文学女子は、春に溶ける
水底へ落ちる
金曜日、言葉は大学の帰りに帰宅せずに、電車に乗り鎌倉へ向かった。
鎌倉駅にたどり着くと、外は雨が降っていた。ゆびでふれれば肌に染みて消えてしまいそうなほど、細いほそい雨だった
やわらかな雨に背を濡らしながら、ただ歩いていた。
傘は差さなかった。雨は袖を濡らし、じとりといやな感触を、布を纏った肌に残してくる。袖から出た白い手の甲を、さらに透明に覆い、ゆびさきからはちいさなしずくが、ぽたりぽたりと落ちてゆく。
しんとしているが、瞳は燃えた真剣な顔で、肩にかけた鞄の紐を、両手できゅっと握りしめていた。
流れる黒髪の表面に、雨のしずくがほつほつと浮かんで灰色にきらめいている。ひとしくまつげにもしずくが乗って、細かく落ちずに保っていた。
辿り着いたのは雫原の家だった。中庭へと続く門の、真鍮製のベルを揺らして鳴らす。ベルも雨に濡れて揺れるたびに、言葉のゆびとひとしく、しずくが落ちていった。
遠くでドアが開く音がした。
中から、臙脂色の着物と羽織を纏った雫原がゆっくりとした動作で出てくる。表情は、眼鏡が景色を反射していてわからなかったが、口はうっすらと開けている。
臙脂色の着物を着ている彼を見たのは初めてで、言葉は一瞬目を瞠った。
すべてがうっすらとしずんだ灰色の膜で覆われた世界で、雫原だけが目にあざやかに浮き上がっていた。前髪を伝って流れるしずくの中に、黒みを帯びた深い紅に染まった雫原が、ゆらめいて映っている。
視界の向こうで、雫原が言葉に気づいた。
傘も差さず濡れている言葉に目を瞠り、こちらへ駆け寄ってくる。
慌てたためか、雫原も傘を差すことをしなかった。臙脂が雨に濡れ、さらに深い紅に染まってゆく。
門を開け、言葉の前まで来ると、荒い息を吐きながら、こちらを見下ろしている。
言葉は最初、彼の顔をまともに見れなかった。彼の姿をみとめた時、自分がとても迷惑なことをしているのを自覚したからだ。連絡もなしにいきなりやって来て、その上びしょ濡れだなんて。
顔を伏せていると、雫原の声が降ってきた。雨の音にまぎれているが、粒のはっきりとした声だった。
「そのままじゃ寒いでしょう。あたためてあげます」
濡れて冷えた背中にぬくもりが広がる。雫原のてのひらの温度だった。
言葉は顔をあげる。
しんと透明な雫原のひとみは、かけた眼鏡のレンズ越しに言葉の姿を映していた。その黒へと吸い込まれそうになり、あらがう術を知らなかった。すでに身も心も、彼に染まり、彼を欲していた。
まだ日は落ちていない。だが、寝室の中は、雨の気配に染まってどこか水底へと落ちている薄暗さだった。うっすらと灰青の世界は、居心地が良かった。布団から出た肌も、水のいろへと染まって、青い影を帯びている。
言葉は雫原に抱かれながら、彼から視線をそらし、何かを摑もうとしていた。何かに向かってしろい腕を必死で伸ばすが、その手は雫原の手に追いつかれ、からめとられる。尻の輪郭が、不確かになってゆく。雫原の肌がぶつかり、撫でられ、やわらかく変形し、青に染まっているはずの尻すら、どこにあるのかわからないままだった。ベッドの中で、互いのからだを包み合い、暴き合った。
いつの間にか事が終わった。意識が半分だけ覚醒している、レム睡眠のようなあいだの出来事だった。ぼやけたまなこで、寝室にただようほこりさえも、きらきらとした雪の結晶のようにあざやかに見えていた。
