蝶々結び 【長編ver.完結】
春の夜は、少し冷える。
夜風が外廊下の窓をなぞり、かすかに桜の花びらを運んでくる。
蛍光灯の光が白く照り返すナースステーションでは、時計の針の音だけが響いていた。
橘結衣は、カルテを開きながら、キーボードを打つ手を止める。
――街灯に照らされた桜が、風に揺れている。
夜の桜は、昼間よりも儚く、少し寂しげで。
まるで、昔の自分を見ているみたいだった。
今夜は陽向先生と初めての夜勤。
そう聞いたとき、結衣の胸の奥が少しだけざわついた。
「まぁ、…関係ないけどね。」
誰にも聞こえないように小さく呟いて、視線を画面に戻す。
「――あ、橘さん。今日、夜勤一緒だよね?よろしくお願いします。」
明るく、よく通る声。
振り向けば、白衣の袖を軽く折り返した陽向先生が立っていた。
夜勤だというのに、疲れを微塵も感じさせない笑顔。
髪の先がわずかに光に揺れ、どこか少年のような雰囲気を纏っている。
「はい、こちらこそ。よろしくお願いします。」
表情はできる限り淡々と。
けれど、胸の奥ではほんの少し動揺していた。
(名前、覚えてたんだ……何日か会わなかったのに)
そんな結衣の内心を知る由もなく、陽向先生は穏やかに言葉を続ける。
「橘さんって、なんだか落ち着いてますよね。2、3交代の夜勤って、慣れました?」
「まあ……まだ眠気との戦いですけど。」
「僕も。今日、夜通し持つかなって心配してます。」
冗談めかした口調に、思わず小さく笑ってしまった。
けれどその瞬間、柚希が勢いよく椅子を回転させて二人の方を向いた。
「うわーっ!やっぱり陽向先生、笑顔が反則!今日も眩しい!」
「柚希、声が大きい。」
「だってさ、あんな人と夜勤とか羨ましすぎでしょ!これ、奇跡の当番表だよ、結衣!」
「……はいはい、柚希。仕事しようね、仕事。」
苦笑しながらカルテを確認する結衣の横で、陽向先生は少し照れたように笑った。
「なんか、にぎやかで楽しい職場だね。」
「普段はもっと静かですよ。」
「そうなの?僕はこういう雰囲気なんだか好きだな。」
その柔らかい声が、まるで夜勤の疲れを吸い取るように心地よく響いた。
時刻は午前2時――。
ナースステーションの空気が、静まり返っていた。
「ふぁぁ~、眠い……。」
柚希があくびを噛み殺しながら言う。
「ダメだよ、柚希。まだ巡回残ってる。」
「わかってるけど、眠気の限界だよ~。陽向先生とか、眠くないのかなぁ?」
「うーん……どうだろうねぇ。」
そう言って笑欠伸をする柚希の横顔を見て、結衣は思った。
――疲れも、緊張も、どこか遠い世界のことみたい。
その時。
突然、電子音が鳴り響いた。
「――302号室、急変です!」
ケアワーカーからのナースコールが入った。
「え?!◯◯さん?しばらく着いてたよね?!」
柚希の声が震える。
結衣は立ち上がり、反射的に走り出した。
患者のベッドでは、60代の男性が腹部を押さえて苦しんでいる。
「○○さん、痛みどのくらいですか?息できますか?」
「い、いた……い……!」
汗。顔面蒼白。心拍数上昇。
「柚希、陽向先生呼んで!」
「はいっ!」
だが、数回コールしても応答がない。
「あれっ?……出ない。」
その一言に、結衣の眉が動いた。
「貸して。私がかける。」
受話器を取り、少し強い声で呼びかける。
「陽向先生、302号室急変です!繰り返します、急変です!」
しばらくの沈黙のあと、
「……すぐ行きます。」という眠たげな声が返ってきた。
数分後、陽向先生が駆け込んでくる。
髪が少し乱れ、白衣の裾が揺れる。
「ごめん、すぐに対応する!」
それからの動きは、まるで別人だった。
瞬時に症状を見極め、適切な処置を指示する。
「鎮痛薬、準備お願いします。」
「はい。」
「血圧低下してる、ルート確保を。」
「了解。」
言葉のやり取りが早く、無駄がない。
結衣は息を合わせながら、その手際に見入っていた。
――やっぱり、すごい人なんだ。
患者の表情が落ち着くころには、もう午前3時を回っていた。
ナースステーションに戻った結衣は、静かに息を吐いた。
背中に疲労が重くのしかかる。
陽向先生がカルテを書きながら、ぽつりと呟いた。
「……焦ったな。あんなに痛がるとは。」
「早い対応でした。助かりました。」
「いや、橘さんのおかげだよ。コールも的確だったし。」
「……でも、陽向先生、電話出るの遅かったですよね。
他の病棟で何かあったんですか?」
声のトーンは冷静。けれど、胸の奥には小さな苛立ち。
陽向先生は一瞬目を瞬かせ、それから少し照れ笑いを浮かべた。
「ああ、ごめん。ちょっと仮眠室で寝落ちしてて……気づかなかったんだ。」
――は?
