名前のないその感情に愛を込めて

第十一話 流転の山

 雨続きなのは季節の変わり目だからなのだろう。屋敷から自宅へ戻り、その週の週末まで、降ったり止んだりの空模様が続き、いい加減洗濯物も溜まりつつあった。

 あずさは支度を整え、車を走らせる。

 あんなに医者に掛かるのを嫌がっていた祖父が、態度を急変させたのだ。『もうしばらくは頑張らねばならんからな』と、本格的な検査入院のため、こっちに戻ることになった。しばらく屋敷に戻ることはなくなるだろうから、と、家の片付けを兼ねてプチ引っ越し作業となる。

 しかしそれはあずさにとって、微妙な出来事だ。屋敷への行き来がなくなると、雪光に会えなくなってしまう。自分の母の実家なのだから勝手に行けばいいのかもしれないが、理由なく屋敷に入り浸れば佳子や佐久造に怪しまれてしまいそうだった。

「会えると……いいんだけど」
 ワイパーに弾かれる雨の数が、和らいでゆく。

 あずさは屋敷から戻った数日間、人柱についても少し調べていた。あの地域で昔、そういう風習があったのかどうか、知りたかったからだ。しかし、どこをどう調べてもそんな記述は見つからず、あの場所に神社があったことすら、本当なのかわからなかった。神社にしろ人柱の話にしろ、佐久造の記憶にあるくらいなのだからそう昔の話でもないと思うのだが……。

 屋敷の前には佳子の車が停まっている。隣に車を停めると、雨はすっかり上がっていた。薄日が差してきている。
「お母さん、来たよ」
 玄関先で声を掛けると、
「ああ、お疲れ様。もう片付けはほとんど済んでるわ」
 と迎えられた。
「早いわね」
「少しずつやってたから。それに、病院から電話で、予定より早くは入れますよって言われてね」
「そうなんだ」
「午前中のうちには出られそうよ」

 本当なら今日片付けをして、明日の出発予定だった。今日の午前中とは、急な話である。

「二階に纏めてある荷物だけ、降ろしてもらっていい?」
 佳子に言われ、頷く。
 佳子が佐久造と暮らしているマンションに運ぶものを佳子の車に運び、捨てる荷物はあずさの車に積み込む。すべてが順調だった。

「お母さん、私が使ってた部屋も片付けたいから、先に出てもらってもいい?」
 嘘をつく。
「いいけど……片付けるものなんてあった?」
「うん、ちょっと。それに、ゴミを収集所に運ばなきゃだし。あとで病院に合流するわ」
「じゃ、そうして」
 佳子と佐久造を体よく屋敷から追い出す。……まぁ、追い出したわけではないのだが。

 あずさは車が見えなくなるのを確認すると、急いで山へと向かった。会いたい。ただそれだけだ。会って、それから?
 決められた運命なんて、信じない。
 雪光を人間にする方法が、なにかないものか……。

 急ぎ足で山を登る。鳥居を目指して、上へ。
 長く降っていた雨のせいでぬかるんでいる場所も多い。長靴を履いてきて正解だったな、と思う。

 開けた場所。
 古びた鳥居。
 少し怒ったような顔の、青年。
 その姿を目にした瞬間、言いようのない感情が全身を襲う。
 愛しい。愛しい。この人と一緒にいたい!

 あずさは何も言わず雪光の手を取り、そのまま山を下り始める。

「は? ちょ、どういうつもりだよっ」
 雪光が慌ててあずさの手を引く。
「お願い。うちに来て」
「うちって……お前のかっ?」
「正しくは母方の実家だけど」
「なんでっ」
「一度だけでもいい。お願い。私のものになって」

 何を言っているのか、雪光にはよくわからなかった。発言したあずさ本人も、何故そんなことを口にしたのか、そもそもそんなことが叶うのか自信はない。だが、どうしても一緒にいたい。どうしても、雪光と……愛し合いたかった。

「俺はここから動くことは出来ないって言っただろ?」
「すぐそこだもんっ」
「そういう問題じゃ」

 パンッ、パシッ

 すぐに音が鳴り始める。

「ねぇ、神様お願い! 雪光をっ、私に……少しだけでいいから、お願いします!」
 鳥居の向こう側、誰もいない空間に向かって叫ぶ。
「馬鹿、駄目だあずさ!」
 肩を掴み、揺さぶる。

瀬織津姫(せおりつひめ)は怒ってる。俺を自由にしすぎた、って怒ってるんだよっ」
「なんでよ!」
 あずさは叫んだ。
「雪光は最初から何も悪くない! なのにどうして雪光だけが我慢しなきゃいけないのっ? 最初から決まってる運命なんて信じない! 私だって道を切り開けた。だったら雪光だってっ」

 パンッ、パシッ ピキッ

「あずさ、もう本当にこれ以上は駄目だ。もうお別れだ。本当にこれで、終わりにしよう。そのつもりで来たんだ。お前は自分で道を切り開いたんだろ? それでいい。よかったよ。俺も、あずさに会えて嬉しかった。お前のこと、好きだ。忘れない。だからサヨナラだ。お前の幸せを祈ってるから」
「嫌だ! 雪光のいない世界なんて嫌だ!」
 あずさはそう言って雪光に抱きついた。
「無茶言うな。俺とお前じゃ、生きる世界が違うって言っただろ?」
「だからお願いしてるのっ。瀬織津姫! ねぇ、お願いだから雪光を自由にしてあげてよ!」

 パシッ、ピキッ、ビキッ

 音が、強くなる。

 ゴゴゴゴゴ
 遠くで、地鳴り。

「まずいっ。あずさ、来い!」
 雪光に手を引かれ、山を下る。そうだ、このまま山を下ってそのままっ!
 そう思ったあずさだったが、想定していない出来事が起こる。
 山の一部が、崩れ始めたのだ。
 地滑りである。

「山が!」
 あずさが叫ぶ。
 林道に出たところで、雪光があずさに向き直る。

「ここまでだ。もうこれ以上、俺はお前に関わることは出来ない。楽しかった。本当だ。会えてよかった。幸せになれ」
 そう言ってあずさを抱きしめ、軽く、唇を押し当てる。そしてそのまま踵を返し、山へと戻っていった。
「待って! 雪光、待って!」

 ゴゴゴ、
 再び、地鳴り。

 危険であることはあずさにもわかった。後ろ髪を引かれながら、屋敷に戻る。崩れる場所によっては、屋敷も危ないかもしれない。
「離れなきゃ」
 車に乗り込み、山道を下る。途中、松田家の前を通る。中から出てきたのは佐久造の幼馴染、松田一家だ。息子さん夫婦が家族を車に乗せ、家を出るところだった。あずさはそんな光景を視界の片隅に映しつつ、アクセルを踏む。

 ゴゴゴゴ、ドドドドッ

 山が形を変える。一部が再び崩れた。しかし、崩れた先に民家はない。二か所共に、民家、車道のない、何もない場所を狙って崩れたかのような崩れ方だったのである。
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