雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~
交差する過去
「……私と君の母、晶子が出会ったのは十九の頃だ。通っていた大学の構内に大きな桜の樹があってね。彼女はその樹の根元に一人で座っていた。白いシャツに深い紺色のスカートがよく似合っていたよ。その日、彼女は膝の上に分厚い課題の紙束を置いて一心不乱に……まるで時を惜しむように勉学に励んでいた。その姿に、私はひと目で心奪われたんだ」
ソファに腰かけた荒井会長はゆっくりと語り始めた。
彼の視線は過去を見つめるようにどこか遠くに向いている。表情や声音に悲哀が混じっているのは、思い出の女性が既にこの世を去っているからだろうか。
「最初は独りが好きな人なのだろうと思ったのだよ。だから中々話しかけられなかった。けれど二度、三度と彼女を見かけるうちに、どうにも我慢できなくなってね。なにより彼女が俯くと、長い髪で顔が隠れてしまうのが勿体なくて」
だから顔が見たいがために声をかけてしまったんだ、と荒井会長は続けた。
私と課長は並んで椅子に座りながら、会長の話に耳を傾けている。
———今から四十五年前。
荒井会長と本庄晶子さんは同級生として大学の構内で出会った。
始まりは会長の一目惚れ。自分でも驚くほど強烈に惹き付けられたのだと、少し照れくさそうに会長は言った。
「……財閥解体から時間が経ったとはいえ、当時はまだ荒井財閥の名に名残があったからね。私がいくら交際を申し込んでも、晶子さんは首を縦に振ってはくれなかった。住む世界が違い過ぎる、自分は身体が弱いし、家も貧乏だからと言って。けれど私も若かった……若いゆえに愚かでねぇ。愛情さえあればかまやしないと再三彼女に訴えたんだ。少しでも気持ちがあるのなら遊びでも、試しでもいいなんて言って彼女に迫って、困らせて……最後には、大学在学中のみという限定付きで、交際を承諾してもらったんだ」
苦笑しながら語る荒井会長の落ち着いた雰囲気からは想像できない話に、私と課長は驚いてしまった。
しかもどこかで聞いたような言葉もあった。私も課長に二度目の告白を受けた際「試しでもいいから」と言われた事を思い出したのだ。ちらりと課長を見上げると、複雑そうに眉を顰める彼と目が合った。
やはり彼らは親子なのだな、と違う意味で納得する。
「すごく情熱的な告白だったんですね」
課長が無言なので代わりに私が感想を述べると、会長はふっと自嘲の滲む笑みを浮かべた。
「……どうだろうね。自分でも向こう見ずで自己中心的で、大馬鹿者だと思うけれど、あんな風にひと目で恋に『落ちた』のは初めてで、彼女の傍に居ることしか考えられなかったんだ。自分と関わる事が彼女にどんな事態をもたらすか、なぜ彼女が交際期間を取り決めたのか、愚かな私は微塵も理解出来ていなかった」
還暦を過ぎた男性が、過去の自分を吐き捨てるように辛辣に評する。
それは誰もがよく口にする若かりし頃の失態、といった声音ではなく、まるで六十余年の人生のやり直しを望んでいるような、そんな心底からの後悔があった。
「大学四年間。その短い期間、私は彼女と過ごすことを許された。あの日々は本当に夢のような時間だったよ……けれど終わりは彼女が告げた通り、きっかり四年後にやってきた。卒業の日の翌日、彼女は……晶子は私の前から姿を消した。連絡先も全て処分して、忽然と、跡形もなく。まるで最初からそこに居なかったように去ってしまったんだ。追うなと言われた気がしたよ」
「……どうしてそんな事を」
ずっと黙って聞いていた課長が言葉を挟むと、荒井会長は困ったように苦みを乗せた眼を彼に向けた。
「すまない。後からわかった事だが、荒井の家の者が彼女に接触していたんだ。卒業後も関係を続けるなら、彼女の両親の勤め先も、彼女の就職先も全て潰すと脅していた。彼女は最初からそうなることを見越していたんだろう。だから交際に期間を設けたのに、親族は信じなかったようだ。……本当に、馬鹿な話だよ。そんな馬鹿な話のために、私は晶子を失い、そして取り返しのつかないことをしてしまった」
「探しはしなかったのですか」