からだが濡れている。体液や汗にまみれているのだ。確認しようにも、長い黒髪が顔にふりかかって、目の前は紗のカーテンがかけられたようで、見えにくかった。
すきまから、ひかりがちらちらと開くところに、雫原の気配を感じる。どうやら起き上がったようだ。けだるい頭で理解する。
しばらく片足だけを立て、顔をうつむけてそのまま止まっていた。
雫原は着物を完全に脱がなかった。言葉を抱き、徐々にしどけなくはだけていった着物をそのままにしている。臙脂が肌のいろと似合い、より一層透明感を増していた。障子を透かしてこぼれるひかりに、輪郭が縁取られている。
雫原がゆっくりとこちらを向く。そして、立ち上がり、壁の前に置かれた桐箪笥に向かう。引き出しを開けると、中に仕舞われていた藍染のてぬぐいを取り、そっとこちらへ投げた。
横に倒れた腰のあたりに、はらりと、やわらかな布の感触が舞い降りる。
「拭きたまえ」
立ったまま雫原が声をかけてくる。
言葉は一拍置いて、そっとからだを片腕で起こすと、肌にかかったてぬぐいを拾い、ゆびにかけるとからだを拭い始めた。
布と肌がふれる感覚に、あまさを感じてしまい、思わず雫原から顔を逸らす。さっきまであんなに激しくあいしあっていたというのに、この恥じらいはなんだろう。
太もも、腰、腕とだんだんと上へ上へとてぬぐいをあげてゆく。しずくを拭き取るたびに、てぬぐいは深い藍に染まっていった。
ふと、雫原のほうを見上げる。
雫原は、右手を大きく広げて顔全体を覆っていた。さきほどよりも、肌がほのかにうす赤く染まっている。特に目尻や頬の頂点が赤い。ほんのりと汗も纏っている。
このひとの手は大きい。それは、ふれればふれるたびにより強く実感する。指の節くれは、言葉の胸や腹を絶妙な角度で突いてくる。口にはしなかったが、それがすきだった。
顔を覆うと、より彼の手が目立つ。皮だけに見えるほど痩せた手なのに、大きく力強く。この手からあの物語が生まれているのだと思うと、腹の奥がじんとあまく唸る。
言葉はそのうずきを守るように、性器の前で足を交差させた。
「すまない……。また、我慢ができなくなってしまった」
顔を覆ったゆびの隙間から、呼気を纏った掠れた男の声がする。
言葉はいつの間にか、背をぴんと張っていた。くずおれたからだが、雫原を支点にして、まっすぐになる。未だうっすらと汗ばんだ背中に陽が当たっているのか、冷えた空気の中でもそこは温かかった。
雫原は首を伸ばした言葉に向き合い、腰を下ろすと、片膝立ちとなり、ゆびさきで顎を摑む。もう眼鏡の無い、雫原の深淵に捕らえられていた。
「抱いてください」
「……顔から犯してやる」
__ああ、この台詞を、私は知っている。いつぞや、彼の本の中で読んだ文章だ。わたしたちは物語の中の情事を再現している。
雫原は、首の角度を変えてくちづけを落とした。皮膚と皮膚が溶け合うような、ねっとりとしたくちづけだった。
呼吸も奪われたまま、ただただ官能の本流に身を任せていた。
さきほどまでは雫原に後ろから抱かれるような体位だったが、今度は正面から羽交い締めにされた。くちづけられたまま、つよくつよく抱きしめられ、火が灯ったように、肌と肌の境が熱く溶け合う。かと思えば、雫原が少し動くだけで、マッチでこすられるようなあまいしびれが起こり、そのたびにからだがあらぬ方向へとくねってしまう。吐息は互いの肌を濡らし、さらに官能を誘った。
