開国のウィストアギネス 〜出戻り巫女が星海の聖女と呼ばれるまで〜

プロローグ


 天が、割れた。

 さかまく巨大な波が視界を覆っていたし、濃い霧と厚い雲がずっと陽光を遮っていたから、海原と空の境界などあってないようなものだったのだ。

 だから、艦長室を出て甲板に降りたオリアスにとっては、吹き付ける潮風を気にする様子もなく船首にたち、両手を空に向けおおきく広げているウィスタを中心に、海も大気も、そうして天も、道をゆずるかのように割れたと、そう見えた。

 ウィスタの燃えるような朱《あか》い髪が波飛沫のあいだで踊っている。
 星海《ほしうみ》の聖女と呼ばれるようになって久しいのに、いまだ手放そうとしない船護《ふなも》りの巫女の装束のながい裾がおおきくはためいている。

 オリアスは声をかけようとしたが、できなかった。
 雲のあいまから降りてきた光が、ウィスタの姿を刻み出したからだ。その輪郭は淡い白金に彩られ、潮の粒子をまとって、あらゆる祝福の象徴として立っていた。
 彼は、発声することで、いま見ている奇跡が終了してしまうことを恐れた。

 ウィスタは手を下ろし、ゆっくりと振り向いた。
 髪と同じ色の瞳は、いま陽光を受けて眩しく輝く海面よりも、なおつよくひかっている。
 オリアスの姿を見つけ、わらって、走った。
 手をとり、引く。

 「ね。すっごい綺麗だよ、海も、空も」
 「濡れてる。風邪をひくだろ」
 「大丈夫、ここに悪い気はいないって、水霊《すいれい》が言ってる。それより、ほら、あの空、雲が切れて……」

 ひといきに喋ろうとするウィスタは、ふいにオリアスに背を抱きしめられたから、ことばを収めざるを得なかった。

 「……ずっと、ずっと。俺の航路に、たっていてほしい」

 ウィスタは、こたえなかった。
 それでも、オリアスの手に自分のそれを重ね、ちいさくつぶやいた。

 「……わたしは、海を離れられない」
 「ああ。俺も常に、海とともにある」
 「わたしには、消すことができない、傷がある」
 「そうだな。きっと後世の伝記作家は、君のことをおもしろおかしく書くだろうな。星海の聖女は、出戻りだった、って」

 オリアスの手のなかで身体を捩り、ふりかえって、ウィスタは相手の脇腹にこぶしを当てた。
 くぅ、という声をだし、オリアスは、だがもっと強く、彼女を抱きしめた。
 ウィスタはオリアスの肩のあたたかさを感じながら、腕を彼の背にまわした。

 「……お妃《きさき》さまになんて、なれないよ。航帝《こうてい》陛下」
 「まだ、就任していない。それに俺は、妃なんかいらない。聖女もいらない。俺は……」

 互いの胸の紋章が、厚い船乗りの衣服のうえからでもわかるほど、つよく輝いている。蒼く、蒼く、いま彼らを囲む海原のように。

 「俺は、君に、いてほしい。港町を走って、服のままで海に飛び込んで、巫女のくせに酒が大好きで、すぐ怒るのに、すぐ泣いて。海のすべてに愛されて、海のすべてを、愛して。そういうウィスタに、いてほしい」
 「……」
 「結婚してくれないか、ウィストアギネス・アスタレビオ」

 とおい島から、気流にのってながされてきた桃色の花びらが、オリアスの背におちた。
 ウィスタはそれを眺めながら、目を閉じた。
 このおおきな幸福の中で、呼吸をする方法すら失念しかけている。
 花びらを摘みとる能力など残っていようはずもない。

 ふたりに寄せてくる風の温度が上昇したのは、おそらく、海神の羞恥によるものだろう。

 
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