一週間だけの妻 〜冷酷御曹司と秘密の契約結婚〜

第五章 夜明けの余波

 夜の泡は弾け、灯りはいつの間にか遠ざかっていた。

 目を開けると、カーテンの縁が乳白に濡れている。
 冬の朝の光は冷たく、ベッドサイドの雪の結晶チャームが細く鳴った。
 携帯の通知が積もり、画面は静かな騒音で満ちている。

「……また、記事」

 指先でスワイプすると、昨夜のボールルームの写真が粗い影のまま並んだ。
 〈バルコニーで見つめ合う二人〉〈群青の女は誰〉。
 どれもピントは甘いのに、言葉だけが正確に心へ到達する。

 額に手を当てると、熱はない。
 ただ、胸の奥のどこかだけが少し赤く腫れているみたいだった。
 ゆっくり起き上がり、髪をまとめ、ガウンを羽織ってリビングへ出る。

 大きな窓が空の色を連れて部屋いっぱいに広がっていた。
 灰青の雲間から差す細い光が、クリスタルの花器を静かに照らす。
 キッチンへ向かい、カップへお湯を落とす。
 カモミール。昨夜のあたたかさが、まだ棚の奥に眠っている。

「起きたか」

 背後で低い声。振り返ると、黒のシャツにジャケットを肩掛けした柊真が、ソファの背にもたれていた。
 結ばれないタイが喉元でゆるく揺れ、銀糸の髪はいつもより少しだけ乱れている。

「おはようございます。……すみません、起こしてしまいました?」

「眠っていなかった」
 短く答え、彼は手首の時計に視線を落とす。
「準備はいいか。九時に会議、その後に広報対策。昼は軽くで済む。——午後はオフにする」

「オフ……?」

「無駄に消耗するな。昨夜の余波が出る」

 言われて初めて、脚の奥が微かに重いと気づく。
 頷くと、彼はまるで書類を片づけるみたいに淡々と続けた。

「午前は同席しろ。俺の隣から、離れるな」
「……はい」

 返事をした瞬間、スマートフォンが震えた。
 〈速報:二年前の慈善ガラで並ぶ二人——城之内アリアと後継者〉
 過去写真まで引っ張り出されている。
 記事のスクロールを止めると、彼の影が私の前に落ちた。

「見るな」
「でも、仕事の関係者も見てしまうから……」

「神城が潰す。——お前は立っていればいい」

 言い方は乱暴なのに、そこに甘さが混じるのを私は知っている。
 守られるために立っているのか、並ぶために立っているのか。
 曖昧な答えのまま、熱いカモミールの湯気を吸い込んだ。

「朝食は?」

「少しだけ……」

 言い終える前に、彼はインターホンへ指示を飛ばす。
 ほどなく届いたプレートには、白粥と温野菜、蜂蜜を落としたヨーグルト。
 私は匙を取り、ひと口すくう。
 驚くほどやさしい温度が、喉の奥の緊張を解いていく。

「無理をするな」
「はい」

「顔色は悪くない。——目が少し赤い」

「寝不足だと思います」

「なら、今日の午後は眠れ」

 命令形なのに、まるで“おやすみ”と言われたみたいで、胸が温かくなる。
 彼はジャケットを羽織り、玄関へ向かいながら振り返った。

「行くぞ。笑え。……八では足りない。今日は九を取れ」

「欲張りです」

「知っている」

 軽い応酬が、心の芯に一本の線を引いた。
 私は群青ではなく、午前用の柔らかなクリーム色のセットアップに袖を通す。
 鏡の中で、翡翠色の瞳が少しだけ凛として見えた。



 会議室の空気は、紙とインクの匂いが支配していた。
 長机の上で、タブレットと資料の角がぴたりとそろう。
 幹部たちの視線は礼儀正しく、しかし各々の電卓が見えないところで忙しくはじかれているのが、空気の圧でわかる。

「昨夜の件は法務・広報で対応済みです」
 神城が手短に告げる。
「アカウントの発信源は分散。写真は解析で否定可能。——ただし“曖昧な影”のほうがよく拡散します」

 曖昧な影。
 私は自分の手を膝の上で重ねた。
 柊真は一度だけ視線を流し、必要な修正案を的確に指示していく。

「スポンサー各社に説明を入れろ。礼子にも一報。……彩音は午後、動線を最小化する」
「承知しました」

 会議が終わり、廊下に出ると、窓の外は薄い陽光で満ちていた。
 私はふっと息を吐き、腰にかかる緊張を撫で下ろす。
 そのとき、少し離れた柱の影で、二人の若い社員が囁き合うのが見えた。

