あの日 カサブランカで

「お名刺を失くしたときは、ほんとうにどうしていいかわからなくて…」

「ぼくも日本の会社の名前を言ってなかったですからね…」

 改めて申し訳なさそうに言った麻美を遮るようにして圭一が謝った。

「でもこうしてお会いできて、ほんとうにうれしいです」

「いや、ぼくのほうこそ… 電話をいただいたときは嘘かと思いましたよ」

「名前を憶えていてくださったんですね」

「もちろん! 忘れたりなんかしませんでしたよ」

 そう応えた圭一の少年のような顔を見て麻美は胸が(たかぶ)るのを覚えた。




「村木野さんに教えていただいたように、大学を卒業してからは設計事務所に入ったんです」

 大学を出てからはどうしたのかを訊ねられて麻美は答える。

 圭一もよく知る名の通った総合設計事務所だったから、当時も感じていたとおりの優秀な学生だったことが改めてよくわかった。

 だから母校の教員として招かれたのだ、と彼は納得できた。

「じゃあ次は教授ですね」

「いえいえ、まだまだこれから勉強です」

 麻美は准教授として招かれてからまだ3年だったが、設計事務所でのキャリアや幾つかの受賞歴もある彼女にとってその道はそう遠くはなかった。

 それは、現場実践と実績の大切さを教えてくれた村木野のおかげにほかならなかった。

 恩師が退官するにあたってできる空席に対して、その推薦もあって麻美は母校から声をかけられたのである。

 設計事務所の中堅の中でも光る存在になっていた彼女だったが、このときもさんざん迷った挙句、その時担当していたプロジェクトの竣工を機に、教壇に立つことを決めたのだった。

「村木野さんに教わった通りの道になりました」

 良かったですね、と言うと村木野は温かい笑みを麻美に投げた。

 その彼はドバイでの仕事を終えると一旦日本へ戻ったのだが、その実績を買われてマレーシアのプロジェクトの設計責任者を任されて再び3年間駐在し、それは国際的な賞を受賞したのだと語った。

「では次は役員ですか?」

 彼の上位ポジションが役員であることを既に組織図を調べて知っていた麻美が訊ねると、村木野は首を振ってそれを否定した。

「そんな話もあったのですが断りました」

「え? どうしてですか?」

「ぼくは現場が好きな人間なので…」 

 そう応える村木野の眼は輝いて見えた。

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