【完結】こっち向いて!少尉さん ー 君は僕の甘い人 ー

27 お疲れですか? 少尉さん

 二人は並んで前線基地をゆっくり駆けた。
 疲れた馬の負担にならないように、そして話ができるように。
「あの、軍馬さんたち……三頭とも怪我がなくて、本当によかった。あのでも……ラジムさんの馬車を引いていた子たちはどうなったんですか?」
「……」
 レイルダーが答えないので、アンは馬車馬たちが犠牲になったことを知る。人間たちの勝手な思惑で、罪もない馬たちまでが死んでしまうのだ。
「もう、戦争は終わりますか?」
「ああ。敵の指導者が逃げ出して捕まったんだから」
「よかった」
「髪を切ったんだな、アン」
 背中の中ほどまであったアンの髪は、今は男の子のように刈り込まれている。髪が多くて巻き毛だから、それでもふわふわしているが。
「え? あ、はい。病院ではなかなかお風呂に入れないと思って、首都を出る前にエレンに切ってもらいました」
「エレンは残念がってただろう?」
「泣いてましたね」
「そりゃなぁ……」
「ますます、不細工ですもんねぇ」
 アンはちょっと悲しそうに笑った。
「ぶさいく? いったいアンはなんのことを言ってるんだ?」
 彼はそう言って馬に軽く手綱を当てると、アンを追い越して七十二号の前に出た。
 そんなことはないと、少しだけでも慰めて欲しかったアンの期待は、見事に外れてしまう。
 厩舎前の柵に入ったレイルダーは、さっさと馬を下りて歩き出した。厩舎の入り口は開け放たれている。へこみ気味のアンなど振り返りもしない。
 それは昔から見慣れた姿。でも、命が危ぶまれた闇を通り抜けたこの朝に、なぜだか見たくない姿だった。
 川向こうの戦場でアンの命を救い、怖くて泣き出したアン一生懸命に泣き止ませてくれたのは、ついさっきの出来事なのに。
 小さい頃から見つめ、追いかけてきた真っ直ぐな背中がどんどん遠ざかる。

 お願い……こっち向いて!
 私を見て!

「少尉さん!」
 朝の冷えた空気の中にアンの澄んだ声が、きんと響いた。男の足が止まる。
「少尉さん」
 その間にアンは走って追いつき、彼の横に並んだ。厩舎はもうすぐそこだ。
「あのぅ……やっぱり私のこと怒っているんですか?」
 冬の空より明るい瞳がアンをとらえる。無機質な表情からその感情を読み取ることはできなかった。
「……ああ、そうだな。俺は怒っている。アンをこんなところにまで来させてしまった」
「言ったでしょう? 私がここに来たのは私の意志です。少尉さんのせいではありません」
「……もっと早くアンに伝えておくべきだったよ。軍隊には関わるなって」
「それは、私が少尉さんの言うことを、なんでも素直に聞く子どもだから、ですか?」
「……」
 レイルダーはその言葉に一瞬立ち止まったが、黙って厩舎に馬を連れて入った。
 厩舎は前線基地の端にあるので、最前線が川の向こうに移ってからは砲撃されることがなくなり、馬たちは落ち着いていた。
 近代戦における攻撃や移動手段は車両に置き換わっているから、馬の数は多くない。当直の兵士もたった二人だけだった。
「ご苦労様です!」
「ここは俺がやる。お前たち、ちょっと外せ」
 敬礼する兵士にそう言い捨てて、レイルダーは馬たちを馬房に入れた。
「……は!」
 アンも飼い葉桶にえん麦を入れ、水桶には綺麗な水を満たしてやる。二人はしばらく黙々と馬たちの世話をした。
「ご苦労様。ゆっくりと休んでね」
 七十二号がすっかり安心しているのをみて、アンもやっと心が軽くなった。

 これからは馬たちも平和に暮らせるといいな……って、少尉さんは?

 見ると、レイルダーは乾草の山の中にどっと腰を下ろし、水筒から水を飲んでいた。彼はこの数日間、ずっと敵地で行動していたのだ。よほど疲れているのだろう。
「アンも飲みな」
 くしゃくしゃになった金髪をかきあげながら、レイルダーは水筒を差し出した。
「は、はい。ありがとうございます」
 受け取ったアンは、ごくごくと冷えた水を飲み下す。気がつかなかったがよほど喉が渇いていたのか、水はあっという間になくなってしまった。
「あ、全部飲んじゃった。ごめんなさい」
 アンはレイルダーに水筒を返そうと差し出した。
「……えっ!?」
 突然体が傾く。
 空の水筒が床に転がり、その金属音に馬たちがぴくりと耳を立てた。
 なのに、アンは馬たちの気持ちを推し量ることができなかった。
 強い腕にすっぽりと包み込まれていたから。
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