上向けば、すぐそこに雫原の顔がある。降るような汗を抜け、眼はうっとりと半分閉じているが、言葉の眸をまっすぐに射抜いている。彼の長い前髪がゆれるたびに、自分もゆれているのだということに気付かされる。白い胸の頂点の桜いろが、動いているのをぼんやりと見下ろしていた。間隔を置いて、雫原の黒い頭がその上に落ちて、桜いろを吸いあげる。それと合わさって雫原が奥を貫いてくる。
上半身と下半身に、絶え間なく与えられる快楽で、言葉は絶頂した。高く霞んだ嬌声は、ふさがれたくちびるから雫原の中へ吸い取られてゆく。
涙に濡れた眼をうすくひらくと、目の前に迫る雫原の顔が見えた。
切れ長の眸はより一層黒く深まり、その中に浮かぶひかりに、彼の愉悦や快楽、そして嗜虐心が見えた。火を浴びたようにうす紅に染まった頬と目尻がより一層あでやかで、言葉はさらにからだがあまくうずいてゆく、快楽の無限の地獄へと落とされる。
翌週から大学に通い、いつも通り授業を受ける。行っていることや、環境は変わらないのに、からだが元に戻らなかった。肌は常にしっとりと湿り、桜の花が咲いたように、うすいうすい紅に染まっている。
講義をしている助教の声が、雪洞のように、儚く灯っては消えてゆく。
そこに重なるのは、雫原とのセックスだった。彼の肌色が、掠れたあまい声が、すべてを塗りつぶしてしまう。
周囲の生徒が本を捲る音も、突っ伏して吐く寝息も、霞んで聞こえなかった。
ふと、肩を強く叩かれる。
言葉は意識を現実に戻し、官能の夢から起き上がった。
「もお、びっくりした……。言葉、授業終わってもずっと姿勢よく座ったまんまだし、何度も声かけても全然反応しないんだもん。本物の日本人形になっちゃったのかと思った~」
隣を見上げれば、詩子が眉尻を下げて心配そうにこちらを覗いている。
うすく口をひらいて固まっていた言葉は、一拍置いて首をかるく動かし、「ごめんなさい」とちいさく謝った。
詩子と別れ、ひとりで帰路に着く。今日の自分はいつもよりおかしい。深く雫原に染まってしまっている。部屋に着いたら、夕食を食べて、お風呂に入って、歯を磨いて、早めにねむろう。そう決めた。
決めていたはずなのに、帰路の途中で黄ばんだ電灯をともしている本屋が目に入ってしまった。こんなところに本屋なんてあっただろうか。いや、あった。いつも寄っている本屋だった。それすらも、頭から抜けてしまっている。
電灯に吸い寄せられる羽虫のように、いつの間にかガラス戸を開け、本屋の中に入っていた。頬とまぶたに、褪せた白いひかりが当たる。
目立つ位置に置かれているコミックコーナーを素通りして、官能小説のコーナーへ自然と足を運ぶ。
平置きされた本の列に、雫原の新刊があった。そこだけ発光しているように、透明な膜が張っていた。
「先生、新しい小説出すなんて、会った時に言っていなかったのに」
背をかがめ、流れる髪を耳にかけながら、その本を一冊手に取る。深い秋を象徴するような朱色のカバーだった。官能小説らしい絵は描かれておらず、一見すると普通の単行本のように見える。手触りも良い。すべすべとしている中にも、ちいさな凹凸が感じられる。電灯の元でゆらゆらと上下にかざしてみると、きちんと紙の質感がわかる。好みの本だった。
どうしても今すぐに読みたい気持ちが勝り、その場でページをひらく。普段ならば、本は買ってから読む派で、立ち読みをすることはなかった。
何故今こんな感覚に?
