ホテル・ラ・ソルーナ

第二夜:叶えられなかった夢の続き①

別に怒っているわけじゃない。

 怒ってるわけじゃないけど、俺は今日も不機嫌だ。

 それはきっと、次も要求したコースにその一球が来ないからだ。

 チームメイトたちがシートノックを受けている野球部のグラウンド横の、人工芝のブルペンのマウンドに立ち、俺からのサインに右腕エースの米倉俊介(よねくらしゅんすけ)が自信なさげにうなずく。

 まずそこにカチンとくる。

 お前、エースだろうが。孝太はそうじゃなかった。自信に満ちあふれていて、堂々としていて、キラッキラに輝いていた。孝太がマウンドに上がると試合の空気が変わった。あいつは《《でぇれー》》かっこいいエースだった。それに比べてお前はなんだ。

「なんじゃ、そのツラは」

 俊介が大きく振りかぶった瞬間に、俺はキャッチャーマスクの中で右目だけを細め、チッと舌打ちをし、想定外かつ想定内の事態に備える。

 数秒前、俺は脳内でこう設定した。

 夏の甲子園岡山県大会、第一試合目。九回裏、守備、得点は0対0。ツーアウト満塁。右打者四番。カウントはツースリー。俺たち白倉(しらくら)商業は、ここを守り切らなければサヨナラで一回戦敗退。という絶体絶命の状況を仮定し、マウンドに立つ俊介にサインを出した。

 左アウトロー、スライダー。

 うなずく俊介が大きく振りかぶり、その右手からボールが離れた瞬間、俺の中でこの試合は負けが確定して、つい舌打ちしてしまったというわけだ。初戦敗退。甲子園には行けない。

 案の定、俊介が投じた一球は少しばかり左に舵を切っただけのストレート。高さもコースも甘すぎる。敵からすれば格好の獲物が向こうからのこのことやって来てくれたという、最高にラッキーな状況だ。

 これが公式戦なら、一回戦敗退だった。秋季中国地区高校野球大会優勝、選抜高等学校野球大会出場。今年の夏の甲子園岡山県大会の優勝校は白倉商業で間違いない、と巷では持ちきりのこのチームがたった一球で初戦敗退してしまうのだ。

 パスンと不甲斐ない音を立てて俺のミットに吸い込まれたボールを、間髪入れずにすぐさま、マウンドに投げ返してやった。

「のう! 俊介ぇ!」

 弧を描いて飛んで行ったボールをグローブでキャッチして、俊介がつまらなそうに俺を見て両肩を落とした。イライラする。むしゃくしゃがおさまらない。

「俺はスライダーを要求したんじゃがのう! なんじゃぁ、今のは」

 真剣にやれぇ! と叫んだ絶賛不機嫌な俺に、俊介はあからさまにむっとした様子で、ぶつくさと何かをこぼして、返事もせずにぷいっとそっぽを向いた。その態度もまた俺をイラつかせる。

「なんじゃあ! おい、俊介ぇ!」

 キャッチャーマスクをぶっきらぼうな手つきで剥ぎ取り、でかい声で俊介を威嚇する。俊介は何も悪い事なんかしていないのに。ひとつもしていないのに。

「言いてぇことがあるんじゃったら、はっきり言やぁええじゃろ!」

 何がそんなに気に食わないんだ、俺は。そうだ。何もかも、全てが気に食わない。仕方のない事だということも、どうにもならないということも、分かっている。もう時間を戻せないことも、孝太が戻って来ないことも、ちゃんと頭では理解しているのに。

「うるせえんじゃぁ!」

 と、俊介がマウンドにボールを思いっきり叩きつけた。ボールは小規模な爆発が起こったような砂埃を立ててバウンドすると、てん、てんてん、ててて……と俺の方へと転がってきた。

