さくらびと。 蝶 番外編(1)
翌朝、私は出勤すると、ナースステーションの異様な静けさに愕然とした。
普段は賑やかな場所が、まるで時間が止まったかのように、重々しい沈黙に包まれていた。
洗面台の隅に、無造作に置かれたアンビューマスク。
消毒液に浸されたそれが、まるで千尋さんの最期を物語っているかのようだった。
嫌な予感が確信に変わった瞬間だった。
「千尋さんのこと、本当なんですか...」
絞り出すような声で、私は尋ねた。
葉山さんは、何も言えず、ただ俯いて、ナースステーションで静かに涙を流していた。
その姿を見て、私はもう、何もかもが分かった。
千尋さんが、逝ってしまった。
私の大切にしていた、患者さんが、、亡くなった。
立ち尽くす私に、周りの看護師たちが心配そうに声をかけてくれたが、仕事が終わった後も何も耳に入らなかった。
あれだけ高圧的だった板垣先生も驚いて暫く何も言葉にしなかったらしい。
ただ、千尋さんの顔だけが、脳裏に焼き付いて離れない。
彼女の笑顔、彼女の言葉、彼女との思い出。
全てが、走馬灯のように駆け巡る。
もし、あの時、もっと彼女の心に寄り添えていたら。
もし、あの時、板垣先生にもっと強く訴えていたら。
もし、あの時、彼女の自殺を食い止められていたら。
後悔の念が、波のように押し寄せ、私を溺れさせようとした。
千尋さんの死は、私に深い悲しみと、命の尊さについて、改めて考えさせるきっかけとなった。
彼女の命を救えなかった自分を、私は一生許せないだろう。
しかし、それでも、私は前を向かなければならない。
千尋さんの分まで、精一杯生きていくしかない現実。
彼女の最期の願いを、叶えるために。
千尋さんのいない桜並木を、私はこれから一人で歩いていくのだろう。
それでも、きっと、桜の花は、毎年変わらず私を優しく包み込んでいく。