「ねえ、あの記事——」
「ダメだよ、ここで。……でも、奥さん、綺麗だったよね」

 綺麗。
 昨日、彼が耳元で落とした言葉が、静かに重なった。
 “綺麗だ”。
 その一語のためだけに、私は今日も笑える気がした。

「彩音」

 呼ばれて振り向くと、柊真が手を差し出していた。
 いつものように、掌は温度を持たないふりをしながら、脈だけが確かに打っている。

「昼を軽く済ませる。——外気に当たるぞ」

 彼の提案で、屋上庭園へ出た。
 冬の陽がガラスの縁で細く砕け、植え込みのローズマリーが風に揺れている。
 白い息がふたつ、並んで立ちのぼる。

「寒くないか」

「平気です。……いい匂い。ローズマリー、すきです」

「覚えておく」

 短い返事。
 それだけで、名もない贈り物を受け取ったみたいに胸が温かくなる。
 ベンチへ腰かけると、彼はポケットから薄い袋を取り出し、私の膝の上に置いた。

「何ですか?」

「カイロだ。神城が渡してきた」

「神城さん、万能ですね」

「万能ではない。俺がいないと動かない」

「それは……ご自分でおっしゃいます?」

「事実だ」

 不意に笑ってしまい、彼も気配だけで口元をわずかに緩めた。
 風が少し強くなり、髪が頬にかかる。
 彼の手が反射のように伸び、さらりと髪を払った。
 触れたのはほんの一瞬。けれど、そこに指の温度が残る。

「——午後は休め」

「でも、あなたは」

「俺は構わない。お前が倒れると困る」

 契約の文法。
 それでも、言葉の影には別の意味がいつも潜んでいる。
 私は頷き、屋上庭園を後にした。



 午後、スイートに戻ると、静けさが耳に丸い輪を残した。
 ベッドの端に腰を下ろし、靴を脱ぐ。
 体が少しずつ重力へ沈むように、芯の疲れが遅れてやってくる。

 温かいシャワーを浴び、髪をまとめ、ハーブティーを淹れる。
 湯気が頬に触れた瞬間、ふっと目の奥の緊張が緩んだ。
 ベッドへ横になるつもりが、いつの間にか深く息を吸って、吐いて——。
 少しだけ眠ったのだと思う。

 夢の縁で、扉の開く音がした。
 目を開けると、淡い影が近づいてきて、視界がゆっくり焦点を結ぶ。

「熱があるな」

 額に触れた指は冷たく、やさしかった。
 自分の額から彼の手が離れる時、名残惜しい熱が皮膚に残る。

「……だいじょうぶ、です」

「だいじょうぶではない。頬が赤い」
 彼は躊躇のない動きで内線を取り、医師の往診と氷枕、スポーツドリンクを手際よく手配した。
「人は緊張が解けた直後に体調を崩す。——“余波”だ」

 余波。
 章題みたいに、彼の言葉が胸に落ちる。
 私は苦笑し、ベッドの上で体を丸めた。

「ごめんなさい。せっかく午後を……」

「謝るな。俺が決めた」

 すぐに氷枕が届き、彼はそれをタオルで包み直す。
 髪が濡れないように、手際よく位置を調整してくれる。
 横顔は無表情に近いのに、指先だけがやさしい。
 蜂蜜を溶かしたぬるい白湯が、唇へ触れた。

「少しずつ飲め」

「……はい」

 喉を通る甘さは、子どものころの救済の味だった。
 コップを受け取る彼の指が私の指に触れ、反射的に目が合う。
 視線が絡み、ほどける。
 彼は何も言わなかった。
 けれど沈黙は、言葉よりあたたかい。

「医師が十五分で来る。——それまで、眠れ」

「眠れない気がします」

「なら、目を閉じて俺の声だけ聞け」

 命令と、子守歌のあいだ。
 私は素直に目を閉じた。
 彼の声が、少し離れたところから淡く落ちてくる。

「神城、広報は指針どおりに。……ああ、母には俺から言う。——会場の写真流出源は見つけろ。現場の責任を問うつもりはない。構造を塞げ」

 低い声は、よく研がれた刃のように迷いがない。
 それでも、合間にときどき、私の名前がやわらかい音で混ざる。

「……彩音は休ませろ。ドア前の人員、増やせ。……ああ、静かにだ」

 彩音、と呼ばれるたび、胸の中の鼓動が静かに整った。
 眠気がゆっくり降りてきて、私は彼の音の底で半分だけ眠った。

 どのくらい時間が経ったのか、頬にやわらかな温度を感じて目を開ける。
 氷枕が少しぬるくなり、彼は新しいものへ交換していた。
 シャツの袖を肘まで折り、ネクタイを外した彼は、まるで別の人みたいに若く見える。