厳しい口調で課長が荒井会長を問い詰める。声には責める響きが含まれていた。会長はそれを静かに受け止めながら、彼の怒りを噛み締めるように一度瞼を落とし、そして開いた。
「……探したよ。探さないなんて選択肢は無かった。彼女を愛していたからね。半身をもがれるような思いだった。卒業後の私は社名をカイズ・エリアルと変えた自社に勤めていたけれど、私は仕事を放りだして彼女の行方を追った。それもまた愚かな行為だった。彼女は探してくれるなと言外に伝えていたのに、信じたくなくて無視してしまったんだ。けれど私の父が……つまり君の祖父だね。父はそれが気に入らなかった。ある日、父は突然どこからか晶子を連れてきて言ったんだ。「そんなに欲しいなら妾にしろ。代わりに務めを果たせ。でなければ生かしておかん」とね。私の目の前で、彼女はすべてを諦めた顔をしていた」
「そんな……!」
信じられない乱暴な言葉に思わず声を上げると、荒井会長は苦々しい表情で絞り出すように話を続けた。
彼の向こう側、窓にはいつの間にか灰色の雲が広がっている。やや暗くなった室内に、低く、けれど苦悩に満ちた声が響く。
「戦後暫く時間が経ったとはいえ、まだまだ物騒な世の中だったからね……父はそういった繋がりも持っていた。あの時代はライバル社の社員を痛めつけたりなんてのもざらにあったんだ。当時の荒井財閥には、女性一人の運命など取るに足らないものだった。彼女の命など容易く消してしまえただろう。それに晶子は大学に通っていても生まれつき病弱で、講義も休みがちだった。だからこそ、来れた日はそれはもう熱心に学んでいた。時が惜しかったのだろうね。そんな彼女の時間を分けてもらっておいて、そのうえ危険にさらすなど……私にできるはずがなかった」
荒井会長の皺の刻まれた顔に苦渋が滲む。愛した人が自分のせいで危険に晒されるなど、どれほど苦しんだことだろうか。
固く握りしめられた会長の拳が、当時のやるせない思いを物語っている。
「彼女を逃がしたとしても、目を離せば父は何をするかわからなかった。私の未練を断ち切るために人知れず……そんな可能性もあった。だから私は彼女を手元に置くことにした。晶子に傍に居てくれと土下座したよ。彼女は頷いてくれた。本意ではなかったろうに……尚人君、君の母親を日陰者にしたのは、この私だ」
荒井会長は課長を真っ直ぐ見つめたまま真剣な表情で言い切った。非難されることを覚悟したうえでわざとそんな言い方をしたのだとわかる。
けれどそれは真実ではない気がした。それは私が女だからだろうか。
本庄晶子さんは本当に、荒井会長の傍にいることを望んでいなかったのだろうかと思ってしまう。
一度行方を眩ましたとはいえ、その心に未練は無かったのだろうかと。
「……母は貴方の元で、どんな風に過ごしていましたか」
課長は真正面から荒井会長の視線を受け止めていた。眼鏡の奥の瞳に色はない。けれど、どこか思案しているような気配があった。
彼は目で続きを促すようにただ静かに荒井会長を見つめている。
「祖父の事を覗けば、あの日々は平穏そのものだった……それが崩されたのは二十七の終わりだ。祖父は政略結婚の相手を私にあてがってね。断る事は許されなかった。晶子を連れて行かれてね。私の仕事中に、彼女は祖父によって攫われていた。祖父から「妻を娶り、後継者を作らなければ返さぬ」と言われて……私はその通りにした。それで生まれたのが、清隆だ。私は晶子に償いきれない仕打ちをした。生涯彼女だけを愛すると誓ったのに、あんな目に合わせて、巻き込んで……彼女の人生を台無しにしてしまった。けれど彼女は、一度たりとも私を責めたことはなかった」
ああ———似ている。私は瞬時にそう思った。課長とお母様。二人はとても良く似ているのだ。
自分のせいでなくとも誰も責めず、ただ見守るように在り続ける桜の大樹のような人達。それが課長と晶子さんという親子なのだろう。
