だから愛は嫌だ~虐げられた令嬢が訳あり英雄王子と偽装婚約して幸せになるまで~

13 夫婦愛が分からない

 急に黙り込んだディアナを父は不思議に思ったようだ。

「他にも言い忘れがあるのかな?」
「あ、いえ……。ああ、そうですね」

 父と視線を合わせることができないことを誤魔化すために、ディアナは必死に話題を探した。

「そういえば、エレンを私の一存で解雇しました」

 元専属メイドだったエレンは、借金のかたに娼館に連れて行かれそうになっていたところを、父が助けてバデリー伯爵家に連れてきた。

 念のために報告しておいたほうがいいと思ったが、父は「エレン?」と不思議そうに呟く。

「よく分からないが、好きにしてかまわない」
(エレンのことを覚えてもいないのね)

 その言葉は、娘に甘い父のように聞こえるが、灰色の蝶は『どうでもいい』と囁いている。

(私に興味がないんだわ。いつから私は、お父様に嫌われていたの?)

 ディアナが幼いころは、しょっちゅう家に帰ってきて、ディアナと遊んでくれていた。誰がどう見ても、子煩悩な良い父だった。

 しかし、時と共に父の帰りは次第に遅くなっていき、ディアナがロバートと婚約するころには、家にいるほうが珍しいくらいだった。

(お父様が家に帰ってこなかったのは、私のせい?)

 目の前で穏やかな微笑みを浮かべる父を不気味に感じる。

「お父様。少し具合が悪いので、今日はこのへんで……」
「ああ、そうだな。無理をしてはいけない」

 急ぎ足でディアナが執務室から出ると、バッタリと母に出会った。

「お母様?」

 いつものように『不安だわ』と囁く蝶を飛ばしながら、母はディアナの肩にそっと触れた。

「あの人は、なんて言っていたの?」
「えっ?」
「おかしなことを言われなかった?」
「おかしなことって、なんですか?」

 母はまるで父からディアナを遠ざけるように、その手を引く。そして、執務室からだいぶ離れた場所で、再び口を開いた。

「おかしな話というのは、跡継ぎを誰にするかとか、そういう話よ」
「跡継ぎの話は出なかったです」
「そう……」

 母の周囲で灰色の蝶が『不安だわ』を繰り返す。

(何がそんなに不安なの?)

 そう思ったとき、ディアナは父の蝶の言葉を思い出した。

 ――邪魔だ。うっとうしい。

(お母様は、もしかして私がお父様に嫌われている理由を知っているのかしら? だから、不安になっているの?)

 ディアナは、母の手にそっと触れた。

「お母様は、何を不安に思っていらっしゃるのですか?」
「不安?」
「はい、いつも何かを不安に思っていますよね?」
「そういうわけでは……。いえ、そうね。あなたにも話しておいたほうがいいのかもしれない」

 母は声を潜めた。

「あの人、愛人がいるの。お茶会でわざわざ親切に教えてくださったご夫人がいてね」

 そう言った母の顔には、自嘲の笑みが浮かんでいる。

「あの人が若い女と腕を組んで歩いていたんですって。それはもう、仲睦まじくね」
「愛人……」

 信じられないという気持ちと同時に、だからいつも家に帰ってこなかったのかと納得してしまう。

(お母様が、跡継ぎの話を気にしているということは……)

 ディアナは、おそるおそる母に尋ねた。

「お父様とその愛人の間に、子どもがいるのですか?」

 母は暗い表情で頷く。

「そうよ」
「それで、お父様が愛人の子にこの家を継がせるのではないかと不安だと?」
「そうなの」

 母の瞳に涙が滲んだ。

「私が跡継ぎさえ生んでいれば、こんなことにはならなかったのに」

 母はバデリー伯爵家に嫁いできた身だ。父が愛人の子にあとを継がせれば、そのうち愛人も家に連れ込むだろう。そうなれば、母はどうなってしまうのか?

(お母様のご実家は男爵家。しかも、我が家からお金を借りているから、お父様の浮気を諫めることもできない……)

 父がどうしてディアナを嫁に出すことに固執しているのか、これではっきりした。

(私がこの家に残ったら、愛人の子を迎え入れられなくなるから、どうしても私を追い出す必要があるんだわ)

 涙を流しながら母は、ディアナに縋った。

「ディアナ。早くロバート様と結婚して、男の子を二人産んでちょうだい! そして、あなたの子にこの家を継がせるのよ!」

 ディアナは、一瞬だけ言葉を失った。

「まさか、お母様はロバート様を巻き込んで、この問題をなんとかしてもらおうと思っているのですか?」
「そうよ! 侯爵家から言われれば、あの人もきっと逆らえないわ!」

 この問題は、そんなに簡単なことではない。

「いくら侯爵家でも、他家の次期当主を勝手に決めることなんてできませんよ」
「じゃあ、どうしたらいいの!?」

 母の蝶は真っ黒に染まり『憎い』を繰り返している。

 泣き崩れる母に、ディアナは内心で頭を抱えた。

(私の家は、とっくの昔に崩壊していたのね)

 それに気がつかず、今までのんきに過ごしてきたのは、ある意味幸せだったのかもしれない。

「お母様は、お父様と別れる気はないのですか? もし、お母様がよければ、私と一緒にこの家を出ませんか?」

 外に愛人を囲い、実の娘を邪魔だと追い出そうとしている男を、ディアナはもう家族だと思えない。
 しかし、母の考えは違ったようだ。

「嫌よ! 絶対に別れてやるものですか! バデリー伯爵夫人は私よ! この家も、この家の財産も誰にも渡さないわ!」

 瞳に激しい怒りを宿した母を見て、ディアナは思った。

(お父様とお母様は、政略を含んでいたものの、お互い好きで結婚したはずなのに……。どうしてこんなことに? 夫婦愛は、いつ消えてしまったの?)

 幸せな結婚をしたはずの母がこうなのだ。婚約者であるロバートと、良好な関係を築けていないディアナでは、いったいどうなってしまうのか?

(私のことを嫌っているロバート様だったら、結婚後に五、六人くらいは愛人を抱えそうだわ)

 夫婦愛はもちろんのこと、今のディアナは、家族愛ですらよく分からなくなってしまった。だからこそ、ライオネルが提案してくれた契約婚約の良さが際立ってくる。

(愛なんて不確かなものより、契約書のほうが信じられるわ)

 そっとその場を離れて自室に戻ったディアナは、急いで羽ペンをとった。そして、できるだけ丁寧な文字でこう綴る。

 ――ライオネル殿下。
 父の許可は取りました。どうか私と契約婚約を結んでください。
 同じ悩みを持つ者同士、私たちは、きっといい協力者になれることでしょう。
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