さくらびと。本編
第1章 桜の下の出会い
春の陽光が、精神科科病院の窓ガラスを優しく撫でる。
看護師の桜井蕾は、白衣のポケットに手を入れ、中庭へと続く廊下を歩いていた。
毎年この季節になると、彼女の心には、2年前にこの病院で亡くなった、まだ二十歳だった患者 猪尾 千尋の笑顔が蘇る。
まだ若く、将来を嘱望されていた患者、千尋。彼女はこの院内で、自らの命を絶ったのだ。
蕾は、千尋の顔を思い浮かべた。
いつも明るく、感謝の言葉を口にしていた彼女。
器用に小さい折り紙で、鶴をたくさん折るのが上手だった。
いつも他愛ない話しに花を咲かせていたはずなのに。
あの時、自分に何ができたのだろうか。後悔の念が、蕾の奥底の心の中を今でも締め付けている。
彼女は毎年春になると、千尋がいつも大好きだった中庭の桜の木の下で、静かに桜を見るのが習慣となっていた。
「今日も、静かだね。」
蕾は、桜の蕾がほころび始めた木を見上げながら、そっと呟いた。
昨年の今頃も、ここで一人、千尋との思い出に浸っていた。
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