「それから三十二の時に君が、尚人君が生まれた。君が二歳を迎えた頃、祖父が心臓の発作で亡くなってね。やっと解放された私達は共に荒井の家を出ようとした。けれどそれを清隆の母が許さなかった。……あれも可哀想な女だった……家のために嫁がされ、夫には最初から妾がいた。後継のためだけに関係を持つよう強制され、清隆を生んだ後は寂しさを埋めるように息子を溺愛していたよ。私は一度も清隆の母親を愛してはやれなかった。しかし私が荒井を捨てるなら、清隆の母は首を切って死ぬとまで言い張った。実際それに近いこともした。それを知った晶子は私に言ったよ、どうか一人で行かせてくれと。置いていくことを許してくれと。そもそも彼女を引き摺り込んだのは私なのに、彼女は私に詫びた。私などに関わったことを本当はずっと後悔していただろうに、彼女はそれを口にすることはなかった。彼女は……晶子は優し過ぎた。彼女と会ったのはそれきりだった」
表情に悔恨を滲ませて、壮年の男性が歯を食いしばる様は、見ているこちらの胸が痛むほど痛々しい。深すぎる後悔の念が伝わってくる。
けれど、ふと。何も言えないでいる私の隣から、静かな声が響き始めた。課長だ。
「……母は、後悔などしていませんでしたよ」
ぽつり。と。
雫が落ちるように聞こえた声は、課長だった。
荒井会長の両目が大きく見開く。その表情には信じられないという驚きがあった。身を乗り出すようにしながら、会長は躊躇うように口を開閉させ言葉を絞り出していた。
「それは……本当、なのかい?」
「ええ。俺は母自身からそう聞いています。ずっと……入院する母の元に通い、貴方の話を聞いていましたから」
一度ゆっくり瞬きをした課長が続ける。彼の声音が室内に優しく響く。
「あ、晶子は……っ彼女は、私を憎んでいなかったかい? 連絡することすら出来なかった。清隆の母に止められてしまった。祖父の気性もやり方も、まさかあれが受け継いでいたとは思わなかったんだ。最後まで、会うことすら……っ」
荒井会長が膝に置いた手を握り締める。色が白くなるほど強く力を込めているのだろう、彼のスラックスの生地に深い皺が寄っていた。愛する人のいまわの際まで会う事が叶わなかったという重い苦しみが、彼の肩に乗っている気がした。
「母は知っていましたよ。貴方からの援助の事も、俺や母や祖母を……貴方が陰ながら守っていてくれたことも。小学生の時、攫われそうになった俺を助けてくれたのは貴方が手配した者達でしたね。恐らく清隆社長の地位を脅かさないようにとか、そんなところだったんでしょう」
え、と私が驚くよりも早く荒井会長の軽い吐息が空間を叩いた。どこか納得したような気配のそれは苦さを湛えている。
「やはり気付かれていたのか……。だが、あれはそもそも君らには関りのない話だったからね。清隆の母へのせめてもの償いに、役目を譲り渡すと約束していたんだがどうにも信じきれなかったようだ。清隆の母は己の全てを息子に賭けていたようでね。当時は狂ったように君の居場所を聞かれたよ。これはまずいと思って護衛を付けた。その節は本当に迷惑をかけてしまったね……」
「大事には至りませんでしたので、俺も気にしていません。ですから、貴方も気にしないでください」
いつの間にか、課長の言葉が柔らかくなっていることに気付いた私は、ほんわりと胸が温かくなった。荒井会長の言葉の端々に、本庄課長やお母さんの晶子さんへの紛れもない深い思いが見て取れる。課長もそれに気付いたのだろう。
「……だが俺は、貴方の事を父親だとは思っていない。たとえ二歳まで過ごしていても、俺にその記憶はない。貴方とは今日会ったのが初めてだ。そんな人間を、親だと思うのは難しい」
「か、課長っ?」
そう思ったのも束の間、課長が荒井会長に向かってきっぱりと宣言した。
確かに彼は以前、荒井会長のことを父親だとは思っていないと私に語った。全く会った事もないのだと。けれど本当は二歳までは一緒に過ごしていたのだ。会長と晶子さんと、彼と親子三人で。今の口ぶりからするに課長はそれをお母さんから聞いて知っていたのだろう。それでも彼は「全く会った事はない」と断言した。
課長の中で荒井会長は「会った事もない父親」であり「ほとんど他人と同じ」ままなのだ。
でも……今の話を聞いても、それでも尚人さんはそう思い続けられるのかしら……。
ちらりと彼の様子を見る。眼鏡の奥の瞳は凪いでいて、そこに怒りも悲しみもなかった。ただそこに静かに、大人になり切ってから現れた父親の姿を捉えている。
「……君が私を父親だと思っていない事については知っているよ。実際そう言われたからな」
え?
