美術室の花園

最低な恋愛

透明な白の中に、ぽつぽつと淡い青が浮かんでいる。

 初め、それは空気中に浮かんでいるものかと思っていたが、どうやら俺のまつげの上を滑るつやだったらしい。かすかにゆれて震えるまつげの細い影を追いながら、俺は昨夜抱いていた女の熱が、身体中の至るところに、未だに残っていることを知った。徐々に覚醒(かくせい)してゆく。白く見えていたものは、空を覆ううすい雲を通した陽光だった。

 伸ばされた右腕を見やると、橙の髪が白い輪郭を浮かべてこぼれていた。

 奈保美の裸体は、俺のからだにひたりとくっついて、しっとりとつやめいて汗ばんでいる。眠って時間が流れたというのに、快楽の波は、彼女の火照(ほて)った肉体(からだ)から、蒸気となって離れなかったらしい。

輪郭がしろく溶け、背後の壁の色と交わり、かすかな蒸気があがり、朝の冷えたひかりを吸い込んで、肌をほのかに包んでいる。

 体臭と、精液のなまめかしいにおいと、澄んだきよらかな朝の水とひだまりのにおいが、入り混じっていた。重くない、さらりとした初夏のような湿度が、肌をしずかに撫でている。


「……奈保美」


 俺は、意識せずに声に出していた。

 奈保美は、その声に反応したのか、タイミングが合ったのかわからないが、うっすらとまぶたをひらく。

彼女の今日が、始まる。

琥珀の瞳は、はじめはぼんやりと朧な気配を浮かべていたが、徐々に俺の裸体をうつし、透明に覚醒していった。


「……春一郎くん。はじめて呼び捨てで、呼んでくれたね」


「心の中では、ずっとそう呼んでたんだけど」


「これからも、そう呼んでおくれよ」


「……あー、なんかあんたから言われると恥ずかしい。やっぱ、まだ『さん』付けのほうが落ち着くかも」


 肉感的な奈保美の剥き出しの肩と、鎖骨から目を逸らす。俺たちは繋がった事実だけを残し、そこにある幸福感だけに満たされながら、罪を犯した現実から目を背けるように、そんな初恋の相手との初体験後のような会話をしていた。

 日差しがまぶしく、窓の紗のカーテンをそっと閉めると、ふたたび薄闇があたりを覆った。

俺は奈保美のからだが、まだ湿っているのを確認する。彼女はまだ俺を求めていた。

 薄闇の中で、獣の本能に身を任せ、黒い眸を鈍くひからすと、俺はくずおれている女に、ふたたび覆い被さった。

 奈保美の泉の中で幾度か果て、濡れてからまったふたつの肉体がようやく剥がれたのは、昼過ぎだった。

太陽が天高くのぼり、カーテンの隙間や織のはざまから、強く清らかなひかりがこちらへやってこようと足掻(あが)いていた。

掛け布団から()き出しになった奈保美の肩甲骨(けんこうこつ)は、荒く蒸気して汗のしずくを浮かべている。右の肩甲骨の終わりから背すじを走り、尻のはじまりまでに流れる傷を、俺は右手のゆびさきで、そっと撫でた。

 奈保美は感じるようで、びくりと跳ねたが、数秒震えると、やがてしずかに俺の動きに身を任せていった。

俺が傷の終わりまで辿り着くころには、背中の汗の粒は増え、体温は一温ほど高くなっていた。

ゆびを離すと尻が震え、汗がシーツへとこぼれて消えてゆく。より肌はつやめいて、小麦色にひかっていた。

 俺は離したゆびを宙に泳がすと、奈保美のくびれた腰にそっと当て、砂をなぞるように撫でて、からだを表へ仰向けた。

無駄な肉がないと思われていた奈保美の腰は、ゆびを当てると脂肪の弾力がする。抱いた者しか知らない彼女の贅肉(ぜいにく)だと思うと、ぞくぞくと背筋を熱いものが走った。

