義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】
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彰人さんの日記を見つけたあの日から、私の中で一つの疑念が消えなかった。
──彰人さんの死は本当に事故だったのか?
あの日記には違和感がある。具体的に何かと問われるとわからないけれど、でもやっぱり、最後のあの一文が気になるのだ。
養父と彰人さんが離縁して自由に生きなさいと言ってくれた気持ちは、とても嬉しかった。でも、今離縁したら、この違和感が消えてしまう気がする。
違和感の正体を突き止めたい。
宝堂家に戻って養父と律と一緒に暮らせば、何かわかるかもしれない──。
数日後、私は宝堂家の応接室にいた。
重厚な家具と静寂が漂う部屋。目の前には養父が座り、その隣には律も同席していた。
「……離縁は、しません」
私はまっすぐに養父を見据えながら、そう告げる。
養父の眉が一瞬だけ動いた。
「なぜだ、宝堂のしがらみに囚われなくてもいいんだぞ?」
「お父様は、私に自由に生きてほしいのですよね? だったら、私の自由にさせてもらいます」
「それは構わんが……。これから見合いの話も増えてくるだろう」
養父が渋い顔をしながら言う。
見合いの話は、私が宝堂家にいる以上、避けられない現実なのだろう。しかし、私は毅然とした態度で言った。
「それは、お父様が断ってください」
「む……」
「私はこれからも、彰人さんの妻として生きます。それならば、再婚もできませんよね?」
これ以上言葉にできないほど覚悟を決め、微笑みながら養父に圧力をかける。
「そう、だな……」
養父は静かに頷いた。なんとか納得してくれたようだ。
律はこちらを見て微笑んでいる。
《律には気をつけろ》
──あの言葉が頭に焼き付いて離れない。
もし、もしもあれがただの事故ではなかったとしたら。
律が関係している、なんて考えたくもないけれど……。
いつもの笑顔を見ると、気のせいだって思えてくる。
律の視線から目を逸らして、再び養父を見る。
「ただ……。今の家は私一人では広すぎるので、ここに戻ってきてもいいでしょうか?」
女性の一人暮らしは不安だし、ここなら家族も家政婦さんも出入りする。
違和感の正体を確かめたい、なんて、律の前では言えない。
これなら自然な流れで宝堂家に戻ることができる。
「それは構わないが……。ただ……おまえの気持ちに変化があったら、遠慮なく言いなさい」
「はい」
養父の言葉には、いつもの温かさと安心感が込められていた。
その優しさを無にするつもりはない。だけど心の中で決めたことを貫くためには、少し距離を置かなくてはならない気がした。
話が終わって、私は自室に戻ろうとする。
結婚してこの家を出てから三年経つけど、私の部屋は変わらずそのまま残っている。
しばらくこの家で暮らすのだから、後で必要最低限の荷物を持ってこなければならない。
自室の前まで来ると、律が私の後ろをついてきていた。
律の部屋はこの奥だから仕方ないのだけれど、足音もなく後ろを歩かれると、かなり驚く。
「よかった。俺、姉さんが離縁しちゃうんじゃないかって、ちょっと不安だった」
律の言葉に、私は冷静を装って冗談まじりに返すことにした。
「そ、そう。そんなに私の義弟でいたいの?」
まだそんな心配をしていたのか。この間「何があっても律は私の義弟よ」って言ったばかりなのに。
その言葉の裏に隠れた律の様子を、無意識に観察していた。
「そうだよ」
そう言った瞬間、律の表情がかすかに変わる。
柔らかい笑みはそのままだったけれど、どこか違う熱を帯びたものに見えた。
「だけどさ……」
律が一歩、私に近づいてきた。距離が縮まったことに気づき、私は思わず後ずさる。
背後に壁を感じた時には、律の腕が私の逃げ場を無くしていた。
律の影が、私を覆う。
「俺は、いつまで義弟でいればいい?」
「……えっ?」
真剣な低い声に驚き、息を呑んだ。
どういう意味? なぜ律はこんなことを──?
律の目が私をじっと見つめていて、視線から逃れることができない。
言葉が見つからないまま、私はその場に立ち尽くした。
私は、まだ気づいていなかった。
義弟の罠は、夫の死をきっかけにすでに始まっていることに……。