――寝落ち?
その一言が、思いのほか強く響いた。
「陽向先生、お疲れなのはわかりますけど、いつ急変してもおかしくない患者さんもいるんです。
当直の間は、気を引き締めてくださいね。」
口調が少し強くなってしまう。
だが、陽向先生は怒ることもなく、柔らかい目で結衣を見つめた。
「うん。ごめんね。橘さんにも迷惑かけた。気をつけるよ。」
その優しい声に、怒る気持ちはどこかへ消えてしまう。
――憎めない人。まるで太陽みたいに、すべてを溶かしていく。
「……お疲れ様でした。」
そう言って背を向けた瞬間。
「――あ、ちょっと待って。」
手首を軽く掴まれた。
驚いて振り向くと、陽向先生が少し真剣な顔をしていた。
「橘さんがいてくれて助かった。本当に、ありがとう。」
その言葉に、息が詰まる。
手のひらから伝わる温もり。心臓の鼓動がうるさく響く。
「いえ……仕事ですので。」
努めて冷静に返すと、彼はすぐに手を離した。
「あ、ごめん。引き止めちゃったね。」
笑顔。
いつもの柔らかい笑顔なのに――なぜだろう。
今夜は少しだけ、違って見えた。
ナースステーションに戻る途中、掴まれていた腕をそっと押さえる。
まだ熱い。
――なんで、こんなに熱いの。
夜が明けた。
窓の外は、淡いオレンジの光で満たされていた。
休憩室では、柚希がカフェオレを両手に持って欠伸をしている。
「ねえ結衣、陽向先生ってさ、なんか天然っぽくない?」
「そうかもね。」
「でも、あの笑顔反則だよ。つい許しちゃう感じ?」
「はは……そうかもね。」
“つい許しちゃう”――その言葉が胸に残る。
まさに、そうだった。
「でもさ、結衣があんな真剣に注意してたの、ちょっと新鮮だったよ。
陽向先生、結衣のこと気にしてたよ?」
「……気のせいでしょ。」
「ほんとに?名前もちゃんと覚えてたし。」
「業務上、当然じゃない。」
少し語気が強くなった。
それ以上話すと、何かが溢れ出してしまいそうで。
柚希はにやりと笑いながらカフェオレをすすった。
「ま、今に見てなって。春は恋の季節だよ~?」
「……そういうの、もういいってば。」
窓の外では、桜の花びらが舞っていた。
風に流されて、ひとひらがガラスに貼り付き、すぐに離れていく。
――この気持ちは、何なんだろう。
もう恋なんてしないって、あの日決めたのに。
陽向先生の笑顔を思い出すたび、
胸の奥の糸が、少しずつほどけていく。
でも、結んではいけない。もう二度と。
――なのに。
その糸は、彼の声ひとつで、また静かに動き出してしまう。
春の夜の病院。
白い廊下の先で、結衣は立ち止まる。
ガラス越しに見える外の桜が、街灯の下で淡く光っていた。
「……陽向先生って…なんだか眩しい人だな。」
誰にも聞こえない小さな声で呟く。
まっすぐで、爽やかで、誰からも愛される人。
そんな人に、自分は縁がない――そう思っていたのに。
気づけば、また目で追ってしまっている。
“もう恋なんてしない”と固く結んだはずの糸。
それなのに、人生の糸はいつだって思い通りには結べない。
桜の花びらが一枚、風に乗って夜空へ舞い上がる。
――それはまるで、ほどけた糸が再び結び直されようとしているようだった。
夜風が外廊下の窓をなぞり、かすかに桜の花びらを運んでくる。
蛍光灯の光が白く照り返すナースステーションでは、時計の針の音だけが響いていた。
橘結衣は、カルテを開きながら、キーボードを打つ手を止める。
――街灯に照らされた桜が、風に揺れている。
夜の桜は、昼間よりも儚く、少し寂しげで。
まるで、昔の自分を見ているみたいだった。
今夜は陽向先生と初めての夜勤。
そう聞いたとき、結衣の胸の奥が少しだけざわついた。
「まぁ、…関係ないけどね。」
誰にも聞こえないように小さく呟いて、視線を画面に戻す。
「――あ、橘さん。今日、夜勤一緒だよね?よろしくお願いします。」
明るく、よく通る声。