 うすくはにかんだ。奈保美に俺の顔は見えていない。

 奈保美の胸は、彼女のからだの上に乗り、水に浸けられた(もち)のようにたゆたっていた。

 俺の五本のゆびを全て受け止めて、喰らうほどの大きさのそれに、ふたたび手を伸ばそうとした刹那、強い力で手首は彼女の右手に拘束された。


「……ごめん、疲れた。少し休ませてくれ」


 手首を摑む手が、語尾の余韻と共にゆるむ。

やわらかく皮膚がふれている感覚だけが残る。それと、あまいしびれが。

かすかに湿ったてのひらは、ひたりと手首の肌に吸い付いた。

 仰向けになった奈保美は、俺に一瞥(いちべつ)もくれず、まぶたを閉じて天を向いていた。両腕をかるくひらき、淡い自然光を、胸筋や二の腕に浴びるその姿と反して、火照ってうす紅に染まり、汗のしずくを浮かべ、苦しそうに眉を寄せた顔は扇状的(せんじょうてき)で、罪深かった。暑くなったからだを、冷まそうとするように。

 焼き付けるようにその肉体をみつめてから、しずかに視線を逸らした。

 俺も吐息をついた。無限の性欲があるように感じていたが、やはりからだは落ち着くと、きちんと疲れている。


「……本当に最低な女だ。私は」


 奈保美は乾いたわらいをこぼすと、片手をゆっくりと持ちあげ、己の手の甲に浮いた骨を、まぶたを伏せて眺めていた。彼女の視界がぼやけているのか、くっきりと見えているのかはわからなかった。そして、あきらめたように、その甲を汗ばんだ額の上にのせる。


「相手がいるのに、君みたいな若い男の子と、関係を持つなんて」


 歪んだ声だった。額に乗せられた手がゆるりと動き、まぶたの上に来ると、影で消された瞳の端から、ひとすじの涙が汗と混じって、彼女のうすいこめかみへと流れてゆく。髪を濡らし、橙の中に溶けていった。

