桜散る前に
第8話 心を繋ぐもの
一週間後の約束の日、亜矢は浅野川沿いのカフェで翔太を待っていた。
手には、この一週間で考えた新しいアイデアをまとめたノートがある。翔太がどのような提案を持ってきてくれるのか、期待と不安が入り混じっていた。
「お待たせしました」
翔太が現れた時、その表情は明るく、大きな筒を持っている。
「こんにちは。それは?」
「設計図です」
翔太は嬉しそうに答えた。
「この一週間、ほとんど徹夜で作りました」
カフェの奥の席で、翔太は慎重に図面を広げた。
「まず、これが現在の商店街の配置図です」
詳細に描かれた図面には、各店舗の位置と建物の状態が色分けされている。
「緑が保存可能、黄色が要改修、赤が建て替え必要です」
亜矢は感心して図面を見つめた。
「こんなに詳しく調べてくださったんですね」
「はい。そして、これが僕の提案するリノベーション計画です」
翔太は新しい図面を重ねた。
「桜屋はここに和菓子作り体験工房を併設。茶葉店にはテイスティングルーム。乾物屋には料理教室スペース」
図面上に描かれた新しい商店街は、確かに魅力的だった。古い建物の良さを残しながら、現代的な機能も備えている。
「中央の広場には、イベントステージも設けます。季節ごとのお祭りや、文化イベントができるように」
「素晴らしいです」
亜矢は息を呑んだ。
「まるで夢のような街ですね」
「でも、夢で終わらせたくないんです」
翔太の目が輝いた。
「亜矢さんのアイデアがあれば、きっと実現できます」
亜矢は自分のノートを開いた。
「私も考えてみました。各店舗での体験プログラムを、ストーリー仕立てにするのはどうでしょう?」
「ストーリー仕立て?」
「例えば、『金沢の一日を味わう旅』として、朝は茶葉店でお茶の淹れ方を学び、昼は料理教室で地元の食材を使った料理を作り、午後は和菓子作りを体験する」
翔太は目を見開いた。
「それは素晴らしいアイデアです!観光客にとって、単なる買い物ではなく、文化体験になりますね」
「さらに、季節ごとのテーマも設定できます。春は桜をモチーフにした和菓子、夏は涼菓子、秋は栗や柿を使った和菓子」
「完璧です」翔太は興奮して立ち上がった。「このアイデアなら、年間を通して継続的な集客が期待できます」
二人は夢中になって話し合った。亜矢の文学的な発想と翔太の建築的な知識が組み合わさることで、単なる商業施設を超えた、文化的な魅力を持つ街づくりプランが形になっていく。
「でも」
亜矢はふと現実に戻った。
「これを実現するには、どのくらいの資金が必要でしょうか?」
翔太は計算書を取り出した。
「概算ですが、約二億円です」
「二億円…」
その金額の大きさに、亜矢は言葉を失った。
「ただし、段階的に進めることで負担を軽くできます。まず第一段階で五千万円。市の補助金と、観光庁の地域活性化予算を活用すれば、半分は賄えるかもしれません」
「残り半分は?」
「住民の皆さんの自己負担と、金融機関からの融資です」
翔太の表情が曇った。
「正直、厳しい条件です」
亜矢は考え込んだ。確かに大きな金額だが、商店街全体で負担すれば不可能ではないかもしれない。
「私、父に話してみます」
「え?」
翔太は驚いた。
「大丈夫ですか?」
「もう隠しきれません。それに、このプランなら父も理解してくれるかもしれない」
亜矢の決意は固かった。
「でも、僕のことは言わない方が…」
「いえ、全て正直に話します」
亜矢は翔太を見つめた。
「翔太さんの真心も、きっと伝わるはずです」
翔太の顔に感動の色が浮かんだ。
「亜矢さん…ありがとうございます」
「私の方こそ、こんな素晴らしいプランを作っていただいて」
二人は互いに感謝の気持ちを込めて微笑み合った。
「あの」
翔太が遠慮がちに言った。
「もしお時間があれば、実際に商店街を歩きながら説明させていただけませんか?図面だけでは伝わらない部分もありますし」
「はい、ぜひ」
二人はカフェを出て、商店街に向かった。夕方の柔らかい光が、古い街並みを優しく照らしている。
「ここに体験工房を作るとすると」
翔太は桜屋の前で立ち止まった。
「このスペースを利用できますね」
店の脇にある小さな空き地を指している。
「あそこは昔、祖父が使っていた倉庫があったところです」