「おめえ、なにしょんじゃぁ! ちばけるな(ふざけるな)!」

 だめだ。全然、気持ちがおさまらない。どうしてこうも面白くないんだ。どうしてこんなに腹が立つんだ。なんでだ。

 俺は転がって来たボールを拾うと、マウンドへ向かってつかつかと詰め寄って行った。

「おめえはエース失格じゃ! ボールの扱い方も知らんのか? 扱い方間違えるんじゃねえ」

 ずいっとボールを差し出すと、俊介は俺の手を乱暴に叩き、

「どうせ……俺は千隼(ちはや)が望んどるようなエースにゃあなれんのじゃ!」

 プロテクターの胸元を手繰り寄せるようにつかむと、目をつり上げて顔を近付けてきた。

「ええか? よう見られぇ! 俺は俊介じゃあ! 孝太じゃねえ! 孝太にゃあなれんのじゃ!」

「な、んじゃとぉ?」

 今、いちばん言われたくなかったことをズバリ言われて、ついかあっと頭に血がのぼった。

「ちばけるんじゃねえ! 投球コントロール磨いてからものを言え!」

「わしがどねーにコントロール良うなっても、千隼はぜってぇ納得できんのじゃろうが!」

 気付けばお互いに胸ぐらをつかみ、睨み合っていた。一発触発。最近は、毎日、こんな状態が続いている。顔を合わせれば、投球練習を始めれば、ぶつかり合う。バッテリーがこんなふうにいがみ合っているために、部全体がもうバラバラだ。雰囲気は最悪。チームワークも最悪。もう、今年の夏しかチャンスはないのに。あと、二ヶ月しかないのに。時間は本当にもう限られているのに。

 俺と俊介の関係も、こうではなかった。もともとはでぇれー仲が良かった。

 俺と俊介は小学4年生からの仲だ。俊介が島根県から岡山の倉敷へ移住して来て、転校して来た時からずっと一緒に野球部で切磋琢磨してきた、大切な仲間だ。ぶっきらぼうで野球しか頭にない俺、ポジティブで底抜けに明るく人懐こい俊介、優しくて穏やかな孝太。俺たちは仲が良かった。それは中学になっても、高校になっても変わらなかった。

 でも、変わってしまった。きっかけは孝太の死と、意味不明な俺のせいだった。

 孝太が居なくなったあの日から、俺はとにかく面白くない。何に対しても腹を立てて、いつもむしゃくしゃしている。

「のう、千隼ぁ。おめぇはいつまでそうやって腐っとるんじゃ?」

「なんじゃとぉ?」

 今にも殴り合いに発展しそうな一発触発の俺たちの横をタタタッと小走りで横切って、

「ちいとちいと! やめられーや! 喧嘩はおえん!」

 あたふたしながらネットをくぐり抜けてブルペンに飛び込んで来たのは、マネージャーの白神彩世《しらかみあやせ》だった。

「この大事な時期になんしょん? 千隼も、俊介も!」

 やめられーや! と俺と俊介の間に入り込んで、両手で押し離そうと頑張る彩世に俊介が言った。

「ええか、彩世。千隼はのう、孝太じゃねえと納得できんのじゃぁ」

「はぁ? またそねーなこと……そねぇなことないって言うとるじゃろ?」

 彩世が必死になだめても、俊介は目を血走らせ、俺の胸をドンと突き飛ばすとフンと鼻で笑い飛ばした。

「千隼は俺じゃのうて孝太の球を受けてーんじゃ。孝太以外のエースは納得できんのじゃ。そうじゃろ? じゃけぇ、俺はもう、千隼とはバッテリーは組めん」

 付き合うておれん、そう言って、俊介はブルペンを出てベンチへ戻り、グローブを投げ出すように置くと、ランニングに行ってしまった。無言のままプロテクターを外していると、彩世が俺の肩を小さな手でぽんぽんと二度叩いた。

「のう、千隼ぁ。治安悪すぎじゃろ。仲ようしてよ。孝太と同レベルの投手はもう、俊介しかおらんのじゃけぇさ。千隼の気持ちも分からんわけじゃないよ。じゃけど、このままはおえん(だめ)じゃろ」

 もうちいと冷静になってぇ、そう言って、彩世は俊介をなだめようとしているのか、追い掛けて行った。それもまた面白くない。

「うるせえんじゃ。おせっかいが」

 俺はフンと鼻を鳴らして笑い飛ばし、俊介がボールを叩きつけた時に小さくえぐれたマウンドを、スパイクでささっと大雑把に踏み均した。

 彩世は3年もマネージャーという位置から俺たちを見守ってきたくせに、何も分かっていない。孝太と同レベルの投手ってなんだ。孝太の代わりになれる奴なんかいないのに。バカ言われちゃ困る。そうだ。俺は、孝太じゃないと納得できないのだ。

 俺は他の誰でもなく、孝太が投じるボールを、一生、取り続けたかったのだ。

「くそったれ」

 深紅の糸が少しほつれて汚れがシミになった白球を拾い、ぎゅっと握り締め、奥歯を噛む。目の奥がじんわりと染みるように熱くなった。また懲りずに涙が出そうになる。

 どうしてこんなにむしゃくしゃするんだろう。どうしてこんなに面白くないんだろう。俊介がサウスポーだったら、こんなふうに不機嫌じゃなかったのか? ……いいや、違う。例えそうだったとしても、俺は変わらず不機嫌なはずだ。