紙に吸い寄せられるように手が動く。中の紙質もなめらかだった。少しクリーム色で、黄みがかっていて、真昼の陽光にひとしい。
少し読んで、なにかいけないことをしているような気分になり、そっと本を閉じる。
そのまま表紙を眺め、何かを決意したようにレジへと足を運んだ。
本を鞄から取り出し、カフェのテーブルに置く。真昼の月が落ちたような白くまるいテーブルだった。言葉はいつも通りココアを頼んで、本のかたわらに置いていた。なんとなくアイスが飲みたくなってアイスで頼む。暖房がほどよく効いているからだろうか。オレンジの縁取りにオフホワイトのマグカップの周囲に結露が浮いている。マグカップの取っ手をゆびにかけ、一定の力を保ってくちびるまで運ぶ。ココアの濃く苦さとあまさが入り混じったコクがこてりと流れてくる。マグカップを元の位置に戻し、閉じられていた本をひらく。
数行読んで、意識が紙と己のあいだでさまよい、溶けてゆく。カフェにいたはずなのに、そこは廊下で、そこは寝室で、肌にふれる布の感触まで感じる。あたたかさや、息遣いも。雫原の文章にからめとられ、魂は小説の世界をたゆたっていた。
10分ほど読んでいたころだろうか、なにか違和感があった。性行為のシーンに差し掛かったころだ。肌に馴染む感覚があるというか、どこかで自分はこれを体験している?
その違和感から逃れるように、ぱらぱらと最初からページを戻すが、また違和感のあるシーンまで来てしまう。
逡巡し、やがてその違和感の正体に気づき、思考を止めた。
こめかみから汗がひとしずく湧きいでる。
手から本が落ちたことに気付いたのは、かたわらに置いていたココアのグラスが、落下する本に当たってテーブルから落ちて、砕けて割れたからだった。氷のかけらのようにきらめきながら、ココアをはらんでてんてんと床にひとつの絵を描く。その液がはねて、言葉の脚、黒のハイソックスをさっと濡らす。
かたことと思考が中央に集まってくる。記憶のつぶが、ひとつひとつ磁石でくっつけられ、脳をかたどってゆく。
「お客様、どうされました? お具合でも悪いのでしょうか」
グラスが割れたことで、女性店員が心配してそばまで駆け寄ってくれていたことに、何度目かの声がけでようやく気づく。見下ろせば、店員はモップを持ってきていて、ココアが撒かれた場所が、さっときれいに拭き取られていた。モップの先が、茶色く濡れて、きらきらとガラスの破片をつけてかがやいている。
店員の顔をまっすぐに見上げると、とても不安そうだった。若い女性で、アルバイトだろう。大学生であれば、同い年ということもありうる。亜麻色のゆるやかな髪をポニーテールにしている。頬は透明な膜を纏ったようで、ふれれば壊れそうなほどもろくあどけない。こんな、少女が未だに残っている女性を不安定にさせてしまったことに対する罪悪感と、彼女の眸に映っている自分の顔は、どんないろをしているだろうとふと思う。青褪めて白いだろうか。それとも、うす紅に頬を染めているのだろうか。
言葉は店員からふたたび手元の本に目を落とす。ひらかれた本は、さいわいなことにココアやグラスは飛んでついていなかった。薄黄色のさらさらとした紙の上に流れる黒い文字を眺める。ゆびさきで、一行文章をなぞってみる。句読点の上で止めて。
雫原の新刊小説に登場した性行為シーンは、言葉が雫原と行ったセックスの内容とそっくりだった。
今まで雫原が過去に小説に書いた性行為の内容を試されている自覚はあった。だが、現在進行系で、想いが結ばれてからのセックスは初めてだった。記憶に新しい、最近のセックスの内容と一緒だ。これは、勘違いではないと思う。肌が覚えている。彼に、どのようにからだを触られ、自分がどのように触り、結ばれていったかを。
