銀の福音

第八話 氷血公爵

 壁画の発見から、一月が過ぎた。

 エリアーナは、古代の謎に怯えながらも、目の前の「生活」に集中していた。

 彼女が最も力を注いだのは、食料の確保――すなわち、畑作だった。泉の浄化に伴い、その周辺の土壌は奇跡的に瘴気の影響を脱していた。エリアーナは錬金術を駆使して土を分析し、腐葉土や動物の(もちろんルーンのものだ)を混ぜ合わせ、即席の肥料を作って土壌を改良した。

 種は、遺跡の奥深く、密封された貯蔵庫の中で見つけたものだ。何百年も前のものだったが、奇跡的に生命力を保っていた。古文書の知識によれば、それは『星麦(ほしむぎ)』と呼ばれる、わずかなマナで急激に育つ古代の穀物だった。

 毎日、お腹の我が子に語りかけるように、エリアー-ナは畑の世話をした。そして今日、その努力が初めて形になった。

 黄金色に実った数本の星麦。量は少ないが、ずっしりと重い。

 エリアーナはそれを丁寧に脱穀し、石臼で挽いて粉にする。泉の水でこねて薄く焼き上げると、香ばしい匂いが遺跡の中庭に広がった。

 ルーンが仕留めてきてくれた森の小動物の肉で作ったスープも添える。

 それは、貴族の食卓とは比べ物にならないほど質素な食事。しかし、エリアーナにとっては、人生で最も豪華で、温かい食卓だった。

 エリアーナは、焼きたてのパンを一口ちぎり、口に運ぶ。麦の素朴な甘みが、じわりと体に染み渡った。隣では、ルーンが満足げにスープの入った石皿を舐めている。

 (ああ……これが、私が欲しかったもの)

 誰かに奪われることもない、自分の手で作り上げた、ささやかな幸せ。お腹の子も喜んでいるのか、優しく内側からお腹を叩いた。エリアーナの目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

 だが、彼女は知らなかった。

 その涙ぐむほどに幸福な光景が、呪いの森には不釣り合いなほど清浄な一角が、ある人物の視界に捉えられていることを。

 遺跡から数キロ離れた、森を見下ろす崖の上。

 一人の男が、魔道具の望遠鏡を覗き込んでいた。

 陽光を弾く白銀の髪、彫刻のように整った顔立ち。しかし、そのアイスブルーの瞳は、絶対零度の光を宿し、感情というものを一切感じさせない。

 彼こそが、この北方の地を絶対的な力で支配する、カイエン・フォン・ヴォルフシュタイン公爵。人々が畏怖を込めて「氷血公爵」と呼ぶ男だった。

 「……報告は、真実だったか」

 彼の部下からもたらされたのは、「黒の森の一部で、瘴気が浄化されている兆候がある」という、にわかには信じがたい報告だった。森の魔物の異常な活性化に頭を悩ませていたカイエンは、自らの目で確かめるために、この死地へと足を踏み入れたのだ。

 そして、彼が見たものは、伝説の聖獣フェンリルに寄り添われながら、粗末なパンを食べて涙する、一人の女の姿だった。

 聖獣が人に懐くなど、ありえない。

 瘴気の源泉であるはずの森の奥で、作物が育つなど、ありえない。

 そもそも、人間がたった一人で、この森で生き延びること自体が、常識を覆す奇跡だった。

 カイエンの論理(ロジック)は、目の前の光景を理解することを拒絶した。だが、事実として、それはそこにある。

 彼は、女の顔を拡大した。泥で汚れてはいるが、その顔立ちには見覚えがあった。

 (……ローゼンベルク家の次女。たしか、聖女の姉を妬み、国宝を汚した罪で追放された……エリアーナ、とか言ったか)

 巷の噂では、欲深く、才能のない、愚かな女のはずだった。

 だが、今、カイエンの目に映っているのは、聖獣を手懐け、死の大地を再生させるほどの、規格外の力を持つ錬金術師の姿だ。

 (どちらが真実だ? いや、真実は一つしかない)

 カイエンは、事実のみを信奉する男だった。噂や評判など、彼にとっては意味をなさない。

 彼が信じるのは、目の前で起きている「結果」だけだ。

 そして、その「結果」をもたらしている女に、彼は生まれて初めて、論理では説明できない強い興味を抱いていた。

 「面白い……」

 氷の公爵の唇から、数年ぶりに感情の乗った言葉が漏れた。それは、獲物を見つけた獣のような、静かで獰猛な響きをしていた。
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