振り向けば、白衣の袖を軽く折り返した陽向先生が立っていた。
夜勤だというのに、疲れを微塵も感じさせない笑顔。
髪の先がわずかに光に揺れ、どこか少年のような雰囲気を纏っている。
「はい、こちらこそ。よろしくお願いします。」
表情はできる限り淡々と。
けれど、胸の奥ではほんの少し動揺していた。
(名前、覚えてたんだ……何日か会わなかったのに)
そんな結衣の内心を知る由もなく、陽向先生は穏やかに言葉を続ける。
「橘さんって、なんだか落ち着いてますよね。2、3交代の夜勤って、慣れました?」
「まあ……まだ眠気との戦いですけど。」
「僕も。今日、夜通し持つかなって心配してます。」
冗談めかした口調に、思わず小さく笑ってしまった。
けれどその瞬間、柚希が勢いよく椅子を回転させて二人の方を向いた。
「うわーっ!やっぱり陽向先生、笑顔が反則!今日も眩しい!」
「柚希、声が大きい。」
「だってさ、あんな人と夜勤とか羨ましすぎでしょ!これ、奇跡の当番表だよ、結衣!」
「……はいはい、柚希。仕事しようね、仕事。」
苦笑しながらカルテを確認する結衣の横で、陽向先生は少し照れたように笑った。
「なんか、にぎやかで楽しい職場だね。」
「普段はもっと静かですよ。」
「そうなの?僕はこういう雰囲気なんだか好きだな。」
その柔らかい声が、まるで夜勤の疲れを吸い取るように心地よく響いた。
時刻は午前2時――。
ナースステーションの空気が、静まり返っていた。
「ふぁぁ~、眠い……。」
柚希があくびを噛み殺しながら言う。
「ダメだよ、柚希。まだ巡回残ってる。」
「わかってるけど、眠気の限界だよ~。陽向先生とか、眠くないのかなぁ?」
「うーん……どうだろうねぇ。」
そう言って笑欠伸をする柚希の横顔を見て、結衣は思った。
――疲れも、緊張も、どこか遠い世界のことみたい。
その時。
突然、電子音が鳴り響いた。
「――302号室、急変です!」
ケアワーカーからのナースコールが入った。
「え?!◯◯さん?しばらく着いてたよね?!」
柚希の声が震える。
結衣は立ち上がり、反射的に走り出した。
患者のベッドでは、60代の男性が腹部を押さえて苦しんでいる。
「○○さん、痛みどのくらいですか?息できますか?」
「い、いた……い……!」
汗。顔面蒼白。心拍数上昇。
「柚希、陽向先生呼んで!」
「はいっ!」
だが、数回コールしても応答がない。
「あれっ?……出ない。」
その一言に、結衣の眉が動いた。
「貸して。私がかける。」
受話器を取り、少し強い声で呼びかける。
「陽向先生、302号室急変です!繰り返します、急変です!」
しばらくの沈黙のあと、
「……すぐ行きます。」という眠たげな声が返ってきた。
数分後、陽向先生が駆け込んでくる。
髪が少し乱れ、白衣の裾が揺れる。
「ごめん、すぐに対応する!」
それからの動きは、まるで別人だった。
瞬時に症状を見極め、適切な処置を指示する。
「鎮痛薬、準備お願いします。」
「はい。」
「血圧低下してる、ルート確保を。」
「了解。」
言葉のやり取りが早く、無駄がない。
結衣は息を合わせながら、その手際に見入っていた。
――やっぱり、すごい人なんだ。
患者の表情が落ち着くころには、もう午前3時を回っていた。
ナースステーションに戻った結衣は、静かに息を吐いた。
背中に疲労が重くのしかかる。
陽向先生がカルテを書きながら、ぽつりと呟いた。
「……焦ったな。あんなに痛がるとは。」
「早い対応でした。助かりました。」
「いや、橘さんのおかげだよ。コールも的確だったし。」
「……でも、陽向先生、電話出るの遅かったですよね。
他の病棟で何かあったんですか?」
声のトーンは冷静。けれど、胸の奥には小さな苛立ち。
陽向先生は一瞬目を瞬かせ、それから少し照れ笑いを浮かべた。
「ああ、ごめん。ちょっと仮眠室で寝落ちしてて……気づかなかったんだ。」
――は?