ひらかれたページをそっと閉じる。表紙に右手だけを乗せ、ゆるくこぶしをにぎると、かたかたと震えていた。
今まで彼の想像世界の登場人物と自分を重ねて、セックスをしていたのであれば、とまどいはない。だが、自分が想像世界の住人になってしまったのは、衝撃だった。
本の上に置いた手の輪郭が、ひかりをにじませたように溶けていた。自分の存在が、彼の創作に影響を与えてしまっていた。それは、言葉にとってよろこぶべきなのか、悲しむべきなのか、わからなかった。
鎌倉駅にたどり着くと、外は雨が降っていた。ゆびでふれれば肌に染みて消えてしまいそうなほど、細いほそい雨だった
やわらかな雨に背を濡らしながら、ただ歩いていた。
傘は差さなかった。雨は袖を濡らし、じとりといやな感触を、布を纏った肌に残してくる。袖から出た白い手の甲を、さらに透明に覆い、ゆびさきからはちいさなしずくが、ぽたりぽたりと落ちてゆく。
しんとしているが、瞳は燃えた真剣な顔で、肩にかけた鞄の紐を、両手できゅっと握りしめていた。
流れる黒髪の表面に、雨のしずくがほつほつと浮かんで灰色にきらめいている。ひとしくまつげにもしずくが乗って、細かく落ちずに保っていた。
辿り着いたのは雫原の家だった。中庭へと続く門の、真鍮製のベルを揺らして鳴らす。ベルも雨に濡れて揺れるたびに、言葉のゆびとひとしく、しずくが落ちていった。
遠くでドアが開く音がした。
中から、臙脂色の着物と羽織を纏った雫原がゆっくりとした動作で出てくる。表情は、眼鏡が景色を反射していてわからなかったが、口はうっすらと開けている。
臙脂色の着物を着ている彼を見たのは初めてで、言葉は一瞬目を瞠った。
すべてがうっすらとしずんだ灰色の膜で覆われた世界で、雫原だけが目にあざやかに浮き上がっていた。前髪を伝って流れるしずくの中に、黒みを帯びた深い紅に染まった雫原が、ゆらめいて映っている。
視界の向こうで、雫原が言葉に気づいた。
傘も差さず濡れている言葉に目を瞠り、こちらへ駆け寄ってくる。
慌てたためか、雫原も傘を差すことをしなかった。臙脂が雨に濡れ、さらに深い紅に染まってゆく。
門を開け、言葉の前まで来ると、荒い息を吐きながら、こちらを見下ろしている。
言葉は最初、彼の顔をまともに見れなかった。彼の姿をみとめた時、自分がとても迷惑なことをしているのを自覚したからだ。連絡もなしにいきなりやって来て、その上びしょ濡れだなんて。
顔を伏せていると、雫原の声が降ってきた。雨の音にまぎれているが、粒のはっきりとした声だった。
「そのままじゃ寒いでしょう。あたためてあげます」
濡れて冷えた背中にぬくもりが広がる。雫原のてのひらの温度だった。
言葉は顔をあげる。
しんと透明な雫原のひとみは、かけた眼鏡のレンズ越しに言葉の姿を映していた。その黒へと吸い込まれそうになり、あらがう術を知らなかった。すでに身も心も、彼に染まり、彼を欲していた。
まだ日は落ちていない。だが、寝室の中は、雨の気配に染まってどこか水底へと落ちている薄暗さだった。うっすらと灰青の世界は、居心地が良かった。布団から出た肌も、水のいろへと染まって、青い影を帯びている。
言葉は雫原に抱かれながら、彼から視線をそらし、何かを摑もうとしていた。何かに向かってしろい腕を必死で伸ばすが、その手は雫原の手に追いつかれ、からめとられる。尻の輪郭が、不確かになってゆく。雫原の肌がぶつかり、撫でられ、やわらかく変形し、青に染まっているはずの尻すら、どこにあるのかわからないままだった。ベッドの中で、互いのからだを包み合い、暴き合った。
