あの日 カサブランカで

“はい、宮原でございます。麻美です。”

 麻美は声の震えが自分でもわかった。

“村木野です。 20年ぶりですね。”

 低く抑えて反響する彼の声は、執務室からかけているのではないことがわかった。

“はい… こんなに長くご無沙汰してしまいました…”

“いえ、よくご連絡くださってありがとうございます”

“申し訳ありませんでした…”

 麻美の声の震えは止まりそうになかった。

“すみません… 今まだ会社なので、あとでかけなおしてもいいですか?”

“はい、お待ちしています。すみません…”

“では、1時間ほどしたら…”

 電話が切れてからも、麻美はしばらく耳からスマホを離すことができなかった。

 


 陽が落ちて暗くなった研究室で、灯りも点けることを忘れたように麻美は20年前の記憶を手繰り寄せていた。

(あの彼が今、手の届くところにいる…)

 奥様も子供もいるはずだったが、そんなことはどうでもよかった。

 不注意で失ってしまった20年の歳月が、ただ惜しかったのだ。




 ちょうど1時間が経とうとした頃、廊下を通る学生の気配が少なくなった研究室にスマホの着信音が響いた。

“遅くなりました。 村木野です”

 先刻と違って声も明るく大きくなって聞こえた。

“ありがとうございます。 その節はほんとうに申し訳ありませんでした”

“いえ、メールが来なかったので大学に電話しようかとも思ったんですが、迷惑になるといけないから諦めました”

 村木野がその時のことを詫びるように言った。

“いいえ、あの時、私がいただいたお名刺をなくしてしまったんです”

“そうだったんですか…”

 そう応えた彼の声は驚きと落胆が混じったような複雑なようすだったが、建築雑誌で名前を見つけてようやく願いが叶ったと麻美が言うと、穏やかな笑い声に変わった。

“こんなに近くにいらっしゃったなんて…”

“そうですね… お互いに…”

“わたし、すっかりおばさんになってしまいました…”

“いや、ぼくはもう爺さんですよ…”

 それでふたりは電話口で一緒に笑った。

「よろしければお会いしたいのですが…」

 麻美が望んでいたことを先に村木野が言ってくれた。

「ええ、ぜひ… お会いしたいです」

 真っ暗になった研究室で、麻美は自分のまわりだけは灯りが点ったような気がした瞬間だった。

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