君と越えるブルー
第1話
薄桃色に染まっていた街の木々は、すっかりと鮮やかな緑の葉を茂らせていた。
五月上旬。市の総合プールのエントランスを、慌ただしく東潮ノ台高校――通称「潮高」の男子水泳部の面々が駆けていく。
「コーチの話が長いから!」
時間通りちゃんと来たのにと愚痴を零す生徒たち。
「すまん、すまん」
と、先頭を走るコーチは彼らを軽く振り返りながら頭を掻いた。今年のインターハイに向けた初めての競技大会だ。つい気合いが入りすぎたと弁明している。
「なごちゃん、ごめんね。手伝いに来てくれたのに、こんなにバタバタで」
その最後尾、彼らについて懸命に走る女子二人。東潮ノ台高校三年生の天野環は申し訳なさそうに眉を下げて、後輩の笹原和を見た。
「私は全然大丈夫ですよ」
こういうのも楽しいです、と和は笑って返す。
「どうせ、なごは休日ゴロゴロしてるだけなんで」
ひとつ前を走る青木大地が振り返って言う。
「余計なこと言わないで」
と、和は大地を睨んだ。
和と大地は生まれたときから隣の家に住む幼馴染だ。環とは和と大地が小学生のころに通っていたスイミングスクールが一緒だったこともあり、昔から交流があった。
今年の春、二人は環がいる東潮ノ台高校に進学し、ずっと水泳を続けて来た大地は水泳部に入部した。和は帰宅部なのだけれど、今日はもう一人のマネージャーが体調不良で来られなくなったため、和に白羽の矢が立ったのだ。
「選手登録、間もなく締切でーす。まだの学校は急いでくださーい」
通路にアナウンスの声が響く。環が「やばっ」と声を上げた。
「選手登録行かなくちゃ……!」
「荷物は私がベンチまで運んでおくので、行ってください!」
「本当に助かる、ありがとう!」
環は抱えていたクーラーボックスを床に置く。お願いします、と和よりも二つ年上であるにも関わらず、彼女は丁寧に頭を下げて本部のほうへと向かっていった。
「なご。荷物、運ぶの手伝う」
やり取りを見ていて同じように足を止めた大地に、和は「こっちは大丈夫だから」と首を横に振った。
「手伝うなら、環さんのほうについて行ったほうが良いかも」
ほら、と環のほうへ和は視線を向ける。本部の前、選手登録の締切が迫っているため焦っているのだろう。環はスクールバッグを床に置いて、その中をごそごそと漁っていた。登録用の紙を上手く見つけられていないようだ。
「あー……そう、だな」
「うん、あっちが急ぎ」
「……防犯ブザー、ちゃんと持ってる?」
大地はそう言って、心配そうな瞳で和の首元を見る。和は「うん」と頷いて、首にストラップで掛けた黄色い防犯ブザーを軽く上げて見せた。
「なにかあったら、すぐに鳴らせよ」
「分かってるって。大丈夫だよ」
心配性だな、と和は笑いながら大地の腕を軽く叩いた。大地はそれに少しだけ眉を顰めたけれど、和に「早く行きなって」と促されると、若干の躊躇いを見せながらも環のほうへと走って行った。
和は、そんな幼馴染の――大地の背中を見て小さく溜息を吐く。
環に声を掛ける大地の優しい目の意味を知っている。
――いい加減、手離してあげたいな。
もう何年もそう思っているのに上手くいかない。
焦ってはいけないよと病院の先生にも言われているけれど、しつこく自分の中に居座る恐怖心に焦燥ばかり募る。和はもう一度、深く息を吐き出した。
和は環が置いて行ったクーラーボックスを肩に掛ける。中にはドリンクが入っていて、その重さが華奢な肩にずっしりと乗った。
「おも……っ」
思わず低く声が漏れる。
自分には「こっちを持っていって」と丸めたストレッチ用のマットを渡してくれた環の優しさが胸に沁みた。
クーラーボックスを持つために一度床に置いていたストレッチマットを抱え上げた拍子、足元がふらつく。そのせいで自分の横を通り抜けていく他校の生徒にぶつかりそうになり、和は「すみません」と頭を下げた。
