潔癖症の松永先輩

27

 朝、目が覚めると昨日のだるさが嘘のように体がすっきりしていた。
 
 先輩の看病のおかげだな。
 本当に感謝してもしきれない。

 起き上がると、先輩が部屋の隅で壁にもたれて眠っているのが目に入った。
 
 ずっと、そばにいてくれたんだ。
 あんなところで寝て、体痛くないだろうか。
 でも横になれる場所なんてなかったよね。

 先輩にとっては、いろいろな意味で大変なことだっただろう。

 私は先輩のところへ行き、そっと声をかける。

「先輩、おはようございます」
「幸村さん……体調は大丈夫?」
「はい。もうすっかりよくなりました」
「そっか、良かった」

 薄っすらと目を開け、安心したように微笑む表情に胸が苦しくなる。

 誰よりも優しい先輩が、本当に好きだと思う。
 
「ずっとついていてくれて、ありがとうございました」
「ううん。じゃあ、僕は帰るね」

 先輩は立ち上がり、鞄を持つ。

「私も、行きます」
「病み上がりなんだから、家にいた方がいいよ」
「体調はもう大丈夫ですし、外の風にも当たりたいので」

 それに、話したいこともある。
 カーディガンを羽織り、一緒に家を出る。

 少し離れて並び、話をしながら、高架下を歩く。

「私の部屋、居心地悪かったですよね。掃除もちゃんとできてなくて……すみませんでした」
「そんなこと気にしないで、もっと頼ってよ。いや、今まで頼りにくくしてたのは僕だね。ごめん」
「先輩は悪くありません。私、先輩が潔癖症だってわかって付き合っていて、絶対に先輩が嫌だと思うようなことはしないと決めていたんです」

 それなのに、たくさん迷惑をかけてしまった。
 
 けれど先輩は私の言葉に首を横に振り、ポツリと話し始める。

 「僕は、物心ついた時から潔癖症だったんだと思う。母親が綺麗好きで、外から帰ってきたらまずお風呂に入る、手はこまめに洗う、少しでも服が汚れたら着替える、床には埃ひとつ落とさない。それが当たり前の生活だった。普通じゃないって気づいたのは小学生になってから。周りに変だって言われて、自分が潔癖症なんだって自覚した。でも自覚したからといって変えることなんてできなかった。汚れていることが不安で、怖いんだ。でも自覚したことで、人との関わり方も対処できるようになっていった」

 幼い頃からの当たり前の生活だったんだ。
 それが先輩の普通の生活なら、やっぱり無理していることがたくさんあるんだろうな。

「教えてくれて、ありがとうございます」
「この生活に、問題なんてないと思ってたんだけどね。幸村さんとのことだけは、全然上手くいかないんだ」

 上手くいかないと思ってたんだ。
 そうだよね。ずっと曖昧な状態だった。

 お互いの気持ちがわかっていなくて、どうしたらいいのかわからなかったんだから。

 でも気付いた。

 だから、私から伝えないといけない。

「ずっと、先輩の気持ちがわからなかったんです。どうして、こんなに私のしていることを否定するんだろう、どうして、好きだけじゃだめなんだろうって。でも、わかりました。私も、先輩に無理してほしくないです。だから……別れましょう」

 絞り出した声が、震える。
 別れたいなんて思っていない。

「幸村さん……」

「私、先輩のこと好きです。それと同じくらい、苦しい思いもあるんです。先輩も、同じなんですよね? 私たち、一緒にいないほうがいいんだと思います」

 お互いのために、別れた方がいいんだ。
 そう言い聞かせた。

「……わかった」

 先輩は、小さく呟いた。

「これからは、先輩後輩としてよろしくお願いします」

 私は頭を下げ、もと来た道を引き返す。

 これ以上何か言えば、泣いてしまいそうだった。
 これ以上先輩の顔を見れば、やっぱり別れたくないと言ってしまいそうだった。

 溢れそうになる涙を必死に堪え、歩き出す。

 これで、もう本当に終わったんだ。

 遠くなる距離を感じ、我慢していた涙が零れてしまった。

 先輩との思い出が、今になって頭の中をかけていく。
 一緒に天体観測をしたときも、お弁当を食べたときも、博物館でデートしたときも、先輩は笑っていた。

 つらいことばかりじゃなかった。
 我慢ばかりしていたわけじゃない。

 ちゃんと、楽しいことがたくさんあった。

 それでも、私は別れを選んだんだ。
 これ以上、お互いが無理をしないように。

 これで、いいんだ。いいんだ……。

 うぅ、と声が漏れる。
 
 もう涙を堪えることはしなかった。

 
 けれどその瞬間、後ろから温かいものにギュッと包まれた。

「先、輩……?」

 震える腕に、振り向くことができない。
 
「やっぱり、嫌だ。物分かりのいいように振舞おうとしたけど、やっぱりできない。幸村さんと一緒にいたい」

 抱きしめられる腕の力が強くなる。
 先輩の息が首元に感じる。

「あの、私昨日お風呂入ってないですし、汗もたくさんかいてて――」
「それは僕も一緒だよ」
「本当は、早く帰って綺麗にしたいんじゃないですか?」
「たしかに、ちょっと無理してるかもしれない。でも、幸村さんを失うことの方が嫌だ」
「お互いに無理をする関係はつらいと思います」
「幸村さんが僕といると苦しいと言った気持ち、わかる。そんな思いさせてごめん。でも、それ以上つらいんだ。一緒にいられないことが」
 
 一緒にいられない方が、つらい。
 
 私も、同じだ。

 先輩のためを思ってしていたこと、頑張っていたこと、気を張っていたこと。
 たしかに無理していたこともあったかもしれない。
 でも、だからといって、それがしんどくて、離れたいなんて思わなかった。

 先輩が無理をしていることの方がつらくて、離れた方がいいと思っていた。
 
 先輩も、同じだったんだ。

 ぴたりとはまった思いに、涙が次々と溢れ出す。

「私も、一緒にいたいです」
「うん。じゃあ、一緒にいようよ」

 先輩はもう一度私をギュッと抱きしめた。

 私たちは、まだまだ伝えきれていない思いがある。
 それでも、これから少しずつ理解し合っていけばいい。

 一番大切な思いに気付けたから、きっと大丈夫。
 感じる温もりから、そう思えた。
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