愛する祖国の皆様、私のことは忘れてくださって結構です~捨てられた公爵令嬢の手記から始まる、残された者たちの末路~
18.申し出
ベルモンドは頭に手を当てながら、広間を後にした。頭蓋骨の内側が悲鳴を上げる。
「これで良かったのか……?」
さきほどのバネッサとのやり取りを思い出すと震えがくる。
あんなふうに妻を――バネッサを扱う日が来るなんて思ってもいなかった。
ベルモンドは胸の中に手を当てる。
彼の胸ポケットにはクロエの書いた小さな手記が収められていた。
(次だ、次の仕事をやらなければ……)
何人かの貴族の間ではここ数日、謎の体調不良が続いていた。
症状は大したことがないが、伝染病かもしれない。もしそうなら手を打たなければ。
王都で伝染病が広がるなどあってはならないことだ。
その他にも頭の中には仕事が浮かんでは離れない。
もちろんクロエのことも。
そこに鈴の音のような軽やかな声がベルモンドに降ってきた。
「お兄様、本当に顔色が優れませんわね」
「シャンテ……お、お前」
目の前に現れたのはベルモンドの妹、深窓の令嬢であるシャンテであった。
「あら、私が離宮を離れるのがそんなに意外でしたでしょうか」
「……離宮からここに来て大丈夫なのか?」
「ええ、今はとても体調が良いのです」
シャンテがひらりとその場で回る。確かに見た限り、体調は問題なさそうだった。
それより、シャンテがベルモンドの前になぜやって来たのか。
「そんな顔をしないでくださいな、お兄様。私はお兄様の御力になりたいのです」
「俺の……?」
「離宮にずっといたのは、お兄様の隣にあの人がいたからですわ。でもお兄様は……決心なされたのでしょう?」
あの人とは言うまでもなく、バネッサのことだろう。
バネッサの分をシャンテが埋めてくれるなら、ベルモンドにとっては朗報だ。
(だが、今まで窮状を見て見ぬふりしてきたシャンテがなぜ今になって?)
にわかにシャンテの意図が見えない。
「何が目的なんだ?」
「私は、レイデフォンと手を切って欲しいだけですわ」
しれっと言い放つシャンテにベルモンドは即座に言い返した。
「それは無理だ。ここから後戻りしろと言うのか」
「クロエ姉様も父様もレイデフォンへ過剰に与してはならない、と過去に申していたはず」
振り返ればそのようなことも言われていた。
だが、ベルモンドはこれまで周囲のそうした言葉を無視していた。
「散々警告してくれて悪いが、昔とは事情が違う! 俺たちには後ろ盾が必要だ」
「まだそんなことを仰るのですか?」
「レイデフォンには借りがある。外交は貸し借りだ。恩は返さなければ」
「……哀れなお兄様」
聞き捨てならない言葉にベルモンドは舌打ちする。
「何もわかっていないのはお前だ。レイデフォンはエスカリーナの十倍は大きい。その国の恩義を無にすることが、どのような結果を招くか……」
レイデフォンはリンゼットほどではないが、動く時は動く国だ。
ベルモンドがあまりに悠長なら、何を仕掛けてくるかわからない。
「その恩義が作られたものだとしても?」
「それはどういう意味だ」
「今に至る状況の全てが、レイデフォンの意図した通りだとは思わないのですか?」
「そんな馬鹿な――」
「現状、このままお兄様もあの女も変わらずに利益を得るのは誰でしょう? レイデフォンではないのですか」
「違う……!」
それはこれまで他人に警告され、自分でも押し殺してきた考えだった。
もし全てがどこかの国の陰謀であったなら。
それは恐るべきことだ。
同時に、そうでなかった時も恐ろしい。
陰謀論に毒され、公平さを見失っているということなのだから。
全てを疑うのは……エスカリーナ王国の前身と同じだ。
数百年前、この地を統べていたとある王は猜疑心の果てに臣下を粛清し、王位を追われた。
その後釜に座ったのがエスカリーナ家なのだ。シャンテがその歴史を知らないはずがない。
「お前からそんな話を聞くとは思わなかったぞ」
「お兄様はあくまでもレイデフォンとの同盟を目指すと?」
「そうだ、それ以外にない」
ベルモンドの言葉にシャンテが首を傾げた。
「……なぜそこまで固執されるのです? これまではあの女が愛しいからだと思っていましたけれど」
ベルモンドは即答できずに口をつぐむ。
シャンテは目を細め、ベルモンドの内面を冷たく見据えた。