そう言われたとはどういう意味だろうと疑問符を浮かべる私に、課長がふ、と短い溜息を吐いたのが聞こえた。どこか苦笑のこもったそれに思わず目を向けると、珍しく苦く微笑む彼の表情が目に入る。
「秘書というのは、嘘だったんですね」
「……ああ。騙して、すまなかった」
「いえ」
短い会話だけで二人には通じたようだ。けれどいまいちわからない私は内心首を傾げていた。
そんな私に、課長が振り向いて説明をしてくれる。
「俺が今までずっと秘書だと思っていた人は、彼だ」
「え……」
説明のおかげでやっと合点がいった。
秘書だと思っていた人、それは課長が子供の頃から何度かやりとりをしたことがあると言っていた「荒井会長の秘書」の事だ。それが会長自身であったということは……かつて、金銭の援助を断ろうとした彼を諭したのは荒井会長自身であったということになる。
会長は課長に自分の正体を知らせないまま、彼を支えていたのだ。
「清隆の母親に、二度と会う事は許さんと言われてな……。だが声だけでも聞きたかった。私が生涯でたった一人愛した女性との子供なのだ。晶子が死ぬ前も後も、君達の事を忘れた日はない。私の妻は晶子以外にいなかった……息子も尚人君、君だけだ」
過去も現在も全てを飲み込んだ一人の男性が、強い意志のともなう瞳でそう告げた。言葉にも表情にも嘘はなく、たった一つの本心が語られている。
課長も会長も、そして晶子さんにも、それぞれの過去があった。
その過去の糸が絡まりを解き真っ直ぐになって、今私の目の前で、交差していた。
ソファに腰かけた荒井会長はゆっくりと語り始めた。
彼の視線は過去を見つめるようにどこか遠くに向いている。表情や声音に悲哀が混じっているのは、思い出の女性が既にこの世を去っているからだろうか。
「最初は独りが好きな人なのだろうと思ったのだよ。だから中々話しかけられなかった。けれど二度、三度と彼女を見かけるうちに、どうにも我慢できなくなってね。なにより彼女が俯くと、長い髪で顔が隠れてしまうのが勿体なくて」
だから顔が見たいがために声をかけてしまったんだ、と荒井会長は続けた。
私と課長は並んで椅子に座りながら、会長の話に耳を傾けている。
———今から四十五年前。
荒井会長と本庄晶子さんは同級生として大学の構内で出会った。
始まりは会長の一目惚れ。自分でも驚くほど強烈に惹き付けられたのだと、少し照れくさそうに会長は言った。
「……財閥解体から時間が経ったとはいえ、当時はまだ荒井財閥の名に名残があったからね。私がいくら交際を申し込んでも、晶子さんは首を縦に振ってはくれなかった。住む世界が違い過ぎる、自分は身体が弱いし、家も貧乏だからと言って。けれど私も若かった……若いゆえに愚かでねぇ。愛情さえあればかまやしないと再三彼女に訴えたんだ。少しでも気持ちがあるのなら遊びでも、試しでもいいなんて言って彼女に迫って、困らせて……最後には、大学在学中のみという限定付きで、交際を承諾してもらったんだ」
苦笑しながら語る荒井会長の落ち着いた雰囲気からは想像できない話に、私と課長は驚いてしまった。
しかもどこかで聞いたような言葉もあった。私も課長に二度目の告白を受けた際「試しでもいいから」と言われた事を思い出したのだ。ちらりと課長を見上げると、複雑そうに眉を顰める彼と目が合った。
やはり彼らは親子なのだな、と違う意味で納得する。
「すごく情熱的な告白だったんですね」
課長が無言なので代わりに私が感想を述べると、会長はふっと自嘲の滲む笑みを浮かべた。
「……どうだろうね。自分でも向こう見ずで自己中心的で、大馬鹿者だと思うけれど、あんな風にひと目で恋に『落ちた』のは初めてで、彼女の傍に居ることしか考えられなかったんだ。自分と関わる事が彼女にどんな事態をもたらすか、なぜ彼女が交際期間を取り決めたのか、愚かな私は微塵も理解出来ていなかった」
