大嫌いです、クソ課長。――でもあなたの声に癒されています
第1話 酒に溺れて眠ったはずが
金曜深夜にフリック入力を使いこなす指先は、ネイルが伸びて見た目が悪い。焦点の合わない目をこすりながら、私は日記アプリへと想いを刻んだ。
――すっきり整えられたうなじ、皺ひとつないスーツ。細身の腰から伸びる脚は長く、引き締まっている。歩くスマート清潔感とは彼のことを呼ぶのだろう。
正直に言う。私は彼に、一目惚れをしていた。
スマホを持つ手とは反対の手で、顎に手を当てて次の一文を悩みながら、私は続きの文字を打ち込んでいく。
――しかし、今日私は彼の本性に打ちのめされ切った。
私は彼への想いを卒業する。
――くたばれクソ課長!
都内のカラオケボックスで、同僚である新井かづみと共に深夜フリータイムを満喫している26時過ぎのこと。かづみがマイクを置いたのを横目で確認し、私は自分のマイクを手に取った。
曲が流れ始め、ステップを踏んでいる間、歌詞テロップが流れていく。酔っぱらったかづみも手拍子を入れて私の歌が始まるのを待っていた。そしてサビのサウンドが入った瞬間に叫ぶ。
「おまえの言うこと全部聞いてたら私の休憩・休日が全部溶けるわチクッショォォオオ!」
マイク越しに叫ぶと、かづみの手によってマイクの音量をゼロにされた。ステッキと化した無駄に重たいマイクを置き、ソファに沈むとかづみがニタニタ笑って肩にもたれてくる。
「ま~ぁ! 落ち着きなってぇ。伽奈ちゃ~ん」
「あー酒足りない……酔いが醒めてきた……」
「何杯飲んだよぉ~! さすがに醒めてないってぇ」
高い声で笑っているかづみの横でぐらぐらと据わらない首を揺らしていた。
……その時。
電話が部屋の中で鳴り響き、私は夢と酔いのはざまでスマホを耳に当てた。
「もしもし……もぉしもぉし!」
「伽奈ちゃん……フロント……備え付けのほう……」
うつ伏せで潰れているかづみに言われて立ち上がりながら、カラオケ備え付けの電話を手に取る。
「ん~……は~い」
『お時間終了5分前です』
フロントの店員の声も眠そうに掠れている。しゃっくりを繰り返しながら散らかった部屋を確認し、目元をこすった。
「ああ……ぅっく、30分延長で」
『すみません、フリータイムは延長やってなくて……』
「かづみ、お時間だってえ~」
「ウケるッ! アハハハ!」
完全に寝ぼけていた私たちだったが、3分で何とかトイレに寄り、支度をして1分オーバーしながらもカラオケ店を出ることができた。
早朝5時。ぼさぼさの頭で重たいかづみを支えながら駅前へと向かう。
「クソ課長……もう惑わされない……ぅっく」
いよいよ、かづみの重さに耐えられなくなった時。突然肩が軽くなったことでバランスを崩す。
「うあ、なに……」
「気をつけて」
とん、と優しく肩を支えてくれた低い声の主。顔を上げ、寝ぼけまなこで視線をゆっくり上にあげていく。そこにいたのは整えられた前髪、緩められたネクタイを着け、広い肩をした見覚えのある男だった。
「課長……?」
「こんな時間にそんな恰好で、全く……社の恥だな」
クソ課長高野の姿が自分の幻であることを祈りながら目をこすっていると目尻に付けていたつけまつげが外れた。
「……タクシーを呼ぼう。そこに掛けて」
「ぇあ、はい」
駅前のベンチに誘導され、かづみと共に座る。
なんでこんな時間に……。なんでこんなところにいるんですか。
まさか高野課長もどこかでオールしたとか?