「お兄様は間違っていたと認めるのが、嫌なのですわね」
「――!」
「お兄様はいつもそうでしたわ。外見は素直そうでも、自分を守ることばかり……」
「うるさい! お前に何がわかる!」
ベルモンドは大声でわめき、シャンテを指差した。
「お前は身体が弱いからと父に甘やかされ、王家の責務を免除されてきた! お前が離宮でイチゴ園を愛でている間に、俺は……俺がどれほど苦労してきたのか、知っているのか!」
「クロエ姉様がいれば、しなくてもよい苦労だったではないですか」
シャンテは息を吐き、言い放った。
他の人間には決して言えないシャンテだけが口にできる言葉で。
「だからクロエ姉様は、お兄様の婚約者になったのでは? その手を振り払ったのは――」
「黙れ! 小言はもうたくさんだ!」
ベルモンドは激昂し、シャンテの横を素通りしようとした。
妹から手助けの申し出はありがたい話であったが、耳の痛い諫言を聞きたいわけではない。
「……王国のために動きたいなら、相応の態度があるはずだ」
シャンテがわずかに首を振った。
その仕草にベルモンドは記憶の奥底を刺激され、苛立ちが募る。
クロエも子どもの頃は感情を隠すのが上手くなかった。
ベルモンドが間違えるたびに、ほんのちょっとだけ首が横に動くのだ。
クロエが消えて三年経ってもベルモンドはそれを忘れていなかった。
(どいつもこいつも、俺のことを……っ)
ベルモンドの背中からシャンテの呟きが聞こえる。
「私は私で国内貴族の調停に努力します。それは構いませんわね?」
「勝手にしろ」
バネッサは当てにならず、問題は山積している。
シャンテはこんな態度だが賢い妹だとは認めざるを得ない。
家庭教師からの評価はベルモンドよりシャンテのほうが常に上だったのだから。
下手な失敗はしないだろう――それに。
(現実の政治は甘くない。少しは自分で動いて、痛い目を見てもいいくらいだ)
ベルモンドは暗い想いを抱えながら心中で笑う。
その時、ふたりの元に王国官僚の集団がやってきた。
(……この区画には、よほどのことがない限り来るなと言ったのに)
しかも文官だけでなく武官の姿も交じっている。
「緊急事態か?」
「はっ……」
官僚たちがシャンテをちらと見て、言葉を呑み込む。
「構わん、言え」
「リンゼット帝国の大軍が我が国との国境に迫っております!」
それは絶叫に近い報告だった。
言葉を吐き出した官僚たちの顔には恐怖が張り付いている。
ベルモンドの心にも当然、恐れは浮かんだが――なんとか押し込める。
報告を聞いたシャンテがぽつりと呟く。
「ついに来たのですわね」
「これで良かったのか……?」
さきほどのバネッサとのやり取りを思い出すと震えがくる。
あんなふうに妻を――バネッサを扱う日が来るなんて思ってもいなかった。
ベルモンドは胸の中に手を当てる。
彼の胸ポケットにはクロエの書いた小さな手記が収められていた。
(次だ、次の仕事をやらなければ……)
何人かの貴族の間ではここ数日、謎の体調不良が続いていた。
症状は大したことがないが、伝染病かもしれない。もしそうなら手を打たなければ。
王都で伝染病が広がるなどあってはならないことだ。
その他にも頭の中には仕事が浮かんでは離れない。
もちろんクロエのことも。
そこに鈴の音のような軽やかな声がベルモンドに降ってきた。
「お兄様、本当に顔色が優れませんわね」
「シャンテ……お、お前」
目の前に現れたのはベルモンドの妹、深窓の令嬢であるシャンテであった。
「あら、私が離宮を離れるのがそんなに意外でしたでしょうか」
「……離宮からここに来て大丈夫なのか?」
「ええ、今はとても体調が良いのです」
シャンテがひらりとその場で回る。確かに見た限り、体調は問題なさそうだった。
それより、シャンテがベルモンドの前になぜやって来たのか。
「そんな顔をしないでくださいな、お兄様。私はお兄様の御力になりたいのです」
「俺の……?」
「離宮にずっといたのは、お兄様の隣にあの人がいたからですわ。でもお兄様は……決心なされたのでしょう?」
あの人とは言うまでもなく、バネッサのことだろう。
バネッサの分をシャンテが埋めてくれるなら、ベルモンドにとっては朗報だ。
(だが、今まで窮状を見て見ぬふりしてきたシャンテがなぜ今になって?)