 孝太。お前のせいだ。そうだ。俊介が言った通りだ。俺は孝太と一緒に野球がしたいのだ。孝太。俺はこれからどうしたらいいのか教えて欲しい。最近は、もう野球なんて、どうでもいいのかもしれないなんて思う瞬間がある。あれほど恋い焦がれた甲子園にも出場できなくたっていい。

 だってもう、どうあがいたって孝太と一緒に甲子園に行くことは叶わないし、孝太と同じ白球を追い掛けることさえできないのだ。孝太が居なくなってから、俺はとにかく面白くなくて仕方ない。

 この世界にお前が居なくなってから、毎日こうして不機嫌で、息をすることさえ億劫で、何をしても疲れてしまう。

 孝太が居ないこんな殺風景な世界は大嫌いだ。




 四月上旬、県下一と言われる醍醐桜が今年も満開を迎えた日の夕方だった。

 その日は、やっと春が訪れたばかりだというのに、立っているだけで汗ばむ、気温が二十五度を超えた夏日だった。まだ春休み中で、午後から部活だったから、練習が終わるまで全く分からなかった。

「のう、千隼」

 投球練習の最後に、俊介とクールダウンのキャッチボールをしていた時、彩世が話し掛けて来た。

「孝太、無菌室出たんじゃろ?」

 大きな瞳をくるくると輝かせ、ポニーテールの毛先を弾ませて、彩世が首をこてんとかしげる。俊介からのボールをキャッチしてから俺はうなずいた。

「ほうじゃぁ。昨日、ラインがきてのう。人数制限とか時間制限はあるらしいんじゃけど、面会もできるようになったって、でぇれー喜んどった」

「ほうかぁ。そりゃあ良かったね。孝太、よう頑張ったのう」

「彩世からも孝太にラインしちゃれよ。元気かーって。あいつ喜ぶぞな。ぜってぇ暇しとるけぇ」

「え、もうしたよ。じゃけど、既読にならんけぇ、千隼に聞いとるんじゃろうが」

 ほれ、と彩世がジャージのポケットからスマホを取り出し、ラインのトーク画面をずいっと見せてきた。

――体調どねー?

 確かに、13時に送信されているそのメッセージに未だ既読は付いていない。

「ほんまじゃ。寝とるんかもしれんし。まあ、そのうち返ってくるじゃろ」

 俺が投げたボールは緩い弧を描き、俊介のグローブの中におさまった。

「え! まじでかぁー!」

 ボールをキャッチした瞬間に俊介がくっしゃくしゃの笑顔で、おれと彩背の所へ半分スキップで駆け寄って来た。

「孝太、頑張っとるんじゃな。おれも負けられんのう」

 俊介はいつも元気でお調子者で、だけど、俊介が居るだけでその場の空気が一気に明るくなる。白倉商業野球部のムードメーカーだ。つり上がり気味の目は、不思議なことに笑うと情けないくらいにへにゃんと垂れ下がる。ポジションはピッチャー。パワーが持ち味の右腕投手で、決め球は鋭い低めのスライダー。

 左腕投手でエースの鳴瀬孝太(なるせこうた)と二枚看板でチームを引っ張っている。

「また、孝太のナックル、見れるとええなあ。孝太のナックルえげつねえけぇのう」

 つぶやくようにそう言って、俊介は夕焼けに染まるグラウンドのマウンドをまぶしそうに目を細めて見つめる。そして、グローブを着けている左手で真っ直ぐセンターを指した。

「孝太がマウンドに立っとる時、俺、センターにおるじゃろ」

 俺と彩世が一緒にうなずくと、俊介はちょっと興奮気味に言った。あの位置から見る孝太のナックルボールは絶景なのだと。

「無回転なのに右に左に、木の葉がヒラヒラ落ちるみてぇに、そらぁもう、不規則極まりのうて。わくわくするんじゃ。打者のあの、はぁー?、って戸惑うとる顔。たまらんのじゃ。打者だけじゃのうて、味方の千隼まで全集中しとって。しびれるんじゃぁ」

