あの日 カサブランカで
(あの人が独身だったなんて…)
国内と海外の出入りが多く、仕事に夢中になっているうちその機会を逸したのだと彼はおおらかに笑って話してくれたのだったが、帰りの電車に揺られながら予想もしていなかった事実を知った麻美は自分の心が大きく揺さぶられているのを感じていた。
(さっきふらついたのはきっとそのせいだわ…)
窓に映る自分の顔を見ながら、麻美の頭の中は村木野への想いでいっぱいになっていた。
「また会えますか?」
「はい、ぜひ…」
ついさっき、参道の鳥居が近づく明るい提灯の下で顔を見合わせながら、ふたりはそう言葉を交わしたのだった。
麻美が離婚を経てひとりでいることを知った村木野も驚いていたが、ふたりの間に障害となるものがないことは彼もわかったはずである。
ただ、55歳になる彼が、40を越えた自分をどう思ったのかだけが麻美には気がかりだった。
電車のスピードが落ち、ぼんやりと遠くを見つめながら思いに耽っていた時、麻美のスマホにLINEが届いたことを知らせる振動があった。
>今日はありがとうございました。
昔のままのあなたにお会いできてうれしかった。
今度の週末はご予定がおありですか?
何度も読み返すうち危うく乗り過ごしそうになった麻美は、慌てて電車を降りるとそのままベンチに腰を下ろした。
(彼が誘ってくれた…)
開いたままのLINEを見ながら鼓動が早くなるのを感じた。
ホームの寒いベンチに座る麻美には目もくれずに、電車を降りた客が次々と前を通り過ぎる。
しばらくしてから人の姿が減ると彼女は指を動かし始めた。
>>わたしこそほんとうにうれしかったです
ありがとうございました
今週末の予定はありません
お会いできたらうれしいです
麻美
麻美は返信の打ち込みを終えると、再び何度も読み返してから震える手で送信ボタンを押した。
心を鎮めようとしていた彼女が、すっと吹いた冬の夜風に追い立てられるように腰を上げたとき、再びスマホが震えた。
>ありがとうございます
あとでまたLINE入れます
彼からだった。
>>ありがとうございます
お待ちしております
再びホームを吹き抜けた風に頬を撫でられた麻美はコートの襟を立てると、次の電車の到着を知らせるアナウンスを聞きながら少しだけ速足で階段を上がり、無意識のうちに家路を急いでいた。