__あれを舐めれば、罪の味がするんだろうか。


「……若くもねぇよ。もう二十七のおっさんだ」


「三十七の私からしたら、まだこどもみたいなもんだ」


「セックスしといて、ガキ扱いはねえだろ」


「はは、そりゃそうだね……」


 奈保美がわらうと、からだの上で胸がたゆたった。しっかりとした重みを持つ双丘(そうきゅう)のはざまに、健康的なつやの線と汗が、弧を描いて流れる。


「あんたのことが、ずっとすきだった」


 奈保美はわらいを止めて、動かなくなった。

 時計の針は、チクタクとかすかな音で空気を裂いているというのに、俺と彼女のあいだだけ、時が止まっていた。

ふしぎに澄んだ空気が、今は苦しかった

代わりに、ベッドに扇のように広がっていた橙の髪が、絵の具をこぼしたように、線を描いてさらに広く流れた。

 あのときから、動き出したものなど、何もなかったのかも知れない。停滞して、飴色(あめいろ)の思い出にずっと浸っていた。

からだだけがでかくなり、いろいろな女が通り過ぎていっただけで。

俺の心は、あの秋のいろに染まった、墨の乾いたにおいのするアトリエに留まっていたんだ。

 この日、罪を犯すのは決まっていたのかもしれない。

 あのときから途切れず、奈保美への想いの糸がぴんと張って、一方的に先を尖らせて、記憶の奥底のおもかげへと、向かい続けていた。


「いつから?」


 奈保美の吐息混じりの声が聞こえる。

腕を動かし、すらりと伸びた長い腕が、彼女の顔の上を斜めに走る。朝の淡い日差しが腕に、にぶく白いひかりのすじを走らせ、細い肉をほのかに浮きあがらせて。


「公園で、あんたが歌っているのを見たときから。その日の晩、俺はあんたで抜いた」


 奈保美の瑞々(みずみず)しいわらい声が、かたわらで鳴る。泣いているようにも聞こえる温度で。


「だからその後、アトリエで会った時に、あんなに喧嘩腰だったんだね」


「あー……」


「恥ずかしかったんでしょ?」


「まあ……そう、ね」


 俺は額を片手で拭った。前髪がゆれて跳ねる。


「それから、私と別れたじゃないか。その後も、ずっとすきでいてくれたの?」


「……あんたに背格好や体型が似ている女と遊んでは、興味なくなればすぐに縁を切った。薄情で、自分勝手な恋愛ばっかしてきたな」


「はは……最低だね。ほんと」


 俺は他人事のように、かすかに上を向いた。透明な空気が螺旋(らせん)を描いて、部屋のすみのほうで泳いでいた。顎の下に汗が溜まっていたようで、すうすうとつめたい。


「あんたはどうなんだ。俺を受け入れたっていうことは、あんたも俺のこと想ってくれてたんじゃねえのか。俺はあんたをそういう目で見てきたが、あんたも、本当はそういう目で俺を見ていたときがあったんじゃねえのか。十年前の話だが」


 上体を起こすと、奈保美は自然と離れた。

 肩を落とし、前屈みになると、俺は睨むように奈保美の肢体に視線を向けた。

肌が離れたというのに、むせるような女のにおいが未だに皮膚のいたるところへ、特に下半身の中央から薫っている。それだけでぼんやりとする。

俺たちのあいだに膜を張ろうとしていた理性が破れ、剥き出しの本能が鎌首をもたげはじめる。また彼女を喰らって、互いの境がわからなくなるほど熱く溶け合いたい。喉元まで競りあがるそれは、全身の血流をあたためて盛っていた。こんな獰猛な本能が、からだにあったことに驚く。


「本当のことを言うよ。確かにあった。それは認める」


 奈保美が腕をずらして顔を出す。瞳はうるんで、生まれたての透明な涙で覆われていた。 

 俺は期待に満ちた顔で、奈保美のほうをまっすぐに見た。先ほどよりも視界がクリアになって、きらきらとした汚い感情が空気中を舞っていた。

 奈保美のほうへ前のめりになり、そのまま倒れそうになるのを、片腕をぴんと立てて抑えていた。


「だけど君とは、こんな形でセックスしたくなかった。したくなかったんだ。もう一度会えるのならば、またともだちとして始めたかった。君のことが、だいすきだから 関係が歪になるのが嫌だったんだ。なのに__」


 奈保美は二の腕をまぶたに当て、顔を隠した。声が震えていた。


「お互いにすきだということに、なんとなく気づいていたとしても、話しているだけでしあわせで、別に想いを伝えなくてもいい恋愛の形もあるじゃない 一度でも肉体関係になってしまえば、もうそういった関係には戻れないじゃないか」


 腕と顔のあいだから、さらに重みを持った涙のしずくが、こめかみへとこぼれる。透明なそれは、彼女のなまめかしい肌の色を、硝子のように反射して歪ませてうつしていた。

 カーテンの裏側に手を差し入れ、鍵をそっと上向けて、窓をしずかに開ける。少しだけの隙間から、風がこぼれ入ってくる。やわらかでつめたく、かなしい風だった。湿度はなく、不自然なほどさらりと乾いて消えてゆく。俺の肌を触って、奈保美の肌にも届いただろうか。

 俺は半分まぶたを伏せて、奈保美が泣き止むまで、ただ風を受けていた。窓際の青磁の花瓶に生けられた彼岸花が、一輪、空間を割くほどに真っ赤に咲いていたようだが、その時は曇り硝子を通した薄青い世界しか、視界に入っていなかった。

 屑な俺は、彼女の泣き声を聞きながら、頭の中を覆っていた、昨夜のあまく掠れた鳴き声を思い返していた。
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