その優しさに溺れる。〜一線を超えてから、会社の後輩の溺愛が止まらない〜
月曜の朝。
出勤すると、湊のデスクはすでに空だった。朝礼で知らされたのは、今日から地方出張──同行は後輩の佐々木奈々だということ。

「──水曜には戻ります。それまでの分担、よろしくお願いします」

上司の一言で胸がじわりと重くなる。
もちろん仕事だし、先輩として当然のことだとわかっている。
でも──

「……ふたりで、出張か」

デスクで、思わず誰にも聞こえない声で漏らす。
胸がざわつく理由ははっきりしている。奈々は明るく気が利いて、かわいい。
飲み込みも早く、湊もよく褒めていた。
その何気ない声が何度も頭に浮かび、心に刺さる。

昼休み。
同期に誘われたランチを断り、一人で給湯室へ向かう。
ポットの湯の音だけが大きく響く静けさの中で、コーヒーを入れる。
(……私には関係ない)
誰とどこへ行こうと、湊は私の“彼氏”ではない。
名前のない関係だと割り切ったはずなのに──

「……とられたくない、なんて……思って、いい立場じゃないのに」

ぽつりと漏らす。視界が涙で滲む。
頭に浮かぶのは、出張先で奈々と並ぶ湊の姿。ホテルの同じフロアに泊まり、ふたりで飯を食べ、笑い合う光景が何度も繰り返される。
くだらないと否定したいのに、想像が離れない。
手の中のカップの熱が冷めていくように、心の熱も沈んでいく。
行き場のない気持ちが胸の奥でぐちゃぐちゃに絡まる。
(こんなふうになるくらいなら、最初から関係なんて持たなきゃよかった)
そんなことを考えてしまう自分が一番嫌だ。
──湊が奈々を好きになったら。
──もし二人の間に何かがあったら、きっと立ち直れない。
そんな恐れがぐるぐる回る一方で、何も言う資格がない現実も理解している。
だってこの関係を望んだのは自分だ。
恋人じゃなくていいと口にしたのは、自分自身だった。
(だから……)
湊が帰る前に、この気持ちをしまいたい。傷つくより先に自分で終わらせてしまえば、怖がらずに済むかもしれない。けれど——
(それでも……)
胸に当てた手が、鼓動を伝える。
どくん、どくんと正直に告げるこの心臓の声。
(やっぱり、私は…湊くんが好きなんだ)
どれだけ苦しくても、知らないままでいる方が楽でも、彼が他の誰かを笑わせる姿を想像するだけで息が詰まる。

「ずっと自分だけを選んでほしい」

──そんな願いを抱く自分が一番つらい。
(こんな不安に怯えるくらいなら──だったら、いっそ)
独りに戻る方が楽かもしれない。そう思った瞬間、涙がひとすじ落ちた。
終わらせたいわけじゃない。
ただ、傷つきたくないだけだ。大切なものほど壊れるのが怖い。それが愛されないことと同じくらい悲しいと、今になって気づいてしまった。

「……ねえ、湊くん……」

スマホを手に取り、名前を打ちかけてやめる。画面をそっと閉じたその手が震えている。それでも心は決まっていた。
「さよなら」と直接伝えることが、彼にできる最後の優しさに思えたから。

──本当は、誰よりもそばにいてほしかったのに。
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