「完璧です。ガラス張りの工房にすれば、通りから作業の様子が見えて、興味を引きやすいでしょう」
翔太の説明を聞きながら、亜矢は新しい商店街の姿を想像していた。確かに、魅力的で活気のある街になりそうだ。
「茶葉店の二階は住居として使われていますが、一階の奥にテイスティングルームを…」
翔太が熱心に説明している時、ふと亜矢は彼の横顔を見つめていた。仕事に情熱を注ぐ姿、真剣な表情、そして時折見せる優しい笑顔。
いつの間にか、亜矢の心の中で翔太は特別な存在になっていた。
「亜矢さん?」
翔太の声で、亜矢は我に返った。
「すみません、考え事をしていました」
「このプランについてですか?」
「はい」
嘘ではないが、全てでもない。亜矢は頬が熱くなるのを感じた。
「乾物屋の前はどうでしょう?」
話題を変えようとした時、桜屋から健一郎が出てきた。
「亜矢?こんなところで何を…」
健一郎は娘と見知らぬ男性が一緒にいるのを見て、眉をひそめた。
「お父さん」
亜矢は慌てた。どう説明すればいいのか。
「こちらは…?」
健一郎の視線が翔太に向かった。翔太は緊張しながら、丁寧に頭を下げた。
「西村翔太と申します」
健一郎の顔が険しくなった。その名前に聞き覚えがある。
「西村…再開発の?」
「はい」
翔太は正直に答えた。
「亜矢!」
健一郎の声が怒りに震えた。
「なぜこんな男と一緒にいる?」
「お父さん、聞いてください。翔太さんは…」
「聞くことなど何もない!」
健一郎は娘の腕を掴んだ。
「失礼します」
翔太は深く頭を下げて、その場を離れようとした。
「待ってください!」
亜矢は父の手を振り払って、翔太を引き止めた。
「亜矢!」
「お父さん、翔太さんの話を聞いてください。商店街を救う素晴らしいプランがあるんです」
「商店街を救う?」
健一郎は冷笑した。
「破壊しようとしている張本人が何を言う」
「違います!翔太さんは私たちの味方です」
亜矢の必死の訴えに、健一郎は動揺した。娘がこれほど真剣に懇願するのは初めて見た。
「高橋さん」
翔太が口を開いた。
「お嬢さんのおっしゃる通りです。私は商店街を破壊するつもりはありません」
「嘘をつくな」
「本当です。もしお時間をいただけるなら、私たちの考えたプランをご説明させてください」
翔太の真摯な態度に、健一郎は少し困惑した。
「私たち?」
亜矢は覚悟を決めた。
「お父さん、実は私、翔太さんと一緒に商店街の再生プランを考えていました」
健一郎の顔が真っ赤になった。
「なんと…なんということだ」
「でも、聞いてください。きっと納得していただけます」
亜矢は翔太を見た。翔太は頷いて、勇気を振り絞った。
「高橋さん、桜屋の伝統を守りながら、新しい可能性を広げるプランです。お嬢さんのアイデアも素晴らしく…」
「黙れ!」
健一郎は怒鳴った。
「娘を騙して、何をたくらんでいる?」
「騙してなどいません」
「それなら、なぜ秘密にしていた?」
亜矢は答えられなかった。確かに、秘密にしていたのは事実だ。
「お父さん、私が頼んだんです。翔太さんは悪くありません」
「亜矢」
健一郎の声が震えた。
「お前は父さんを裏切ったのか」
その言葉に、亜矢の心は引き裂かれた。
「そんなつもりでは…」
「もう十分だ。家に帰れ」
健一郎は翔太を睨みつけた。
「お前は二度と娘に近づくな」
翔太は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。でも、プランだけでもご覧いただければ…」
「いらん!」
健一郎は背を向けて店の中に入ってしまった。
亜矢は翔太を見つめた。翔太の目には、申し訳なさと悲しみが混じっていた。
「すみませんでした、亜矢さん。僕のせいで」
「違います。私の判断が甘かっただけです」
「でも…」
「翔太さんは何も悪くありません」
亜矢は涙を堪えながら言った。
「プランは諦めないでください。いつか必ず、理解してもらえる日が来ます」
翔太は複雑な表情で頷いた。
「分かりました。でも、亜矢さんに迷惑をかけるわけにはいきません」
「迷惑なんかじゃありません」
亜矢は強く言った。
「私は翔太さんと一緒に考えたプランを信じています」
翔太の目に、希望の光が宿った。
「ありがとうございます」
二人は静かに別れた。しかし、その心は確実に繋がっていた。