この荷物は控え場所になっている観覧席に持って行くことになっている。
いつも以上に重力を感じる体。その重さに俯き加減になりながら、そこへ向かおうとしたときだ。
「持つよ、それ」
不意に降って来た声に、和は驚いて顔を上げた。
和よりも頭一つ分背の高い男の子と目が合う。その人が纏っているジャージは、先程和がぶつかりそうになった学校の人と同じものだった。
「えっ……」
和の喉が狭まる。掠れた音が喉で途切れた。
「重そうだから」
和の肩に掛かったクーラーボックスを、名前も知らないその人は、和の返事を待たずにひょいと軽々和から攫って行った。
「潮高の人?」
制服、とその人は和のセーラー服の襟元についた校章を指差す。
「あ……はい、そうです」
「わかった」
その人は、サラサラとした長い前髪を小さく揺らして頷いた。当たり前のように歩いていくその人の背中を和はハッとして追いかける。
広い背中には「南藤井第一高校」とプリントされていた。そこの水泳部の人だろうか、と和は、「知らない男の人に話しかけられた」という思考で頭がいっぱいにならないように考えていた。バクバクと早鐘を打ちそうになる心臓に、手伝ってくれている人に失礼だ、と言い聞かせる。
観覧席に出ると、塩素の香りが和の鼻をくすぐった。爽やかなブルーに染まるプールが中央に堂々と設置されている。
間もなく始まる大会に、会場は既に部員たちの熱気で溢れていた。
ベンチには学校名の紙がテープ留めされている。和はひとつずつ目で追い、東潮ノ台の文字を探した。
「ここに置いておいたらいい?」
潮高の控え場所を先に見つけたのは、前を歩く南藤井第一の男の子だったようだ。彼は和を振り返ると、ベンチのひとつを指差す。
「あ……はい! そこで、大丈夫、です」
和は声を上擦らせながらコクコクと頷く。
うん、とその人は短く頷くとクーラーボックスをグリーンのベンチの上に置いた。じゃあ、とそのまま去ろうとするその人の腕を掴んで、和は慌てて引き止めた。
「あのっ、ありがとうございました!」
助かりました、と和は続けて微笑む。実際、クーラーボックスとストレッチマットはとても重たかったから助かった。
けれど、その人からの返事はなく、妙な沈黙が流れる。和はその沈黙が気になって、思わずパチパチと瞬きをした。
一拍置いて、ふい、と視線が逸らされる。それと一緒に、いや、と小さな声が返ってきたような気がした。
「なる」
誰かのその声に彼はぴくりと体を震わせ、そして振り返った。
「ミーティングするってー」
振り向いた彼のほうへ和も視線を向けると、同じ南藤井第一のジャージに身を包んだ男の子が手招いていた。
「すぐ行く」
「なる」と呼ばれたその人は短くそう返事をすると、和に軽く会釈をして去っていった。
「なご」
つい、その背中に見惚れていた。大地の呼びかけに、和は肩を揺らして振り向く。
「あ、大地。選手登録、無事に終わった?」
「あ、大地。じゃない。大丈夫か?」
なんか変なことされたりとか、と大地は眉間に皺を寄せる。
「失礼なこと言わないでよ。荷物をここまで運ぶのを手伝ってくれただけ」
「そ、そっか」と、大地はあからさまにホッとした表情を見せる。それから、ふとさっきまでここにいた人の姿を追うように視線を動かした。それから、「あれ?」と瞳を瞬かせる。
「あいつ、藤原鳴海じゃん」
「大地の知ってる人だったの?」
和は首を傾げる。
「知ってるっつーか。中学のとき、俺、いっつもあいつにタッチの差で負けててさ」
大地は悔しそうに口元を歪ませた。
「中三のときにリベンジだって思ってたんだけど、そのときいなかったんだよな。てっきり、辞めたのかと思ってた」
今日は出るのかな、出るなら絶対勝つ。と大地は一層瞳の炎を燃やす。
和は大地から鳴海がいたほうを見た。けれどそこにはもう、彼の姿はなかった。いつの間にか、嫌な鼓動の加速も落ち着いていた。