いつの間にか事が終わった。意識が半分だけ覚醒している、レム睡眠のようなあいだの出来事だった。ぼやけたまなこで、寝室にただようほこりさえも、きらきらとした雪の結晶のようにあざやかに見えていた。
からだが濡れている。体液や汗にまみれているのだ。確認しようにも、長い黒髪が顔にふりかかって、目の前は紗のカーテンがかけられたようで、見えにくかった。
すきまから、ひかりがちらちらと開くところに、雫原の気配を感じる。どうやら起き上がったようだ。けだるい頭で理解する。
しばらく片足だけを立て、顔をうつむけてそのまま止まっていた。
雫原は着物を完全に脱がなかった。言葉を抱き、徐々にしどけなくはだけていった着物をそのままにしている。臙脂が肌のいろと似合い、より一層透明感を増していた。障子を透かしてこぼれるひかりに、輪郭が縁取られている。
雫原がゆっくりとこちらを向く。そして、立ち上がり、壁の前に置かれた桐箪笥に向かう。引き出しを開けると、中に仕舞われていた藍染のてぬぐいを取り、そっとこちらへ投げた。
横に倒れた腰のあたりに、はらりと、やわらかな布の感触が舞い降りる。
「拭きたまえ」
立ったまま雫原が声をかけてくる。
言葉は一拍置いて、そっとからだを片腕で起こすと、肌にかかったてぬぐいを拾い、ゆびにかけるとからだを拭い始めた。
布と肌がふれる感覚に、あまさを感じてしまい、思わず雫原から顔を逸らす。さっきまであんなに激しくあいしあっていたというのに、この恥じらいはなんだろう。
太もも、腰、腕とだんだんと上へ上へとてぬぐいをあげてゆく。しずくを拭き取るたびに、てぬぐいは深い藍に染まっていった。
ふと、雫原のほうを見上げる。
雫原は、右手を大きく広げて顔全体を覆っていた。さきほどよりも、肌がほのかにうす赤く染まっている。特に目尻や頬の頂点が赤い。ほんのりと汗も纏っている。
このひとの手は大きい。それは、ふれればふれるたびにより強く実感する。指の節くれは、言葉の胸や腹を絶妙な角度で突いてくる。口にはしなかったが、それがすきだった。
顔を覆うと、より彼の手が目立つ。皮だけに見えるほど痩せた手なのに、大きく力強く。この手からあの物語が生まれているのだと思うと、腹の奥がじんとあまく唸る。
言葉はそのうずきを守るように、性器の前で足を交差させた。
「すまない……。また、我慢ができなくなってしまった」
顔を覆ったゆびの隙間から、呼気を纏った掠れた男の声がする。
言葉はいつの間にか、背をぴんと張っていた。くずおれたからだが、雫原を支点にして、まっすぐになる。未だうっすらと汗ばんだ背中に陽が当たっているのか、冷えた空気の中でもそこは温かかった。
雫原は首を伸ばした言葉に向き合い、腰を下ろすと、片膝立ちとなり、ゆびさきで顎を摑む。もう眼鏡の無い、雫原の深淵に捕らえられていた。
「抱いてください」
「……顔から犯してやる」
__ああ、この台詞を、私は知っている。いつぞや、彼の本の中で読んだ文章だ。わたしたちは物語の中の情事を再現している。
雫原は、首の角度を変えてくちづけを落とした。皮膚と皮膚が溶け合うような、ねっとりとしたくちづけだった。
呼吸も奪われたまま、ただただ官能の本流に身を任せていた。
さきほどまでは雫原に後ろから抱かれるような体位だったが、今度は正面から羽交い締めにされた。くちづけられたまま、つよくつよく抱きしめられ、火が灯ったように、肌と肌の境が熱く溶け合う。かと思えば、雫原が少し動くだけで、マッチでこすられるようなあまいしびれが起こり、そのたびにからだがあらぬ方向へとくねってしまう。吐息は互いの肌を濡らし、さらに官能を誘った。