還暦を過ぎた男性が、過去の自分を吐き捨てるように辛辣に評する。
それは誰もがよく口にする若かりし頃の失態、といった声音ではなく、まるで六十余年の人生のやり直しを望んでいるような、そんな心底からの後悔があった。
「大学四年間。その短い期間、私は彼女と過ごすことを許された。あの日々は本当に夢のような時間だったよ……けれど終わりは彼女が告げた通り、きっかり四年後にやってきた。卒業の日の翌日、彼女は……晶子は私の前から姿を消した。連絡先も全て処分して、忽然と、跡形もなく。まるで最初からそこに居なかったように去ってしまったんだ。追うなと言われた気がしたよ」
「……どうしてそんな事を」
ずっと黙って聞いていた課長が言葉を挟むと、荒井会長は困ったように苦みを乗せた眼を彼に向けた。
「すまない。後からわかった事だが、荒井の家の者が彼女に接触していたんだ。卒業後も関係を続けるなら、彼女の両親の勤め先も、彼女の就職先も全て潰すと脅していた。彼女は最初からそうなることを見越していたんだろう。だから交際に期間を設けたのに、親族は信じなかったようだ。……本当に、馬鹿な話だよ。そんな馬鹿な話のために、私は晶子を失い、そして取り返しのつかないことをしてしまった」
「探しはしなかったのですか」
厳しい口調で課長が荒井会長を問い詰める。声には責める響きが含まれていた。会長はそれを静かに受け止めながら、彼の怒りを噛み締めるように一度瞼を落とし、そして開いた。
「……探したよ。探さないなんて選択肢は無かった。彼女を愛していたからね。半身をもがれるような思いだった。卒業後の私は社名をカイズ・エリアルと変えた自社に勤めていたけれど、私は仕事を放りだして彼女の行方を追った。それもまた愚かな行為だった。彼女は探してくれるなと言外に伝えていたのに、信じたくなくて無視してしまったんだ。けれど私の父が……つまり君の祖父だね。父はそれが気に入らなかった。ある日、父は突然どこからか晶子を連れてきて言ったんだ。「そんなに欲しいなら妾にしろ。代わりに務めを果たせ。でなければ生かしておかん」とね。私の目の前で、彼女はすべてを諦めた顔をしていた」
「そんな……!」
信じられない乱暴な言葉に思わず声を上げると、荒井会長は苦々しい表情で絞り出すように話を続けた。
彼の向こう側、窓にはいつの間にか灰色の雲が広がっている。やや暗くなった室内に、低く、けれど苦悩に満ちた声が響く。
「戦後暫く時間が経ったとはいえ、まだまだ物騒な世の中だったからね……父はそういった繋がりも持っていた。あの時代はライバル社の社員を痛めつけたりなんてのもざらにあったんだ。当時の荒井財閥には、女性一人の運命など取るに足らないものだった。彼女の命など容易く消してしまえただろう。それに晶子は大学に通っていても生まれつき病弱で、講義も休みがちだった。だからこそ、来れた日はそれはもう熱心に学んでいた。時が惜しかったのだろうね。そんな彼女の時間を分けてもらっておいて、そのうえ危険にさらすなど……私にできるはずがなかった」
荒井会長の皺の刻まれた顔に苦渋が滲む。愛した人が自分のせいで危険に晒されるなど、どれほど苦しんだことだろうか。
固く握りしめられた会長の拳が、当時のやるせない思いを物語っている。
「彼女を逃がしたとしても、目を離せば父は何をするかわからなかった。私の未練を断ち切るために人知れず……そんな可能性もあった。だから私は彼女を手元に置くことにした。晶子に傍に居てくれと土下座したよ。彼女は頷いてくれた。本意ではなかったろうに……尚人君、君の母親を日陰者にしたのは、この私だ」
荒井会長は課長を真っ直ぐ見つめたまま真剣な表情で言い切った。非難されることを覚悟したうえでわざとそんな言い方をしたのだとわかる。