スマホの操作をしている背中を見つめていると彼が振り返る。慌てて寝たふりをしてかづみにもたれると高野課長の凍るような冷たい声が届いた。
「月曜の会議は大丈夫なんだろうな」
目を開くと自身のスーツの匂いを嗅いでいる高野課長は、眉間にしわを寄せたまま腕を下ろしてこちらを見る。
「……今日明日で回復するんで」
視線を逸らして回答すると高野課長はため息を吐いた。
――別に週末くらい飲んだくれたって良いじゃない。
「お、いたいた! 高野~……って、そちらは?」
課長の名を呼び駆け寄ってきたのは、いつもストライプのワイシャツを着ていることで有名な、ストライプ係長……升川さん。
この二人が一緒にいるなんて、なんだか変だ。珍しく感じる。仲いい感じだっただろうか。
上司二人に見下ろされ、私は首を傾げる。
「あ。美住か! てことはそっちは新井? ハハッ、なんだ飲んだくれか?」
「カラオケオールしてただけです……ぅっく」
治まっていたしゃっくりが再び出て口元を覆う。それを升川さんが笑っていた。
タクシーが来ると、高野係長はドライバーに声をかけてからドアを閉めた。窓越しに目が合うと、お互いに顔を逸らす。
ゆっくり発進した車は、私が住むマンションへと向かっていった。
◆
「ってことがあったってわけ」
「うっそ、最悪~……」
かづみは私のマンションへ着くころにようやく起きた。
頭痛と吐き気に苦しみながら、ダブルベッドで潰れる土曜の昼過ぎという時間で、クソ課長とストライプ係長に会った話をした。
「月曜が嫌すぎる……」
「絶対ストライプにからかわれる~!」
足をバタつかせてお互いに羞恥心を散らしていくと、ようやく気分が落ち着いてきた。
「ていうかさぁ、伽奈ちゃん……メイク大変なことになってるよ……」
「知ってる。敢えて見ないことにした」
「英断~!」
笑ったあとそれぞれ胸やけに苦しみ、しばらく天井を見上げてぼんやりする。うとうととしている様子のかづみを羨ましく見つめ、私も瞼を閉じた。
「ま~た眠れてないの~?」
薄く意識を取り戻したかづみが起き上がり、スマホを取り出す。
「この時期は、なんかね」
「そんな伽奈ちゃんにオススメ配信者教えたる!」
「なに急に」
見せられた動画配信サイトのページには、シチュエーションボイスと書かれた見出しとASMRのハッシュタグがある。
「ああ、耳かきとかスライムとか? 流行ってるよね」
「それの乙女ゲーみたいなさ、イケボで睡眠誘導してくれんの」
「え、なんか怪しい……」
その動画のサムネイルもなんだかセンシティブな雰囲気だ。
人の趣味にとやかく言うつもりはないけれど、ちょっと抵抗があり渋った。
「とにかくイケボだから! なんていうか、甘くてぇ、優しくてぇ、低音!」
「ますます怪しいな……」
「まぁまあ! とりあえずおためしで、今夜の睡眠のお供にしなって」
言いながらかづみは私にDMでリンクを共有してくれた。
こんなので寝られたら苦労はしない。
秋から冬にかけて、私は不眠を患っていた。
夕方になってかづみの体調も落ち着き、彼女は自宅へと帰っていった。
湯船に浸かり、ぼんやりと落ちてくる水滴を眺める。
眠気が訪れる気配は全くなかった。
風呂から上がり、髪を乾かして爪を見る。
明日はネイルしに行こう。そう決めてベッドへと沈む。
(次はパープル系にしよっかな)
スマホの画面を点けて、ネイルの予約を入れる。
完了通知が届いたのを確認して、ぼんやり天井を睨んだ。
起き上がり冷蔵庫の中から強めのアルコール度数のチューハイを見つけ、コップに注ぐ。
テーブルへコップとスマホを置き、ビーズクッションに腰かけた。このクッションでさえ、私をダメにはしてくれない。
ぽこん。
通知音が響き、テーブルに置いていたスマホを確認するとかづみからのメッセージだった。
動画見ろよ。というテキストを見て、その上にあるサムネを確認する。
睡眠誘導シチュエーションボイス……その怪しい動画のリンクを、渋々タップすると物音が聞こえてきた。
ベッドの軋む音のあと、低いのに柔らかい声が耳に届く。
『どうした。今日も……眠れないのか?』
まるで隣に居るかのように話してくれる配信者。
彼の声を聞きながら酒を少し煽る。
「眠れないよ。怖いんだもん」
『俺もだよ』
タイミングよく声が返ってきて、思わず笑ってしまった。
『でも、おまえの呼吸で眠れそうだ』
「ふは、バッカじゃないの……」
でも、一人ではないような気持ちになっていく。
ちびちびと酒を飲みながら、動画の時間を確認すると15分もあった。
(なんか課長の声に、似てるなぁ)
けれど、そんな短い時間で眠れたら苦労しない……。
・
・
・
――ごつん。
頭を打って意識を飛ばしかけたことに気が付く。
今夜は何杯飲んでしまっただろう。
ビーズクッションの上で寝たから、あちこち痛い。
床に視線を落とすと、コップの中にはまだ結構な量の酒が残っていた。
「え?」
カーテンの隙間からは朝日が入り込んでいて、慌てて起き上がる。
そして手元にあったスマホを開くと朝8時だと分かった。
そのまま画面が顔認証で開く。画面の先には昨夜見た動画が表示されていた。
「たった、たった15分で……眠れた?!」
その衝撃に思わずスマホを放り投げる。運よくビーズクッションに落ちて、誤ってタップした次の動画が再生された。
――すっきり整えられたうなじ、皺ひとつないスーツ。細身の腰から伸びる脚は長く、引き締まっている。歩くスマート清潔感とは彼のことを呼ぶのだろう。
正直に言う。私は彼に、一目惚れをしていた。
スマホを持つ手とは反対の手で、顎に手を当てて次の一文を悩みながら、私は続きの文字を打ち込んでいく。
――しかし、今日私は彼の本性に打ちのめされ切った。
私は彼への想いを卒業する。
――くたばれクソ課長!