――寝落ち?
その一言が、思いのほか強く響いた。
「陽向先生、お疲れなのはわかりますけど、いつ急変してもおかしくない患者さんもいるんです。
当直の間は、気を引き締めてくださいね。」
口調が少し強くなってしまう。
だが、陽向先生は怒ることもなく、柔らかい目で結衣を見つめた。
「うん。ごめんね。橘さんにも迷惑かけた。気をつけるよ。」
その優しい声に、怒る気持ちはどこかへ消えてしまう。
――憎めない人。まるで太陽みたいに、すべてを溶かしていく。
「……お疲れ様でした。」
そう言って背を向けた瞬間。
「――あ、ちょっと待って。」
手首を軽く掴まれた。
驚いて振り向くと、陽向先生が少し真剣な顔をしていた。
「橘さんがいてくれて助かった。本当に、ありがとう。」
その言葉に、息が詰まる。
手のひらから伝わる温もり。心臓の鼓動がうるさく響く。
「いえ……仕事ですので。」
努めて冷静に返すと、彼はすぐに手を離した。
「あ、ごめん。引き止めちゃったね。」
笑顔。
いつもの柔らかい笑顔なのに――なぜだろう。
今夜は少しだけ、違って見えた。
ナースステーションに戻る途中、掴まれていた腕をそっと押さえる。
まだ熱い。
――なんで、こんなに熱いの。
夜が明けた。
窓の外は、淡いオレンジの光で満たされていた。
休憩室では、柚希がカフェオレを両手に持って欠伸をしている。
「ねえ結衣、陽向先生ってさ、なんか天然っぽくない?」
「そうかもね。」
「でも、あの笑顔反則だよ。つい許しちゃう感じ?」
「はは……そうかもね。」
“つい許しちゃう”――その言葉が胸に残る。
まさに、そうだった。
「でもさ、結衣があんな真剣に注意してたの、ちょっと新鮮だったよ。
陽向先生、結衣のこと気にしてたよ?」
「……気のせいでしょ。」
「ほんとに?名前もちゃんと覚えてたし。」
「業務上、当然じゃない。」
少し語気が強くなった。
それ以上話すと、何かが溢れ出してしまいそうで。
柚希はにやりと笑いながらカフェオレをすすった。
「ま、今に見てなって。春は恋の季節だよ~?」
「……そういうの、もういいってば。」
窓の外では、桜の花びらが舞っていた。
風に流されて、ひとひらがガラスに貼り付き、すぐに離れていく。
――この気持ちは、何なんだろう。
もう恋なんてしないって、あの日決めたのに。
陽向先生の笑顔を思い出すたび、
胸の奥の糸が、少しずつほどけていく。
でも、結んではいけない。もう二度と。
――なのに。
その糸は、彼の声ひとつで、また静かに動き出してしまう。
春の夜の病院。
白い廊下の先で、結衣は立ち止まる。
ガラス越しに見える外の桜が、街灯の下で淡く光っていた。
「……陽向先生って…なんだか眩しい人だな。」
誰にも聞こえない小さな声で呟く。
まっすぐで、爽やかで、誰からも愛される人。
そんな人に、自分は縁がない――そう思っていたのに。
気づけば、また目で追ってしまっている。
“もう恋なんてしない”と固く結んだはずの糸。
それなのに、人生の糸はいつだって思い通りには結べない。
桜の花びらが一枚、風に乗って夜空へ舞い上がる。
――それはまるで、ほどけた糸が再び結び直されようとしているようだった。