けれどそれは真実ではない気がした。それは私が女だからだろうか。
本庄晶子さんは本当に、荒井会長の傍にいることを望んでいなかったのだろうかと思ってしまう。
一度行方を眩ましたとはいえ、その心に未練は無かったのだろうかと。
「……母は貴方の元で、どんな風に過ごしていましたか」
課長は真正面から荒井会長の視線を受け止めていた。眼鏡の奥の瞳に色はない。けれど、どこか思案しているような気配があった。
彼は目で続きを促すようにただ静かに荒井会長を見つめている。
「祖父の事を覗けば、あの日々は平穏そのものだった……それが崩されたのは二十七の終わりだ。祖父は政略結婚の相手を私にあてがってね。断る事は許されなかった。晶子を連れて行かれてね。私の仕事中に、彼女は祖父によって攫われていた。祖父から「妻を娶り、後継者を作らなければ返さぬ」と言われて……私はその通りにした。それで生まれたのが、清隆だ。私は晶子に償いきれない仕打ちをした。生涯彼女だけを愛すると誓ったのに、あんな目に合わせて、巻き込んで……彼女の人生を台無しにしてしまった。けれど彼女は、一度たりとも私を責めたことはなかった」
ああ———似ている。私は瞬時にそう思った。課長とお母様。二人はとても良く似ているのだ。
自分のせいでなくとも誰も責めず、ただ見守るように在り続ける桜の大樹のような人達。それが課長と晶子さんという親子なのだろう。
「それから三十二の時に君が、尚人君が生まれた。君が二歳を迎えた頃、祖父が心臓の発作で亡くなってね。やっと解放された私達は共に荒井の家を出ようとした。けれどそれを清隆の母が許さなかった。……あれも可哀想な女だった……家のために嫁がされ、夫には最初から妾がいた。後継のためだけに関係を持つよう強制され、清隆を生んだ後は寂しさを埋めるように息子を溺愛していたよ。私は一度も清隆の母親を愛してはやれなかった。しかし私が荒井を捨てるなら、清隆の母は首を切って死ぬとまで言い張った。実際それに近いこともした。それを知った晶子は私に言ったよ、どうか一人で行かせてくれと。置いていくことを許してくれと。そもそも彼女を引き摺り込んだのは私なのに、彼女は私に詫びた。私などに関わったことを本当はずっと後悔していただろうに、彼女はそれを口にすることはなかった。彼女は……晶子は優し過ぎた。彼女と会ったのはそれきりだった」
表情に悔恨を滲ませて、壮年の男性が歯を食いしばる様は、見ているこちらの胸が痛むほど痛々しい。深すぎる後悔の念が伝わってくる。
けれど、ふと。何も言えないでいる私の隣から、静かな声が響き始めた。課長だ。
「……母は、後悔などしていませんでしたよ」
ぽつり。と。
雫が落ちるように聞こえた声は、課長だった。
荒井会長の両目が大きく見開く。その表情には信じられないという驚きがあった。身を乗り出すようにしながら、会長は躊躇うように口を開閉させ言葉を絞り出していた。
「それは……本当、なのかい?」
「ええ。俺は母自身からそう聞いています。ずっと……入院する母の元に通い、貴方の話を聞いていましたから」
一度ゆっくり瞬きをした課長が続ける。彼の声音が室内に優しく響く。
「あ、晶子は……っ彼女は、私を憎んでいなかったかい? 連絡することすら出来なかった。清隆の母に止められてしまった。祖父の気性もやり方も、まさかあれが受け継いでいたとは思わなかったんだ。最後まで、会うことすら……っ」
荒井会長が膝に置いた手を握り締める。色が白くなるほど強く力を込めているのだろう、彼のスラックスの生地に深い皺が寄っていた。愛する人のいまわの際まで会う事が叶わなかったという重い苦しみが、彼の肩に乗っている気がした。
