【完結】こっち向いて!少尉さん ー 君は僕の甘い人 ー

19 お父さまの話とは…? 少尉さん

 朝早く町の病院を出たが、前線近くの野戦病院に着いたのは昼前だった。
 冬の弱い太陽が(わび)しく戦場を照らしている。
「お父さま!」
 防水テントの下にはマットすらない。それが前線の医療施設だ。ゴムのシートに横たわった多くの兵士たちがうめき声を上げていた。
 すっかり慣れた消毒液と血の匂い。
 この奥が父の部屋である。部屋と言えるかどうか。かろうじて壁と天井だけああるだけの建屋である。それでもここでは最上の待遇と言えた。
 剥き出しの湿った土に(じか)に置かれた、簡易ベッドの上に横たわっているのは父だった。
 さすがにシートの上には寝かされてはいないが、下は地べただから湿気は登ってくるだろう。頭には包帯が幾重にも巻かれている。
 頑丈だけが取り柄なのさ、と豪快に笑っていたフリューゲルが、土気色の顔色で力なく呼吸する姿に、アンは思わず粗末なベッドの側に走り込んだ。
「お父さま……お父さま……アンが参りました! お具合はどうですか?」
 だが、返事はない。眠っているようだ。
「あんたがお嬢さんかね? 私は軍医のサムエルだ」
「サムエルさま? 私は娘のアンシェリーと申します。」
「敬称略でね、アン。父上には砲弾の破片が当たったんだよ。鉄兜がなかったら即死だった。ただ、衝撃が大きかったようで、しばらく意識がなく、今朝方少し目を覚まして少しだけ話ができたんだが、十分ほどでまた眠ってしまった。だが、眼球や手足の指先の動きには異常はないし、吐き気もないので、頭蓋内(ずがいない)の出血はないと思われる。重めの脳震盪(のうしんとう)だろう」
 父とそう変わらない白髪の軍医が明快に説明する。そのてきぱきした言い方にアンはかえって励まされた。
「意識が戻っても、すぐには動かせない。しばらくは要観察だ。だが、後方に下がっても指揮は取れる。この男なら」
「サムエル先生は、お父さまをよくご存知なのですか?」
「ああ。若い頃は一緒に戦った。今は別の立場だが、やっぱり一緒に戦っておる」
 その時、一際大きな破裂音がして、直後に地響きが伝わってきた。テントの支柱がぶるぶると揺れ、思わずアンは父の体に覆いかぶさった。
「砲撃だ。近頃はあまりないが、たまに川を超えて来よる」
「……は、はい」
「心配せんでもええ。ここまでは届かん。我が軍は優位に立っておるよ。見習い看護婦に志願したとな? この男と同じく勇気ある行動だよ。父上をよろしくな、アン」
「……う」
 その時、フリューゲルの(まぶた)が動いて、うっすらと目が開いた。
「お父さま! アンです! お気を確かに!」
「おお……アン……アンか?」
「はい!」
「なんで来た……ここは危険だ……すぐに後方に帰りなさい」
「いいえ! アンはお父さまが後方に下がられるまで、お側にいます!」
 フリューゲルは苦しそうに深い吐息をついた。サムエルが眼窩(がんか)にペン型のライトを当てる。
「ふむ、異常なしだ。気分はどうだ? 頭痛はせんか?」
「ああ、藪医者か……頭痛はするな」
「そうだろう。しばらく動かない方がいい」
「戦況は?」
「今朝はまだマシかの。こっちまで届いは砲弾は二発だけ。川向こうからの報告では、昨夜から進んだ距離は五十メートルほどだ。まぁ成果と言えるじゃろう」
「……犠牲は?」
「この戦区じゃ怪我人を含めて三十人ばかり。まぁ、お嬢さんが持ってきくれた医薬品のおかげでなんとかなる」
「そうか……」
 そう言って、フリューゲルは再び目を閉じた。
「飲める時に薬を飲んでおけ。少しは楽になる」
「私がいたします」
 アンは医師から吸い飲みを受け取り、父の乾いた唇に流し込んだ。フリューゲルは顔を(しか)めながらも全部飲み下す。苦いのだろう。
「ではアン、この男を頼むよ。我が軍に必要な男だでな。私は他の怪我人を診ねばならん」
「お任せください」
「後で、寝具を届けさせましょう。何かあれば、テントの外に警備兵がいますから、お申し付けください」
 ケインもそう言って、父のテントを後にし、アンはただ一つだけある椅子に腰を下ろす。
 薄暗いテントの中はしばし静かになった。
 しかし、耳を澄ますと、周囲テントから重傷者のうめき声が漏れ聞こえる。時々、悲鳴のような声が上がるのは、少ない麻酔で傷口を縫合しているからだろうか?

 少尉さん……どうかご無事で……。

 そのままアンは眠ってしまったらしい。
 気がつくと、父がアンを見つめていた。先ほどより目に力が宿っているように見える。
「アン……」
「はっ、はい!」
 眠っていると思った父に名を呼ばれ、アンははっと我にかえった。
「すみません、うっかり寝てしまって……今何時ですか? いえ、いいんです」
 つい習慣で言ってしまってから、父にもわからないだろうと自分の時計を見る。六時を過ぎた頃合いだった。
「すまない……結局お前をこんなところにまで、呼び寄せてしまう結果となって……」
「いいえ。私は来るべくして来たんです。お父様のことがなくても、いつかはきたんだと思います」
「……」
「そんな顔をなさらないで。私は見習いでも看護師です。そしてお父様の娘です。ここでできる限りのことはします!」
「そうか……さすがは私の娘だ……アン」
「はい」
「ひとつ、確かめたいんだが」
「なんですか?」
「お前の、あの……能力は衰えてはいないか?」
「え?」
 父はアンの馬と交流できる、能力とも言えない妙な力のことを言っているのだろうか?
 乗馬を始めた頃、アンがあまりにも早く馬を乗りこなすのを見た父が驚き、アンはしどろもどろに説明した記憶。そして誰にも言うなと言われた、あの力のことを。
「は……はい。近頃は乗馬どころではありませんが、馬の心……というのでしょうか、感じていることや気配はわかります」
「そうか……ではやはりこれは、運命か?」
 フリューゲルは苦しそうに呟いた。体の苦痛よりも心の苦痛に苦しんでいる様子だ。
「お父さま? なにをおっしゃって……」
「アン……今まで言わずにすめばと思ってきたんだが」
 フュルーゲルは大儀(たいぎ)そうに太い息をついた。
「ひょっとして、以前おっしゃった私に流れる血、と言うことでしょうか?」
 父の出生前に聞いたこの言葉を、アンはよく覚えていた。それは血縁と言う以外の意味があるように思ったのだ。
「そうだ。私たちには古くは秘色(ひしょく)の民と言われた人々の血が流れている……私にも、カーマインにも、そしてレイルダーも」
「秘色の民」
 初めて聞く言葉だった。
「お父さまやお母さまが?」
「そうだ。そしてお前にも、半分秘色の血が受け継がれている。その血の話をしておこう」
「……血の、話を」
 そうして父は語り始めた。

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