家に戻った亜矢を待っていたのは、父の厳しい表情だった。そして、長い夜の説得が始まろうとしていた。
手には、この一週間で考えた新しいアイデアをまとめたノートがある。翔太がどのような提案を持ってきてくれるのか、期待と不安が入り混じっていた。
「お待たせしました」
翔太が現れた時、その表情は明るく、大きな筒を持っている。
「こんにちは。それは?」
「設計図です」
翔太は嬉しそうに答えた。
「この一週間、ほとんど徹夜で作りました」
カフェの奥の席で、翔太は慎重に図面を広げた。
「まず、これが現在の商店街の配置図です」
詳細に描かれた図面には、各店舗の位置と建物の状態が色分けされている。
「緑が保存可能、黄色が要改修、赤が建て替え必要です」
亜矢は感心して図面を見つめた。
「こんなに詳しく調べてくださったんですね」
「はい。そして、これが僕の提案するリノベーション計画です」
翔太は新しい図面を重ねた。
「桜屋はここに和菓子作り体験工房を併設。茶葉店にはテイスティングルーム。乾物屋には料理教室スペース」
図面上に描かれた新しい商店街は、確かに魅力的だった。古い建物の良さを残しながら、現代的な機能も備えている。
「中央の広場には、イベントステージも設けます。季節ごとのお祭りや、文化イベントができるように」
「素晴らしいです」
亜矢は息を呑んだ。
「まるで夢のような街ですね」
「でも、夢で終わらせたくないんです」
翔太の目が輝いた。
「亜矢さんのアイデアがあれば、きっと実現できます」
亜矢は自分のノートを開いた。
「私も考えてみました。各店舗での体験プログラムを、ストーリー仕立てにするのはどうでしょう?」
「ストーリー仕立て?」
「例えば、『金沢の一日を味わう旅』として、朝は茶葉店でお茶の淹れ方を学び、昼は料理教室で地元の食材を使った料理を作り、午後は和菓子作りを体験する」
翔太は目を見開いた。
「それは素晴らしいアイデアです!観光客にとって、単なる買い物ではなく、文化体験になりますね」
「さらに、季節ごとのテーマも設定できます。春は桜をモチーフにした和菓子、夏は涼菓子、秋は栗や柿を使った和菓子」
「完璧です」翔太は興奮して立ち上がった。「このアイデアなら、年間を通して継続的な集客が期待できます」
二人は夢中になって話し合った。亜矢の文学的な発想と翔太の建築的な知識が組み合わさることで、単なる商業施設を超えた、文化的な魅力を持つ街づくりプランが形になっていく。
「でも」
亜矢はふと現実に戻った。
「これを実現するには、どのくらいの資金が必要でしょうか?」
翔太は計算書を取り出した。
「概算ですが、約二億円です」
「二億円…」
その金額の大きさに、亜矢は言葉を失った。
「ただし、段階的に進めることで負担を軽くできます。まず第一段階で五千万円。市の補助金と、観光庁の地域活性化予算を活用すれば、半分は賄えるかもしれません」
「残り半分は?」
「住民の皆さんの自己負担と、金融機関からの融資です」
翔太の表情が曇った。
「正直、厳しい条件です」
亜矢は考え込んだ。確かに大きな金額だが、商店街全体で負担すれば不可能ではないかもしれない。
「私、父に話してみます」
「え?」
翔太は驚いた。
「大丈夫ですか?」
「もう隠しきれません。それに、このプランなら父も理解してくれるかもしれない」
亜矢の決意は固かった。
「でも、僕のことは言わない方が…」
「いえ、全て正直に話します」
亜矢は翔太を見つめた。
「翔太さんの真心も、きっと伝わるはずです」
翔太の顔に感動の色が浮かんだ。
「亜矢さん…ありがとうございます」
「私の方こそ、こんな素晴らしいプランを作っていただいて」
二人は互いに感謝の気持ちを込めて微笑み合った。
「あの」
翔太が遠慮がちに言った。
「もしお時間があれば、実際に商店街を歩きながら説明させていただけませんか?図面だけでは伝わらない部分もありますし」
「はい、ぜひ」
二人はカフェを出て、商店街に向かった。夕方の柔らかい光が、古い街並みを優しく照らしている。
「ここに体験工房を作るとすると」
翔太は桜屋の前で立ち止まった。
「このスペースを利用できますね」
店の脇にある小さな空き地を指している。
「あそこは昔、祖父が使っていた倉庫があったところです」
「完璧です。ガラス張りの工房にすれば、通りから作業の様子が見えて、興味を引きやすいでしょう」
