あの日 カサブランカで

 朝から一日中付き合ってくれたガイドのモハメドにその日の感謝を伝えてリヤドで別れたふたりは、それぞれの錠を受け取るとまだ回廊からの明るさの残る部屋へ戻った。

(夕飯は昨日のお店かしら…)

 どれくらい歩いたのかわからなかったが、そんなことを思いながら麻美は不思議と疲れを感じていなかった。




 2日続けて訪れた日本からの客を店主は満面の笑顔で迎えてくれた。

 片言の英語混じりで薦めてくれた料理は、予想どおりのタジン料理だったが、何を選んでよいかわからなかったふたりはそれも店に任せることにした。

 暑い時期にはどうするのだろうかと思いながら、ゆったりとした時間を過ごすと店主がサービスだと言ってトールグラスに生のミントが差された暖かいモロッコティーを持ってきてくれた。

「さっきの喫茶店で飲んだのと同じですね」

 モハメドに案内されたスークの小さな喫茶店で出されたものと同じミントの香りが忘れられなくなった麻美は、日本へ帰ってからも家に絶やすことはなくなったのだ。




 狭い路地の建物の壁から迫り出したオレンジ色の心細い街灯に、荒れた路面が妖しく照らされているフェズの夜は暗い。

 浮いた石畳でつまずきそうになった麻美が思わずつかんだ圭一の手は、彼女のその細い手をしっかりと力強く握り返していた。

「すみません」

「大丈夫?」

 薄暗い街灯の下で逆光になっている圭一の顔を見上げた麻美は、宿へ着くまでの短い間彼のその手を握り締めて、もう離すことはなかった。



「すみません、あのう…」

 部屋の錠を受け取って階段を上りながら、麻美が申し訳なさそうに圭一に声をかけた。

「あとでまた伺っていいですか?」

「いいよ、錠開けておくから」

 振り向いた彼の笑顔を見て麻美はちょこんと頭を下げると自室へ消える彼の姿を見送ってから静かに錠をまわした。

 肌寒ささえ感じる暗い部屋の灯りを点けると沈んだブルーで揃えられた部屋の静寂さがやはり薄気味悪く感じられる。

(彼の部屋の赤だったら違ったかもしれない…)

 そんなことを思いながら、麻美はシャワーのコックをひねった。

 バスタブを叩く空気の混じったお湯の音だけがタイルで囲われた天井の高い空間に響く中、この後のことをぼんやりと考えながらしばらくの間、麻美はぬるいシャワーに打たれていた。

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