上向けば、すぐそこに雫原の顔がある。降るような汗を抜け、眼はうっとりと半分閉じているが、言葉の眸をまっすぐに射抜いている。彼の長い前髪がゆれるたびに、自分もゆれているのだということに気付かされる。白い胸の頂点の桜いろが、動いているのをぼんやりと見下ろしていた。間隔を置いて、雫原の黒い頭がその上に落ちて、桜いろを吸いあげる。それと合わさって雫原が奥を貫いてくる。
上半身と下半身に、絶え間なく与えられる快楽で、言葉は絶頂した。高く霞んだ嬌声は、ふさがれたくちびるから雫原の中へ吸い取られてゆく。
涙に濡れた眼をうすくひらくと、目の前に迫る雫原の顔が見えた。
切れ長の眸はより一層黒く深まり、その中に浮かぶひかりに、彼の愉悦や快楽、そして嗜虐心が見えた。火を浴びたようにうす紅に染まった頬と目尻がより一層あでやかで、言葉はさらにからだがあまくうずいてゆく、快楽の無限の地獄へと落とされる。
翌週から大学に通い、いつも通り授業を受ける。行っていることや、環境は変わらないのに、からだが元に戻らなかった。肌は常にしっとりと湿り、桜の花が咲いたように、うすいうすい紅に染まっている。
講義をしている助教の声が、雪洞のように、儚く灯っては消えてゆく。
そこに重なるのは、雫原とのセックスだった。彼の肌色が、掠れたあまい声が、すべてを塗りつぶしてしまう。
周囲の生徒が本を捲る音も、突っ伏して吐く寝息も、霞んで聞こえなかった。
ふと、肩を強く叩かれる。
言葉は意識を現実に戻し、官能の夢から起き上がった。
「もお、びっくりした……。言葉、授業終わってもずっと姿勢よく座ったまんまだし、何度も声かけても全然反応しないんだもん。本物の日本人形になっちゃったのかと思った~」
隣を見上げれば、詩子が眉尻を下げて心配そうにこちらを覗いている。
うすく口をひらいて固まっていた言葉は、一拍置いて首をかるく動かし、「ごめんなさい」とちいさく謝った。
詩子と別れ、ひとりで帰路に着く。今日の自分はいつもよりおかしい。深く雫原に染まってしまっている。部屋に着いたら、夕食を食べて、お風呂に入って、歯を磨いて、早めにねむろう。そう決めた。
決めていたはずなのに、帰路の途中で黄ばんだ電灯をともしている本屋が目に入ってしまった。こんなところに本屋なんてあっただろうか。いや、あった。いつも寄っている本屋だった。それすらも、頭から抜けてしまっている。
電灯に吸い寄せられる羽虫のように、いつの間にかガラス戸を開け、本屋の中に入っていた。頬とまぶたに、褪せた白いひかりが当たる。
目立つ位置に置かれているコミックコーナーを素通りして、官能小説のコーナーへ自然と足を運ぶ。
平置きされた本の列に、雫原の新刊があった。そこだけ発光しているように、透明な膜が張っていた。
「先生、新しい小説出すなんて、会った時に言っていなかったのに」
背をかがめ、流れる髪を耳にかけながら、その本を一冊手に取る。深い秋を象徴するような朱色のカバーだった。官能小説らしい絵は描かれておらず、一見すると普通の単行本のように見える。手触りも良い。すべすべとしている中にも、ちいさな凹凸が感じられる。電灯の元でゆらゆらと上下にかざしてみると、きちんと紙の質感がわかる。好みの本だった。
どうしても今すぐに読みたい気持ちが勝り、その場でページをひらく。普段ならば、本は買ってから読む派で、立ち読みをすることはなかった。
何故今こんな感覚に?