五月上旬。市の総合プールのエントランスを、慌ただしく東潮ノ台高校――通称「潮高」の男子水泳部の面々が駆けていく。
「コーチの話が長いから!」
時間通りちゃんと来たのにと愚痴を零す生徒たち。
「すまん、すまん」
と、先頭を走るコーチは彼らを軽く振り返りながら頭を掻いた。今年のインターハイに向けた初めての競技大会だ。つい気合いが入りすぎたと弁明している。
「なごちゃん、ごめんね。手伝いに来てくれたのに、こんなにバタバタで」
その最後尾、彼らについて懸命に走る女子二人。東潮ノ台高校三年生の天野環は申し訳なさそうに眉を下げて、後輩の笹原和を見た。
「私は全然大丈夫ですよ」
こういうのも楽しいです、と和は笑って返す。
「どうせ、なごは休日ゴロゴロしてるだけなんで」
ひとつ前を走る青木大地が振り返って言う。
「余計なこと言わないで」
と、和は大地を睨んだ。
和と大地は生まれたときから隣の家に住む幼馴染だ。環とは和と大地が小学生のころに通っていたスイミングスクールが一緒だったこともあり、昔から交流があった。
今年の春、二人は環がいる東潮ノ台高校に進学し、ずっと水泳を続けて来た大地は水泳部に入部した。和は帰宅部なのだけれど、今日はもう一人のマネージャーが体調不良で来られなくなったため、和に白羽の矢が立ったのだ。
「選手登録、間もなく締切でーす。まだの学校は急いでくださーい」
通路にアナウンスの声が響く。環が「やばっ」と声を上げた。
「選手登録行かなくちゃ……!」
「荷物は私がベンチまで運んでおくので、行ってください!」
「本当に助かる、ありがとう!」
環は抱えていたクーラーボックスを床に置く。お願いします、と和よりも二つ年上であるにも関わらず、彼女は丁寧に頭を下げて本部のほうへと向かっていった。
「なご。荷物、運ぶの手伝う」
やり取りを見ていて同じように足を止めた大地に、和は「こっちは大丈夫だから」と首を横に振った。
「手伝うなら、環さんのほうについて行ったほうが良いかも」
ほら、と環のほうへ和は視線を向ける。本部の前、選手登録の締切が迫っているため焦っているのだろう。環はスクールバッグを床に置いて、その中をごそごそと漁っていた。登録用の紙を上手く見つけられていないようだ。
「あー……そう、だな」
「うん、あっちが急ぎ」
「……防犯ブザー、ちゃんと持ってる?」
大地はそう言って、心配そうな瞳で和の首元を見る。和は「うん」と頷いて、首にストラップで掛けた黄色い防犯ブザーを軽く上げて見せた。
「なにかあったら、すぐに鳴らせよ」
「分かってるって。大丈夫だよ」
心配性だな、と和は笑いながら大地の腕を軽く叩いた。大地はそれに少しだけ眉を顰めたけれど、和に「早く行きなって」と促されると、若干の躊躇いを見せながらも環のほうへと走って行った。
和は、そんな幼馴染の――大地の背中を見て小さく溜息を吐く。
環に声を掛ける大地の優しい目の意味を知っている。
――いい加減、手離してあげたいな。
もう何年もそう思っているのに上手くいかない。
焦ってはいけないよと病院の先生にも言われているけれど、しつこく自分の中に居座る恐怖心に焦燥ばかり募る。和はもう一度、深く息を吐き出した。
和は環が置いて行ったクーラーボックスを肩に掛ける。中にはドリンクが入っていて、その重さが華奢な肩にずっしりと乗った。
「おも……っ」
思わず低く声が漏れる。
自分には「こっちを持っていって」と丸めたストレッチ用のマットを渡してくれた環の優しさが胸に沁みた。
クーラーボックスを持つために一度床に置いていたストレッチマットを抱え上げた拍子、足元がふらつく。そのせいで自分の横を通り抜けていく他校の生徒にぶつかりそうになり、和は「すみません」と頭を下げた。
この荷物は控え場所になっている観覧席に持って行くことになっている。
いつも以上に重力を感じる体。その重さに俯き加減になりながら、そこへ向かおうとしたときだ。