「あ、その気持ち、うちもよう分かる。ありゃぁまさに魔球じゃ!」

 と彩世がひとつジャンプした。

「それそれ! 魔球、魔球! 俺もあねーな一球投げてみてぇ人生じゃったのう」

 恍惚とうっとりしながら言う俊介の背中をミットでバシッと一発叩いて、俺は笑ってしまった。

「あほう。なにうっとりしとんじゃあ。俊介にはスライダーがあるじゃろうが」

「え? 俺のスライダー?」

 ぽかん、とまるで埴輪のような顔で固まる俊介の背中を、今度は彩世が手でバシバシ叩きながら言った。

「じゃじゃ! 俊介は、スライダーの使い手じゃぁ!」

 すると、俊介は「ほうじゃったのう!」とぱあっと全力笑顔になるからひょうきんだ。

「孝太が戻って来る頃にゃあ、レベル100のスライダーに進化しとるかもしれんのう」

 キシシ、とギャグマンガの主人公みたいな笑い方をする俊介を、彩世が全力で呆れて笑っていた。

「レベル100のスライダーってどねぇなボールなん? 俊介だけじゃ先が思いやられるけぇ、早う孝太、戻って来んかなぁ」

 俺も俊介も、彩世も。もちろん部員みんなが孝太の復帰を待ち望んでいた。例え、夏の甲子園予選に間に合わないとしても、時間が掛かったとしても、きっとまた絶対に、孝太は戻って来て、マウンドに立つんだと。誰もが信じて疑わなかった。

 練習も片付けもグラウンド整備も全て終わった時には17時を過ぎていて、世界がオレンジ色に染まっていた。その日は夕焼け色に染まった空がやけに綺麗だったから、強烈に印象に残っている。

 部室で土埃まみれの練習儀から制服に着替えようと鞄を開くと、スマホの不在着信ランプが蛍のように点滅していた。タオルで顔の汗を拭きながら確認すると、

「お、なんじゃ。電話とはめずらしいのう」

 孝太からの着信が一件、表示されていた。孝太はラインメッセージは頻繁に送って来るけど、電話なんて滅多に掛けて来ないからめずらしいなと思った。現在の時刻は17時15分。着信があったのが15時50分だった。

 何か急ぎの話でもあったんだろうか。それにしてもメッセージが入っているわけでもないし。孝太のことだから、15時50分は部活中だということは分かっているはずだし……。おかしいな。やっぱり、なんか急ぎか、大事な話があったか。掛け間違えたか……それはさすがにないか。

「どねぇーした、千隼」

 ぼんやりして、と俊介から背中を小突かれてハッと我に返った。

「早う着替えて帰るぞな」

「ああ、うん。いや、孝太から電話があったんじゃ」

「電話?」

 横から覗き込んで来た俊介もまた「おっ」と声を洩らし、「めずらしいのう」とちょっと嬉しそうに笑った。

「電話できるってことは、そんだけ体調がええってことじゃねぇんか?」

「じゃな」

「かけ直してみぃや。俺も孝太と話してぇ」

 入院当初はよく部活終わりになると孝太から電話があって、話しをしたりすることもあったけど、ここ三ヵ月くらいはよほどの事がない限り孝太から電話が掛かってくることはなくなった。治療がきつくなって、話すことさえしんどくなっていたからだ。だから、不在着信を見た俺も俊介も嬉しかった。電話が出来るくらい体調が良いのかと思うと、嬉しくてたまらなかった。

 「のう。これ、超絶にスース―するらしい。ギャッツビー氷冷。挑戦者おらんか?」

 ひと拭きで氷水に入ったように涼しくなるらしい、とどこから仕入れたのか分からない情報でドラッグストアから購入して来たボディペーパーを薦めるやつ。試すやつ。効果倍増にしてやると言って、そいつをうちわで扇ぐやつ。反応に興味津々なやつ。

「どねーじゃ? 冷てぇんか?」

「いや? そうでも……ぐはあぁぁっ! こらぁおえん! スース―じゃねえ! ジンジンするー!」

「あほうじゃのう! もっと扇いじゃれ! ほれ!」

 ギエェー! と絶叫と爆笑が渦巻く騒がしい部室を抜け出して、異様なほど美しい夕焼け色に染まるグラウンドを眺めながら、通話ボタンを押した。

「……なんじゃ?」

 寝てるんだろうか。まあ、着信があったのはもう一時間半も前のことだし。

 9コールしても繋がらず、次の10コール目でも繋がらなかったら時間を置いてからもう一度かけ直そうと思い、一旦切ろうとボタンを押しかけたとき、その電話は予想外の人物と繋がった。

「すまん、孝太。部活、いま終わったんじゃ。のう、――」

 孝太、と呼びかけようとした親友の名前をごくっと丸呑みしたのは、電話に出たのが孝太の母親だったからだ。

「……ち……はやぁっ」

 背中を得体の知れない不快な感覚が走った。いつも元気いっぱいの「千隼!」じゃなくて、ひぃひぃと泣きじゃくるおばちゃんの嗚咽が、スマホに押し当てた耳に、ダイレクトに入って来たからだ。

