文学女子は、春に溶ける

金木犀

 思えば、こうなることは必然だった気がする。それは、あのサイン会で出逢ってしまったときからか、それとも、鎌倉で再会したときからか、カフェで飲食を共にしたときからか、古書店で偶然、同じ本を読んでいたことがわかったときからか。
 言葉は、雫原邸の門扉(もんぴ)から庭の中に足を踏み入れたときに、引き返せない道に進んでいる気配を感じていた。それは女の本能によるものだった。
 案内された雫原邸は、鎌倉の都から離れた閑静な住宅街の、そのまた奥にあり、周囲を竹林で覆われ、真昼の、それも五月に訪れていたならば、さぞ緑がうつくしく映えていただろう庭だった。今は秋の終わりに近づき、竹の葉は黄に染まり、やがて枯れようとしている。
家の外観も、和風でしずかな雰囲気が、雫原に似合っている。紺をより深くしたような青い(かわら)屋根(やね)と、白い壁。この(やしき)は、いつごろ建てられたものなのだろうか。(づく)りから今の時代のものではないことが伝わってくるが、壁や瓦に目立った汚れは見当たらない。夜であるということもあるだろうが。住まう者に、よく手入れされているということか。
 金木犀の淡くも華やかな香りが、ふくよかにただよって、この気まずいともあまいとも、切迫(せっぱく)しているともいえる微妙な空気と距離感をぼやけさせてくれる。
 庭を漂っていると、雫原に声をかけられる。いつの間にか玄関の戸を開けてくれていた。「お先にどうぞ」
 地から並行に上向けられたてのひらを見やる。
 やさしげな微笑みを浮かべてくれている。
 言葉は彼に導かれるままに、淡く発光している邸の中へと足を踏み入れた。
 淡く発光していると思ったのは、月光(げっこう)が、玄関と続いている廊下の向こうからこちらまで差し込んでいるからだった。薄青いひかりは、心地よかった。
 背後で、雫原も足を踏み入れ、戸を閉める音が聞こえた。しずかな音だった。
 それと一拍置いて、ぱちりと(あか)りがついた。火の粉のような橙が、眼の前で()ぜる。
「すみません。灯りを点けるのが遅れましたね……」
 雫原がすまなそうに髪を掻きながら困り笑顔を浮かべていた。背はかるく曲げられて。うなじに片手をかけて。このひとの、このわらい方にも大分慣れてきた。
 今日再会して、夕方と夜だけを共にしたというのに、もう雫原といっしょにいるような感覚になっていた。ふしぎだ。言葉は慣れない人間ならば、こんなに簡単にこころを開くことはなく、塞ぎ込んでしまうというのに。
 ()けられたのは電灯ではなく、小型の灯りだった。蛍の形をしている。
「それは?」
「今、玄関の照明の具合が良くなくて。数日前からなのですが」
 雫原は玄関の飾り棚兼下駄箱の上に置いた蛍の灯りを手に取ると、言葉に見えるように、目の前にやった。
 蛍の灯りは、真鍮製(しんちゅうせい)()せたものだった。葉脈を大きくしたような模様が、羽として造られ、そのはざまから、中に設置された灯りが漏れている。灯りは青を基調として、翡翠(ひすい)色や金色などさまざまに変わる。そのどれもがほのかで温めるようなやさしさだった。
「きれい……」
思わずつぶやいた。
「いつぞやの(のみ)の市でみつけてきたものです」
 あかりをみつめる雫原の、半分伏せたまぶたの上を、蛍のひかりが踊っている。夜に薄青く染まった肌の上に溶けては浮びあがり、すぐに消えてはまた別の色に変わってしまう。
「幻想的だわ……」
「そうですね。本当に」
 雫原のことを言ったのだが、彼に気付かれていなくともよいと思った。
「鎌倉でも、夏になれば蛍が見えるときが場所によればあるのですが……。今は寒いから無理かな」
「山梨でも見る時がありました。あっ、私は山梨出身なんです」
「そうなのですか。初耳だ」
「山梨は自然ゆたかなところで、過ごしていて気持ちよかったです。東京もたのしいですが、時折あの澄んだ空気が吸いたくなります」
「山梨のどのあたりにお住まいだったんですか」
「河口湖の近くです」
「なるほど。それはうつくしいはずだ。空気も風景も。私も旅行で行ったことがあります。取材でもない旅行はたのしかった。(あお)い富士山と薄い空が綺麗だった。浅桜さんは、そんな場所で生まれて育ったんですね」
 自分の出生をゆびさきでなぞられているようで、なんだかむずがゆく、恥ずかしくなった。
 見慣れた蒼い富士山と、河口湖の煉瓦色の駅の前に、雫原が佇んでいるのを想像してしまった。彼が(まと)う澄んだ空気さえも。空気も空の色も、彼の青い光沢を持つ黒い前髪を撫でる風も、雫原の横顔もすべてがしずかだった。
 意識を現実に戻す。
 雫原は、ただひそやかに蛍のともしびをみつめているだけであった。その穏やかに落ちたまなざしにうつくしさを感じ、恥ずかしくなって言葉は目を逸らした。