「持つよ、それ」
不意に降って来た声に、和は驚いて顔を上げた。
和よりも頭一つ分背の高い男の子と目が合う。その人が纏っているジャージは、先程和がぶつかりそうになった学校の人と同じものだった。
「えっ……」
和の喉が狭まる。掠れた音が喉で途切れた。
「重そうだから」
和の肩に掛かったクーラーボックスを、名前も知らないその人は、和の返事を待たずにひょいと軽々和から攫って行った。
「潮高の人?」
制服、とその人は和のセーラー服の襟元についた校章を指差す。
「あ……はい、そうです」
「わかった」
その人は、サラサラとした長い前髪を小さく揺らして頷いた。当たり前のように歩いていくその人の背中を和はハッとして追いかける。
広い背中には「南藤井第一高校」とプリントされていた。そこの水泳部の人だろうか、と和は、「知らない男の人に話しかけられた」という思考で頭がいっぱいにならないように考えていた。バクバクと早鐘を打ちそうになる心臓に、手伝ってくれている人に失礼だ、と言い聞かせる。
観覧席に出ると、塩素の香りが和の鼻をくすぐった。爽やかなブルーに染まるプールが中央に堂々と設置されている。
間もなく始まる大会に、会場は既に部員たちの熱気で溢れていた。
ベンチには学校名の紙がテープ留めされている。和はひとつずつ目で追い、東潮ノ台の文字を探した。
「ここに置いておいたらいい?」
潮高の控え場所を先に見つけたのは、前を歩く南藤井第一の男の子だったようだ。彼は和を振り返ると、ベンチのひとつを指差す。
「あ……はい! そこで、大丈夫、です」
和は声を上擦らせながらコクコクと頷く。
うん、とその人は短く頷くとクーラーボックスをグリーンのベンチの上に置いた。じゃあ、とそのまま去ろうとするその人の腕を掴んで、和は慌てて引き止めた。
「あのっ、ありがとうございました!」
助かりました、と和は続けて微笑む。実際、クーラーボックスとストレッチマットはとても重たかったから助かった。
けれど、その人からの返事はなく、妙な沈黙が流れる。和はその沈黙が気になって、思わずパチパチと瞬きをした。
一拍置いて、ふい、と視線が逸らされる。それと一緒に、いや、と小さな声が返ってきたような気がした。
「なる」
誰かのその声に彼はぴくりと体を震わせ、そして振り返った。
「ミーティングするってー」
振り向いた彼のほうへ和も視線を向けると、同じ南藤井第一のジャージに身を包んだ男の子が手招いていた。
「すぐ行く」
「なる」と呼ばれたその人は短くそう返事をすると、和に軽く会釈をして去っていった。
「なご」
つい、その背中に見惚れていた。大地の呼びかけに、和は肩を揺らして振り向く。
「あ、大地。選手登録、無事に終わった?」
「あ、大地。じゃない。大丈夫か?」
なんか変なことされたりとか、と大地は眉間に皺を寄せる。
「失礼なこと言わないでよ。荷物をここまで運ぶのを手伝ってくれただけ」
「そ、そっか」と、大地はあからさまにホッとした表情を見せる。それから、ふとさっきまでここにいた人の姿を追うように視線を動かした。それから、「あれ?」と瞳を瞬かせる。
「あいつ、藤原鳴海じゃん」
「大地の知ってる人だったの?」
和は首を傾げる。
「知ってるっつーか。中学のとき、俺、いっつもあいつにタッチの差で負けててさ」
大地は悔しそうに口元を歪ませた。
「中三のときにリベンジだって思ってたんだけど、そのときいなかったんだよな。てっきり、辞めたのかと思ってた」
今日は出るのかな、出るなら絶対勝つ。と大地は一層瞳の炎を燃やす。
和は大地から鳴海がいたほうを見た。けれどそこにはもう、彼の姿はなかった。いつの間にか、嫌な鼓動の加速も落ち着いていた。
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