にわかにシャンテの意図が見えない。
「何が目的なんだ?」
「私は、レイデフォンと手を切って欲しいだけですわ」
しれっと言い放つシャンテにベルモンドは即座に言い返した。
「それは無理だ。ここから後戻りしろと言うのか」
「クロエ姉様も父様もレイデフォンへ過剰に与してはならない、と過去に申していたはず」
振り返ればそのようなことも言われていた。
だが、ベルモンドはこれまで周囲のそうした言葉を無視していた。
「散々警告してくれて悪いが、昔とは事情が違う! 俺たちには後ろ盾が必要だ」
「まだそんなことを仰るのですか?」
「レイデフォンには借りがある。外交は貸し借りだ。恩は返さなければ」
「……哀れなお兄様」
聞き捨てならない言葉にベルモンドは舌打ちする。
「何もわかっていないのはお前だ。レイデフォンはエスカリーナの十倍は大きい。その国の恩義を無にすることが、どのような結果を招くか……」
レイデフォンはリンゼットほどではないが、動く時は動く国だ。
ベルモンドがあまりに悠長なら、何を仕掛けてくるかわからない。
「その恩義が作られたものだとしても?」
「それはどういう意味だ」
「今に至る状況の全てが、レイデフォンの意図した通りだとは思わないのですか?」
「そんな馬鹿な――」
「現状、このままお兄様もあの女も変わらずに利益を得るのは誰でしょう? レイデフォンではないのですか」
「違う……!」
それはこれまで他人に警告され、自分でも押し殺してきた考えだった。
もし全てがどこかの国の陰謀であったなら。
それは恐るべきことだ。
同時に、そうでなかった時も恐ろしい。
陰謀論に毒され、公平さを見失っているということなのだから。
全てを疑うのは……エスカリーナ王国の前身と同じだ。
数百年前、この地を統べていたとある王は猜疑心の果てに臣下を粛清し、王位を追われた。
その後釜に座ったのがエスカリーナ家なのだ。シャンテがその歴史を知らないはずがない。
「お前からそんな話を聞くとは思わなかったぞ」
「お兄様はあくまでもレイデフォンとの同盟を目指すと?」
「そうだ、それ以外にない」
ベルモンドの言葉にシャンテが首を傾げた。
「……なぜそこまで固執されるのです? これまではあの女が愛しいからだと思っていましたけれど」
ベルモンドは即答できずに口をつぐむ。
シャンテは目を細め、ベルモンドの内面を冷たく見据えた。
「お兄様は間違っていたと認めるのが、嫌なのですわね」
「――!」
「お兄様はいつもそうでしたわ。外見は素直そうでも、自分を守ることばかり……」
「うるさい! お前に何がわかる!」
ベルモンドは大声でわめき、シャンテを指差した。
「お前は身体が弱いからと父に甘やかされ、王家の責務を免除されてきた! お前が離宮でイチゴ園を愛でている間に、俺は……俺がどれほど苦労してきたのか、知っているのか!」
「クロエ姉様がいれば、しなくてもよい苦労だったではないですか」
シャンテは息を吐き、言い放った。
他の人間には決して言えないシャンテだけが口にできる言葉で。
「だからクロエ姉様は、お兄様の婚約者になったのでは? その手を振り払ったのは――」
「黙れ! 小言はもうたくさんだ!」
ベルモンドは激昂し、シャンテの横を素通りしようとした。
妹から手助けの申し出はありがたい話であったが、耳の痛い諫言を聞きたいわけではない。
「……王国のために動きたいなら、相応の態度があるはずだ」
シャンテがわずかに首を振った。
その仕草にベルモンドは記憶の奥底を刺激され、苛立ちが募る。
クロエも子どもの頃は感情を隠すのが上手くなかった。
ベルモンドが間違えるたびに、ほんのちょっとだけ首が横に動くのだ。
クロエが消えて三年経ってもベルモンドはそれを忘れていなかった。
(どいつもこいつも、俺のことを……っ)
ベルモンドの背中からシャンテの呟きが聞こえる。
「私は私で国内貴族の調停に努力します。それは構いませんわね?」
「勝手にしろ」
バネッサは当てにならず、問題は山積している。
シャンテはこんな態度だが賢い妹だとは認めざるを得ない。
家庭教師からの評価はベルモンドよりシャンテのほうが常に上だったのだから。
下手な失敗はしないだろう――それに。
(現実の政治は甘くない。少しは自分で動いて、痛い目を見てもいいくらいだ)
ベルモンドは暗い想いを抱えながら心中で笑う。
その時、ふたりの元に王国官僚の集団がやってきた。
(……この区画には、よほどのことがない限り来るなと言ったのに)
しかも文官だけでなく武官の姿も交じっている。
「緊急事態か?」
「はっ……」
官僚たちがシャンテをちらと見て、言葉を呑み込む。
「構わん、言え」
「リンゼット帝国の大軍が我が国との国境に迫っております!」
それは絶叫に近い報告だった。
言葉を吐き出した官僚たちの顔には恐怖が張り付いている。
ベルモンドの心にも当然、恐れは浮かんだが――なんとか押し込める。
報告を聞いたシャンテがぽつりと呟く。
「ついに来たのですわね」