もうとっくに散ってしまったけど、桜の季節は用水路がピンク色にいろどられてすっごくきれいなんだ。思いだしただけで、楽しい気持ちになるよ。
気を取り直して歩いていると……。
――おねーちゃん、ぼくの声が聞こえるんだ。
やっぱり、聞こえる。葉純ちゃんがいたずらで言ってる? でも、男の子の声だ。
立ち止まって、きょろきょろとあたりを見まわす。
――逃げないってことは、遊んでくれるってことだよね!
声が、どんどんと近づいている気がする。
木の陰にかくれているとか? でも、声はもっと近く、用水路の方、そして足元から聞こえたような……シロツメクサに覆われた部分の足を踏み入れて、用水路の方に近づく。あの岩場の影に、だれかしゃがんで隠れているとか?
視線を落として、探そうとすると……。
ぐっと足をにぎられた感覚があったと同時に、すごい力でひっぱられた。
「きゃっ!」
えっ、用水路に引きずりこまれるってこと!?
目の前にあった木につかまろうとしたけど、手は空をきっただけ。
上半身が地面に打ちつけられる。頭が揺れたし、胸が痛くて息が止まりそうだったけど、足がすでに用水路に浸かっているとわかり、必死にシロツメクサをつかむ。でも、これ以上の力でひっぱられたら、シロツメクサじゃ支えられない。
このままじゃ、用水路に引きずりこまれて……沈められて……死んじゃう!?
私、こんなところでたった13年の人生を終えるの?
イヤだよ! まだ、恋もしてないのに!
握ったシロツメクサの根っこが、土の中からあらわになる。
もう、だめだ――!
ぎゅっと目を閉じてあきらめかけた、そのとき。
「イタズラはもう終わりだよ」
男の子のするどい声が聞こえてきたと思ったら、私の体が、ふわりと浮いた。誰かに抱きかかえられていたみたいで……あたたかいぬくもりが、私の体を包んでいる。
え、なんで、と思って目を開く。
目の前に、人の顔があった。
黒いフードをかぶっている男の子、みたい。フードの隙間から、淡いピンク色の髪の毛が見える。
私、この男の子に助けられたの?
しかも……けっこう、かっこいい男の子に、お姫様だっこされている!?
よくよく見なくても、すっごくかっこいい男の子……というのは、わかる。濃いまつげに縁取られた大きな目、すっと通った鼻筋、細くとがったアゴ、すべすべのお肌……。
画面の向こうにいるアイドルだって、こんなにかっこよくない!
今、どういう状況!?
内心あわてふためく私をよそに、男の子は表情を変えずにこちらを見つめる。
黒くて、どこまでも見通せそうな澄んだ瞳を目の前にして、思わず目をそらす。
ウソついたり、ごまかしたり、適当なことを言ったら、ぜんぶ見抜かれちゃいそうだよ……。
「もう大丈夫」
男の子は、私をそっと地面におろしてくれた。足はぐっしょりぬれているし、服や手は土で汚れたけど、無事みたい。
驚きのお姫様だっこに一瞬心が持っていかれたけど……今、怖い思いをしたよね?
私、用水路に引きずりこまれそうになったよね?
思い返して、背筋がひやーっとする。
もしかして……死んじゃうところだった!?
「え、えと……ありがとうございました……」
ふるえる声でお礼を言う。助けてもらえなかったら、おぼれて死んでいたかもしれない。
ちらり、と助けてくれた男の子を見る。
やっぱり……フードで隠れていてもわかる、きれいな顔立ちの男の子だ。二重の目の形も、鼻筋も、輪郭も、すべてが整っている。白くかがやくような肌は、直視できないほどまぶしくて……。
視線を落とすと、男の子は白い札のようなものを持っていた。
なんだろう?
確認する間もなく、それをダーツの矢を投げるかのように用水路に投げ入れる。薄い白い紙のはずが、まるで意思を持った生き物のように、すばやいいきおいで水の中に飛び込んでいった。
その瞬間、水面がぴんと張って光を放つ。
え、え、え、何今の!
すぐに、元の通りの用水路に戻る。
夢でも、見た?
どういうこと?
私がぽかんとしている間に、男の子は用水路をじーっと見つめて声をかけた。
「あんまりこっちの世界に来るなよー」
――ちぇっ、見つかっちゃった!
幼い男の子の声がどこからか聞こえてきた。でもそれ以上言葉は聞こえなくて、用水路は静けさに包まれる。
私はあっけにとられて、助けてくれた男の子を見る。きれいな顔立ちだけでなく、フードから見えかくれするピンク色の髪色が特徴的。
こんな目立つ男の子、この辺に住んでいるのかな? 見かけた覚えはないんだけど……。
そうだ、助けてくれたお礼を言わないと!
「あ、ありがとうございました!」
男の子は、ハッキリした二重の大きな目でじっと私を見つめている。
無言。
なにか言ってほしいんだけど……。
私から質問してみよう。
「あ、あの! 今のはいったいなんですか? 見つかっちゃった、って聞こえたけど。水の中から……」
私の言葉に、男の子ははっとしたように目を見開く。
「へぇ、聞こえるんだ」
ぼそりと、わずかに聞こえるような声でつぶやく。でもすぐに、表情をクールなものに戻した。
「あれは河童。もういたずらしないよう言い聞かせて、結界をはっておいたから」
河童? 結界? なんの話?
「あ、あのもう少しくわしく……」
「名札、しまったほうがいいよ」
男の子が、私の胸元の名札を見る。学校を出たら、個人情報を守るために名札を上着の胸ポケットにおさめないといけないのに、出しっぱなしだった!
あわてて名札を胸ポケットにいれる。中学に入学してまだ2週間だから、うっかり忘れてしまう。名前、見られちゃったかな……。
「じゃ、気をつけて帰って」
名札をしまっている間に、男の子は私に背を向けて歩いて行ってしまった。追いかけて、今のできごとをくわしく聞いてみたい。
今起きたことって、なに?
あなたは、だれ?
でも、足はぐっちょぐちょ。足を動かそうとすると、靴の中で水が音を立ててじょうずに歩けない。靴をぬいで、水を捨てる。不快な思いをしたことで、さっきまでの出来事が夢ではなかったんだと思い知る。
男の子を追いかけたいけど……とりあえずきれいにしたい。
すぐにでも家に帰って洗わなくちゃ!
あの男の子も、河童っていうのも、よくわからないままだったけど……この不思議なできごと以降、私はたいへんなことを頼まれるようになってしまった。
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