紙に吸い寄せられるように手が動く。中の紙質もなめらかだった。少しクリーム色で、黄みがかっていて、真昼の陽光にひとしい。
少し読んで、なにかいけないことをしているような気分になり、そっと本を閉じる。
そのまま表紙を眺め、何かを決意したようにレジへと足を運んだ。
本を鞄から取り出し、カフェのテーブルに置く。真昼の月が落ちたような白くまるいテーブルだった。言葉はいつも通りココアを頼んで、本のかたわらに置いていた。なんとなくアイスが飲みたくなってアイスで頼む。暖房がほどよく効いているからだろうか。オレンジの縁取りにオフホワイトのマグカップの周囲に結露が浮いている。マグカップの取っ手をゆびにかけ、一定の力を保ってくちびるまで運ぶ。ココアの濃く苦さとあまさが入り混じったコクがこてりと流れてくる。マグカップを元の位置に戻し、閉じられていた本をひらく。
数行読んで、意識が紙と己のあいだでさまよい、溶けてゆく。カフェにいたはずなのに、そこは廊下で、そこは寝室で、肌にふれる布の感触まで感じる。あたたかさや、息遣いも。雫原の文章にからめとられ、魂は小説の世界をたゆたっていた。
10分ほど読んでいたころだろうか、なにか違和感があった。性行為のシーンに差し掛かったころだ。肌に馴染む感覚があるというか、どこかで自分はこれを体験している?
その違和感から逃れるように、ぱらぱらと最初からページを戻すが、また違和感のあるシーンまで来てしまう。
逡巡し、やがてその違和感の正体に気づき、思考を止めた。
こめかみから汗がひとしずく湧きいでる。
手から本が落ちたことに気付いたのは、かたわらに置いていたココアのグラスが、落下する本に当たってテーブルから落ちて、砕けて割れたからだった。氷のかけらのようにきらめきながら、ココアをはらんでてんてんと床にひとつの絵を描く。その液がはねて、言葉の脚、黒のハイソックスをさっと濡らす。
かたことと思考が中央に集まってくる。記憶のつぶが、ひとつひとつ磁石でくっつけられ、脳をかたどってゆく。
「お客様、どうされました? お具合でも悪いのでしょうか」
グラスが割れたことで、女性店員が心配してそばまで駆け寄ってくれていたことに、何度目かの声がけでようやく気づく。見下ろせば、店員はモップを持ってきていて、ココアが撒かれた場所が、さっときれいに拭き取られていた。モップの先が、茶色く濡れて、きらきらとガラスの破片をつけてかがやいている。
店員の顔をまっすぐに見上げると、とても不安そうだった。若い女性で、アルバイトだろう。大学生であれば、同い年ということもありうる。亜麻色のゆるやかな髪をポニーテールにしている。頬は透明な膜を纏ったようで、ふれれば壊れそうなほどもろくあどけない。こんな、少女が未だに残っている女性を不安定にさせてしまったことに対する罪悪感と、彼女の眸に映っている自分の顔は、どんないろをしているだろうとふと思う。青褪めて白いだろうか。それとも、うす紅に頬を染めているのだろうか。
言葉は店員からふたたび手元の本に目を落とす。ひらかれた本は、さいわいなことにココアやグラスは飛んでついていなかった。薄黄色のさらさらとした紙の上に流れる黒い文字を眺める。ゆびさきで、一行文章をなぞってみる。句読点の上で止めて。
雫原の新刊小説に登場した性行為シーンは、言葉が雫原と行ったセックスの内容とそっくりだった。
今まで雫原が過去に小説に書いた性行為の内容を試されている自覚はあった。だが、現在進行系で、想いが結ばれてからのセックスは初めてだった。記憶に新しい、最近のセックスの内容と一緒だ。これは、勘違いではないと思う。肌が覚えている。彼に、どのようにからだを触られ、自分がどのように触り、結ばれていったかを。
ひらかれたページをそっと閉じる。表紙に右手だけを乗せ、ゆるくこぶしをにぎると、かたかたと震えていた。
今まで彼の想像世界の登場人物と自分を重ねて、セックスをしていたのであれば、とまどいはない。だが、自分が想像世界の住人になってしまったのは、衝撃だった。
本の上に置いた手の輪郭が、ひかりをにじませたように溶けていた。自分の存在が、彼の創作に影響を与えてしまっていた。それは、言葉にとってよろこぶべきなのか、悲しむべきなのか、わからなかった。