「……忙しいのに」

「俺の忙しさは俺が決める」

 それは傲慢なセリフのはずなのに、不思議と胸が痛くならない。
 私は唇を湿らせ、迷いながら口を開いた。

「昨夜……“綺麗だ”って言ってくれて、ありがとうございます」

 彼はわずかに固まり、それから視線を逸らした。
「覚えていない」

「嘘です」

「……契約だ。褒めるくらい、誰にでもできる」

「あなたは“誰にでも”はしない」

 言い切ると、彼は短く息を呑み、そして小さく笑った。
 笑うと、目元の形が少しだけ幼くなる。
 私はその変化が好きだと思ってしまい、慌ててまぶたを伏せた。

 やがて医師が来て、喉を診て、軽い発熱と過労だと言い、薬を置いて去った。
 部屋は再び静かになる。
 窓の向こうで、午後の光が薄く傾き始めていた。

「眠れ」

「眠ります。……隣にいますか?」

「いる」

 短い答えが、布団の上に落ちる。
 私は片手をそっと伸ばし、シーツの上を探る。
 彼の指先が、ためらいのあとでそれに触れた。
 軽く、確かに。

「——離れません」

 小声で言うと、彼の指が一度だけ強く握り返した。
「わかっている」

 まどろみが戻り、柔らかな闇が視界を満たしていく。
 その縁で、彼のスマートフォンが低く震えた。
 彼は指先で素早く操作し、声を落とす。

「……俺だ。——やはり来るのか。記者だけでなく、城之内も? ……笑わせるな。入れない」

 短い沈黙のあと、彼は「明朝は動線を完全に切る」と低く告げた。
 言葉の刃は容赦がないのに、私の手を握る力だけがやさしい。

 眠りへ沈む前、私は彼の名前を呼んでしまった。

「……柊真、さん」

 気づかれたくない本音みたいに、囁きは枕へ吸い込まれる。
 彼は答えなかった。
 代わりに、指先がそっと私の髪の端をすくい、落とす。

「——いい子だ」

 それが本当に聞こえたのか、夢の底の幻だったのかは分からない。
 ただ、胸の奥に静かな波紋が広がり、私はようやく深く眠った。



 夕暮れの手前で目を覚ますと、遠い赤が窓辺で燃えていた。
 体のだるさはまだ残っているが、熱は幾分、引いている。
 枕元の水は新しく、ベッド脇のスツールには蜂蜜のスティックと小さなメモ。

 ——「起きたら飲め。柊」

 短い字。
 私は笑いそうになって、堪えた。
 グラスに水を足し、蜂蜜を溶かす。
 甘さがのどを通ると、体の芯がゆっくり元の場所へ戻っていく。

 リビングから、低い話し声がした。
 ドアを少し開けると、神城が資料を抱えて立っていて、彼と短くやりとりをしている。

「——明朝、玄関の報道エリアはロープで仕切ります。裏口はクローズ。エレベーターホールは要員二名追加。奥様の動線はスイートから直通、車寄せに短距離」

「城之内は?」

「フロア出入り口で止めます。名目は安全管理」

「止まらなければ」

「止めます」

 神城が去ると、彼はゆっくりとソファに腰を下ろした。
 白いシャツの第一ボタンを外し、額に手を当てる。
 疲労の影が、ほんの少しだけ見える。
 私は思わず一歩踏み出してしまい、慌てて声を掛ける。

「……ごめんなさい。起きてしまいました」

 彼は立ち上がり、すぐに距離を詰める。
「熱は?」

「下がったみたいです。……ご迷惑を」

「迷惑ではない。契約だ」

「契約で、ここまでしてもらえるものなんですね」

 軽く笑って言うと、彼は目を細める。
「俺の契約は、条文に書かれていないことのほうが多い」

 条文にないこと。
 たとえば、デザートに蜂蜜を足すみたいな、小さな甘さ。
 私は頷き、ベッドの端に戻った。

「今夜は?」

「お前は休む。——俺は少しだけ出る」

「危ないのに」

「危なくない。……十時には戻る」

 時計の針が静かに進む音が聞こえる。
 私は雪の結晶チャームを指先で弾き、小さく鳴らした。

「行ってらっしゃい」

 彼は扉の前で立ち止まると、振り返り、わずかに口角を上げた。
 それは、練習で覚えた“笑ってみせる”の反対——不器用な“笑わせてくれる”だった。

「——行ってくる」

 静かに扉が閉まる。
 残された部屋に、穏やかな温度の余韻が落ちる。
 私は毛布を肩まで引き上げ、目を閉じた。

 噂は、きっと今日もどこかで泡立っている。
 けれど、泡が弾ける前に、私の中で固まっていくものがひとつある。
 離れない、という意思。
 彼の隣に立ちたい、という願い。

 九を目指す笑顔は、たぶんまだ拙い。
 それでも、夜明けの余波を越えた朝には、十に届くかもしれない。
 そう信じて、私は静かに眠りへ戻った。
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