「おばちゃん、なに泣いとんじゃあ」

 心臓がばっくんばっくん、口からごろりとまろび出るんじゃないかと不安になるほど暴れまわった。

 不思議な色をしていた。今日の夕焼けは異様な色だ。オレンジと赤と紫が混じった不思議な、でも異様に美しい色だった。一羽の鳶がグラウンドの上空をすーいと一回転して、カシスオレンジ色に燃える西の空に向かって飛んで行った。

 なんでだ。なんで、おばちゃんは泣いているんだ。どうして、電話に孝太が出ないんだ。

「のう、おばちゃん。すまんが、孝太と代わってくれんか?」

「千隼……孝太が……孝太がなぁっ!」

 俺の声を抑え込んで被せて来たおばちゃんの絶叫するような声に、さあっと血の気が引いて、指先がキンキンに冷たくなった。

「どねぇしたん? 容体急変か? のう、おばちゃん!」

「違うんよ……千隼っ……」

「なんでそねぇに泣きょーるんじゃ、おばちゃん」

 俺はきっと鈍感なんだと思う。だけど、今、とんでもないことが起きていることだけは、分かってしまったのは確かだ。ごくっと唾を飲み込んでから、やっとの思いで声を出した。

「孝太は? どねぇしとるん?」

 千隼先輩、お先っす。お疲れっした。と制服に着替えた後輩たちが。なんじゃぁ千隼ぁ、まだ着替えとらんのか、早う着替えられー。また明日なぁ。とナインの皆が。まるで案山子のように棒立ちのまま固まる俺に声を掛けたり、手を上げて、じゃれ合いながら遠ざかって行く。

「孝太なぁ……死んで、しもうたんじゃ……あぁっ」

 おばちゃんの声は遥か彼方から微かに聞こえていて、ばっくんばっくんと心臓の音がまるで和太鼓のように耳に響いていた。

「なに、言うとるんじゃぁ……ちばけるなよ、おばちゃん。さすがの俺も怒るぞな」

 部屋から一歩も出れない、食べ物も飲み物も制限されて、刑務所に入れられたみたいだ。そう言っていた無菌室から約二ヶ月ぶりに出られたんだ、嬉しい、と昨日、ラインが届いたばかりなのに。また面会が出来るようになったから会いに来てくれと、孝太はあんなに喜んでいたのに。

「無菌室、出たばっかりじゃろう。数値良うなったんじゃなかったんか?」

「違うんよ」

 電話越しにめそめそと涙が絡んだ声で、おばちゃんがこれまたとんでもないことを言うものだから。

「自殺じゃぁ……」

「……はぁ?」

「ほんまにさっきじゃったんよ。8階の、非常階段からのぅ……飛び降りたんじゃぁ」

 たまらず、ははははは! と笑ってしまった。

「自殺ってなんじゃあ! 自殺、て……あほうか」

 でも、カタカタと震える右手からスマホがするりと滑り落ちそうになる。

「ええ加減にしてもらえんじゃろうか。何言よるんじゃ」

 自殺ってなんだよ。孝太が自殺なんてするわけないだろ。あいつは……孝太は。

「甲子園に行くんじゃあ! 俺と一緒に行くんじゃあ! そねぇなん、おばちゃんがいちばん分かっとるじゃろ!」

「千隼あぁっ!」

 怒鳴るような、悲鳴のようなおばちゃんの声が耳をつんざいて、ハッと我に返った瞬間に歯を食いしばった。

「あの子なぁ……ほんとに、死んじゃったんよ」

「嘘じゃぁ……っ」

「孝太は、死んだんじゃ。のう、千隼ぁぁ」

 動くことが出来なかった。

 足がどうにもこうにも動いてくれなかった。そこに立っていることで精一杯だった。

「のう、どねぇした? 孝太、なんじゃって?」

 とん、と肩を叩かれたほんの少しの衝撃で、俺は手からスマホを落としてしまった。運良くやわらかい芝生の草の上に落ちたスマホから、おばちゃんの悲痛な嗚咽がわんさか洩れだしていた。

「なんじゃ……孝太に何かあったんか?」

 のう! と俊介に肩を強く揺すられて、でも、俺は何も答えることができなかった。

 孝太が死んだと言われて、そうですか、分かりました、なんて簡単に認めるわけにはいかなかった。死んだのはきっと嘘でもなんでもなくて、事実なんだろうと頭では漠然と理解できるのに、心が追い着いて行かなかった。

 まだ会えると思っていた。

 ただ、とにかく、孝太に会いたかった。会いたくて、孝太に会いたい気持ちだけが先走って、動けなかった。

 そのあとの記憶は断片的で、曖昧だ。

 ただ、異様に、夕焼けが綺麗だったことはしっかりと覚えている。

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