「母は知っていましたよ。貴方からの援助の事も、俺や母や祖母を……貴方が陰ながら守っていてくれたことも。小学生の時、攫われそうになった俺を助けてくれたのは貴方が手配した者達でしたね。恐らく清隆社長の地位を脅かさないようにとか、そんなところだったんでしょう」
え、と私が驚くよりも早く荒井会長の軽い吐息が空間を叩いた。どこか納得したような気配のそれは苦さを湛えている。
「やはり気付かれていたのか……。だが、あれはそもそも君らには関りのない話だったからね。清隆の母へのせめてもの償いに、役目を譲り渡すと約束していたんだがどうにも信じきれなかったようだ。清隆の母は己の全てを息子に賭けていたようでね。当時は狂ったように君の居場所を聞かれたよ。これはまずいと思って護衛を付けた。その節は本当に迷惑をかけてしまったね……」
「大事には至りませんでしたので、俺も気にしていません。ですから、貴方も気にしないでください」
いつの間にか、課長の言葉が柔らかくなっていることに気付いた私は、ほんわりと胸が温かくなった。荒井会長の言葉の端々に、本庄課長やお母さんの晶子さんへの紛れもない深い思いが見て取れる。課長もそれに気付いたのだろう。
「……だが俺は、貴方の事を父親だとは思っていない。たとえ二歳まで過ごしていても、俺にその記憶はない。貴方とは今日会ったのが初めてだ。そんな人間を、親だと思うのは難しい」
「か、課長っ?」
そう思ったのも束の間、課長が荒井会長に向かってきっぱりと宣言した。
確かに彼は以前、荒井会長のことを父親だとは思っていないと私に語った。全く会った事もないのだと。けれど本当は二歳までは一緒に過ごしていたのだ。会長と晶子さんと、彼と親子三人で。今の口ぶりからするに課長はそれをお母さんから聞いて知っていたのだろう。それでも彼は「全く会った事はない」と断言した。
課長の中で荒井会長は「会った事もない父親」であり「ほとんど他人と同じ」ままなのだ。
でも……今の話を聞いても、それでも尚人さんはそう思い続けられるのかしら……。
ちらりと彼の様子を見る。眼鏡の奥の瞳は凪いでいて、そこに怒りも悲しみもなかった。ただそこに静かに、大人になり切ってから現れた父親の姿を捉えている。
「……君が私を父親だと思っていない事については知っているよ。実際そう言われたからな」
え?
そう言われたとはどういう意味だろうと疑問符を浮かべる私に、課長がふ、と短い溜息を吐いたのが聞こえた。どこか苦笑のこもったそれに思わず目を向けると、珍しく苦く微笑む彼の表情が目に入る。
「秘書というのは、嘘だったんですね」
「……ああ。騙して、すまなかった」
「いえ」
短い会話だけで二人には通じたようだ。けれどいまいちわからない私は内心首を傾げていた。
そんな私に、課長が振り向いて説明をしてくれる。
「俺が今までずっと秘書だと思っていた人は、彼だ」
「え……」
説明のおかげでやっと合点がいった。
秘書だと思っていた人、それは課長が子供の頃から何度かやりとりをしたことがあると言っていた「荒井会長の秘書」の事だ。それが会長自身であったということは……かつて、金銭の援助を断ろうとした彼を諭したのは荒井会長自身であったということになる。
会長は課長に自分の正体を知らせないまま、彼を支えていたのだ。
「清隆の母親に、二度と会う事は許さんと言われてな……。だが声だけでも聞きたかった。私が生涯でたった一人愛した女性との子供なのだ。晶子が死ぬ前も後も、君達の事を忘れた日はない。私の妻は晶子以外にいなかった……息子も尚人君、君だけだ」
過去も現在も全てを飲み込んだ一人の男性が、強い意志のともなう瞳でそう告げた。言葉にも表情にも嘘はなく、たった一つの本心が語られている。
課長も会長も、そして晶子さんにも、それぞれの過去があった。
その過去の糸が絡まりを解き真っ直ぐになって、今私の目の前で、交差していた。