都内のカラオケボックスで、同僚である新井かづみと共に深夜フリータイムを満喫している26時過ぎのこと。かづみがマイクを置いたのを横目で確認し、私は自分のマイクを手に取った。
曲が流れ始め、ステップを踏んでいる間、歌詞テロップが流れていく。酔っぱらったかづみも手拍子を入れて私の歌が始まるのを待っていた。そしてサビのサウンドが入った瞬間に叫ぶ。
「おまえの言うこと全部聞いてたら私の休憩・休日が全部溶けるわチクッショォォオオ!」
マイク越しに叫ぶと、かづみの手によってマイクの音量をゼロにされた。ステッキと化した無駄に重たいマイクを置き、ソファに沈むとかづみがニタニタ笑って肩にもたれてくる。
「ま~ぁ! 落ち着きなってぇ。伽奈ちゃ~ん」
「あー酒足りない……酔いが醒めてきた……」
「何杯飲んだよぉ~! さすがに醒めてないってぇ」
高い声で笑っているかづみの横でぐらぐらと据わらない首を揺らしていた。
……その時。
電話が部屋の中で鳴り響き、私は夢と酔いのはざまでスマホを耳に当てた。
「もしもし……もぉしもぉし!」
「伽奈ちゃん……フロント……備え付けのほう……」
うつ伏せで潰れているかづみに言われて立ち上がりながら、カラオケ備え付けの電話を手に取る。
「ん~……は~い」
『お時間終了5分前です』
フロントの店員の声も眠そうに掠れている。しゃっくりを繰り返しながら散らかった部屋を確認し、目元をこすった。
「ああ……ぅっく、30分延長で」
『すみません、フリータイムは延長やってなくて……』
「かづみ、お時間だってえ~」
「ウケるッ! アハハハ!」
完全に寝ぼけていた私たちだったが、3分で何とかトイレに寄り、支度をして1分オーバーしながらもカラオケ店を出ることができた。
早朝5時。ぼさぼさの頭で重たいかづみを支えながら駅前へと向かう。
「クソ課長……もう惑わされない……ぅっく」
いよいよ、かづみの重さに耐えられなくなった時。突然肩が軽くなったことでバランスを崩す。
「うあ、なに……」
「気をつけて」
とん、と優しく肩を支えてくれた低い声の主。顔を上げ、寝ぼけまなこで視線をゆっくり上にあげていく。そこにいたのは整えられた前髪、緩められたネクタイを着け、広い肩をした見覚えのある男だった。
「課長……?」
「こんな時間にそんな恰好で、全く……社の恥だな」
クソ課長高野の姿が自分の幻であることを祈りながら目をこすっていると目尻に付けていたつけまつげが外れた。
「……タクシーを呼ぼう。そこに掛けて」
「ぇあ、はい」
駅前のベンチに誘導され、かづみと共に座る。
なんでこんな時間に……。なんでこんなところにいるんですか。
まさか高野課長もどこかでオールしたとか?