翔太の説明を聞きながら、亜矢は新しい商店街の姿を想像していた。確かに、魅力的で活気のある街になりそうだ。
「茶葉店の二階は住居として使われていますが、一階の奥にテイスティングルームを…」
翔太が熱心に説明している時、ふと亜矢は彼の横顔を見つめていた。仕事に情熱を注ぐ姿、真剣な表情、そして時折見せる優しい笑顔。
いつの間にか、亜矢の心の中で翔太は特別な存在になっていた。
「亜矢さん?」
翔太の声で、亜矢は我に返った。
「すみません、考え事をしていました」
「このプランについてですか?」
「はい」
嘘ではないが、全てでもない。亜矢は頬が熱くなるのを感じた。
「乾物屋の前はどうでしょう?」
話題を変えようとした時、桜屋から健一郎が出てきた。
「亜矢?こんなところで何を…」
健一郎は娘と見知らぬ男性が一緒にいるのを見て、眉をひそめた。
「お父さん」
亜矢は慌てた。どう説明すればいいのか。
「こちらは…?」
健一郎の視線が翔太に向かった。翔太は緊張しながら、丁寧に頭を下げた。
「西村翔太と申します」
健一郎の顔が険しくなった。その名前に聞き覚えがある。
「西村…再開発の?」
「はい」
翔太は正直に答えた。
「亜矢!」
健一郎の声が怒りに震えた。
「なぜこんな男と一緒にいる?」
「お父さん、聞いてください。翔太さんは…」
「聞くことなど何もない!」
健一郎は娘の腕を掴んだ。
「失礼します」
翔太は深く頭を下げて、その場を離れようとした。
「待ってください!」
亜矢は父の手を振り払って、翔太を引き止めた。
「亜矢!」
「お父さん、翔太さんの話を聞いてください。商店街を救う素晴らしいプランがあるんです」
「商店街を救う?」
健一郎は冷笑した。
「破壊しようとしている張本人が何を言う」
「違います!翔太さんは私たちの味方です」
亜矢の必死の訴えに、健一郎は動揺した。娘がこれほど真剣に懇願するのは初めて見た。
「高橋さん」
翔太が口を開いた。
「お嬢さんのおっしゃる通りです。私は商店街を破壊するつもりはありません」
「嘘をつくな」
「本当です。もしお時間をいただけるなら、私たちの考えたプランをご説明させてください」
翔太の真摯な態度に、健一郎は少し困惑した。
「私たち?」
亜矢は覚悟を決めた。
「お父さん、実は私、翔太さんと一緒に商店街の再生プランを考えていました」
健一郎の顔が真っ赤になった。
「なんと…なんということだ」
「でも、聞いてください。きっと納得していただけます」
亜矢は翔太を見た。翔太は頷いて、勇気を振り絞った。
「高橋さん、桜屋の伝統を守りながら、新しい可能性を広げるプランです。お嬢さんのアイデアも素晴らしく…」
「黙れ!」
健一郎は怒鳴った。
「娘を騙して、何をたくらんでいる?」
「騙してなどいません」
「それなら、なぜ秘密にしていた?」
亜矢は答えられなかった。確かに、秘密にしていたのは事実だ。
「お父さん、私が頼んだんです。翔太さんは悪くありません」
「亜矢」
健一郎の声が震えた。
「お前は父さんを裏切ったのか」
その言葉に、亜矢の心は引き裂かれた。
「そんなつもりでは…」
「もう十分だ。家に帰れ」
健一郎は翔太を睨みつけた。
「お前は二度と娘に近づくな」
翔太は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。でも、プランだけでもご覧いただければ…」
「いらん!」
健一郎は背を向けて店の中に入ってしまった。
亜矢は翔太を見つめた。翔太の目には、申し訳なさと悲しみが混じっていた。
「すみませんでした、亜矢さん。僕のせいで」
「違います。私の判断が甘かっただけです」
「でも…」
「翔太さんは何も悪くありません」
亜矢は涙を堪えながら言った。
「プランは諦めないでください。いつか必ず、理解してもらえる日が来ます」
翔太は複雑な表情で頷いた。
「分かりました。でも、亜矢さんに迷惑をかけるわけにはいきません」
「迷惑なんかじゃありません」
亜矢は強く言った。
「私は翔太さんと一緒に考えたプランを信じています」
翔太の目に、希望の光が宿った。
「ありがとうございます」
二人は静かに別れた。しかし、その心は確実に繋がっていた。
家に戻った亜矢を待っていたのは、父の厳しい表情だった。そして、長い夜の説得が始まろうとしていた。