スマホの操作をしている背中を見つめていると彼が振り返る。慌てて寝たふりをしてかづみにもたれると高野課長の凍るような冷たい声が届いた。
「月曜の会議は大丈夫なんだろうな」
目を開くと自身のスーツの匂いを嗅いでいる高野課長は、眉間にしわを寄せたまま腕を下ろしてこちらを見る。
「……今日明日で回復するんで」
視線を逸らして回答すると高野課長はため息を吐いた。
――別に週末くらい飲んだくれたって良いじゃない。
「お、いたいた! 高野~……って、そちらは?」
課長の名を呼び駆け寄ってきたのは、いつもストライプのワイシャツを着ていることで有名な、ストライプ係長……升川さん。
この二人が一緒にいるなんて、なんだか変だ。珍しく感じる。仲いい感じだっただろうか。
上司二人に見下ろされ、私は首を傾げる。
「あ。美住か! てことはそっちは新井? ハハッ、なんだ飲んだくれか?」
「カラオケオールしてただけです……ぅっく」
治まっていたしゃっくりが再び出て口元を覆う。それを升川さんが笑っていた。
タクシーが来ると、高野係長はドライバーに声をかけてからドアを閉めた。窓越しに目が合うと、お互いに顔を逸らす。
ゆっくり発進した車は、私が住むマンションへと向かっていった。
◆
「ってことがあったってわけ」
「うっそ、最悪~……」
かづみは私のマンションへ着くころにようやく起きた。
頭痛と吐き気に苦しみながら、ダブルベッドで潰れる土曜の昼過ぎという時間で、クソ課長とストライプ係長に会った話をした。
「月曜が嫌すぎる……」
「絶対ストライプにからかわれる~!」
足をバタつかせてお互いに羞恥心を散らしていくと、ようやく気分が落ち着いてきた。
「ていうかさぁ、伽奈ちゃん……メイク大変なことになってるよ……」
「知ってる。敢えて見ないことにした」
「英断~!」
笑ったあとそれぞれ胸やけに苦しみ、しばらく天井を見上げてぼんやりする。うとうととしている様子のかづみを羨ましく見つめ、私も瞼を閉じた。
「ま~た眠れてないの~?」
薄く意識を取り戻したかづみが起き上がり、スマホを取り出す。
「この時期は、なんかね」
「そんな伽奈ちゃんにオススメ配信者教えたる!」
「なに急に」
見せられた動画配信サイトのページには、シチュエーションボイスと書かれた見出しとASMRのハッシュタグがある。
「ああ、耳かきとかスライムとか? 流行ってるよね」
「それの乙女ゲーみたいなさ、イケボで睡眠誘導してくれんの」
「え、なんか怪しい……」
その動画のサムネイルもなんだかセンシティブな雰囲気だ。
人の趣味にとやかく言うつもりはないけれど、ちょっと抵抗があり渋った。
「とにかくイケボだから! なんていうか、甘くてぇ、優しくてぇ、低音!」
「ますます怪しいな……」
「まぁまあ! とりあえずおためしで、今夜の睡眠のお供にしなって」
言いながらかづみは私にDMでリンクを共有してくれた。
こんなので寝られたら苦労はしない。
秋から冬にかけて、私は不眠を患っていた。
夕方になってかづみの体調も落ち着き、彼女は自宅へと帰っていった。
湯船に浸かり、ぼんやりと落ちてくる水滴を眺める。
眠気が訪れる気配は全くなかった。
風呂から上がり、髪を乾かして爪を見る。
明日はネイルしに行こう。そう決めてベッドへと沈む。
(次はパープル系にしよっかな)
スマホの画面を点けて、ネイルの予約を入れる。
完了通知が届いたのを確認して、ぼんやり天井を睨んだ。
起き上がり冷蔵庫の中から強めのアルコール度数のチューハイを見つけ、コップに注ぐ。
テーブルへコップとスマホを置き、ビーズクッションに腰かけた。このクッションでさえ、私をダメにはしてくれない。
ぽこん。
通知音が響き、テーブルに置いていたスマホを確認するとかづみからのメッセージだった。
動画見ろよ。というテキストを見て、その上にあるサムネを確認する。
睡眠誘導シチュエーションボイス……その怪しい動画のリンクを、渋々タップすると物音が聞こえてきた。
ベッドの軋む音のあと、低いのに柔らかい声が耳に届く。
『どうした。今日も……眠れないのか?』
まるで隣に居るかのように話してくれる配信者。
彼の声を聞きながら酒を少し煽る。
「眠れないよ。怖いんだもん」
『俺もだよ』
タイミングよく声が返ってきて、思わず笑ってしまった。
『でも、おまえの呼吸で眠れそうだ』
「ふは、バッカじゃないの……」
でも、一人ではないような気持ちになっていく。
ちびちびと酒を飲みながら、動画の時間を確認すると15分もあった。
(なんか課長の声に、似てるなぁ)
けれど、そんな短い時間で眠れたら苦労しない……。
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――ごつん。
頭を打って意識を飛ばしかけたことに気が付く。
今夜は何杯飲んでしまっただろう。
ビーズクッションの上で寝たから、あちこち痛い。
床に視線を落とすと、コップの中にはまだ結構な量の酒が残っていた。
「え?」
カーテンの隙間からは朝日が入り込んでいて、慌てて起き上がる。
そして手元にあったスマホを開くと朝8時だと分かった。
そのまま画面が顔認証で開く。画面の先には昨夜見た動画が表示されていた。
「たった、たった15分で……眠れた?!」
その衝撃に思わずスマホを放り投げる。運よくビーズクッションに落ちて、誤ってタップした次の動画が再生された。