「手当の道具を持ってくるので、ここで待っていてください。お辛いだろうから」
 雫原は袖を払い、腰をかがめると、ゆびさきを揃えたてのひらを上向けて、上がり框を示した。
「ここで座っていてくださいね」
 すみません、この家には式台が無くて。というつぶやきも聞こえた。
「はい」
 雫原の白い手が、玄関から浮きあがっている。やがてそれが幽玄(ゆうげん)に離れて、足音と共に闇に染まった廊下の向こうへと消えていった。
 残された言葉は、上がり框に腰掛け、ぼんやりとしていた。足の痛みは、さきほどよりもやわらいではいるが、感覚はある。氷が内側から当てられたような、ひりひりとしたものだった。
 じっとしていると、玄関には透明な夜のにおいだけでなく、庭から漏れいずる樹々や草花の芳醇な香りも、さえざえと混ざっていた。
言葉は上がり框に何気なく置いていた手をあげて、ひらひらとかるく泳がしてみる。
 __すきな男の家にあがっている。
 とてもしあわせな事実に、足がすくみそうになる。今日を振り返っても、こんなにしあわせで良いのだろうか、何かこの後、ばちが当たることがあるのではないか、と怖くなる。今まで恋をしたことがないわけではない。出逢い、男に好かれ、(むつ)み合い、別れてきた。そうだ。思い返せば、自分から相手をすきになったことはなかった。だから相手に激しく深い感情を向けられても、自分が対等な感情を持っていないから、いつも冷えて、丁寧に断って振ってしまうか、相手にあきれられて振られるかだ。自分から相手を求めることもなく、流れにまかせて肌を重ねて。雫原がはじめてだった。はじめての感情に、未だにとまどっている。
 泳がせていた手を、ゆびをひろげたまま止めて下ろし、胸元へ引き寄せる。気付かず震えていた。背をかがめ、時が過ぎゆくのを待つ。愛情が深くなってゆくたびに、怖くなっている。どうせ何もはじまらず、たとえ何かはじまったとしても、拒絶されるだろう。告白がうまくいって、少し付き合ってもらえたとしても、すぐに嫌われて、別れてしまうのではないだろうか。なんでこんなに自信がもてないのだろう。こんなに臆病で、自己愛が強くて、それなのに、彼を求める感情を抑えることができない。胸に押し当てた手はしろくなるほどに丸まり、きつく握り込まれていた。
「いたっ」
 伸ばしたままの爪を切っていなかったことに、今さら気付いた。てのひらの肉をかすかに傷つけてしまったようだ。深く肉に食い込む前に、手を解く。
「浅桜さん、大丈夫ですか。なにかありましたか?」
 はっとする。
 背後を振り返ると、雫原が立っていた。腕にひのきの盆を抱えている。その中に、消毒液や包帯を入れているようだ。
「いえっ、ちょっと手を見ていただけです。今日のネイル、上手くいかなかったなぁって」
 ゆびさきを顎に添えて微笑んだ。不自然にわらうことなんてしたことがない。変に見えるだろうか。
「そうですか。とてもきれいなフレンチネイルですが……。手当の道具を持ってきたので、脚をあげてください」
ネイルは肌の色とあったクリアカラーに、爪の先だけを銀に塗っている。雪のように白い言葉の肌に似合うヌーディカラ―をみつけるのは大変だったが、店員に尋ねて、なんとか探し出した色だった。
 急に爪を褒められて照れる。頬にさっと熱が走る。
今日はネイルを塗ってきてよかった。心底そう思う。
言葉は手当への感謝の気持ちも述べられずに、うつむいて、降りてきた黒髪で顔を覆うと、パンプスからするりと足を抜く。鱗模様の人魚の尾のような青い靴下は、ところどころ鱗が透けて、青筋を浮かべる言葉の甲が模様の色の一部になっている。鶴のくちばしのように、かすかにあがったつまさきを摘んで、靴下を脱きとる。さきほど見えていた白い甲とつながり、(しゅ)の腫れがあらわになる。水彩を落としたように、真白の中に滲んでまるく広がっている。
そっと(いた)んだほうの脚をあげた。
「手当、お道具お渡ししてくだされば自分でやります。ここまでよくしていただいて、お手をわずらわせるの、申し訳ないです。汚いですし……」
顔をうつむけたまま、視線を泳がす。紺色の空気はどこを見やっても暗い。だが今は、雫原が飾り棚に置いてくれている蛍のともしびが、上がり框の縁や、土間をなめらかにひからせている。
 気配がした。
 ふ、と顔をあげる。水分をふくんだような空気が、鼻の上で動いた。
 雫原が目の前にしゃがんでいる。着物の(すそ)がはだけぬように、絶妙な品のよい足のずらし方で。
「しず__」
「動かないで。そのまま」
 有無を言わせぬ硬い口調だった。眉も寄せない真顔で、雫原は言葉の腫れた朱をみつめている。そして、盆を言葉の座る隣に置くと、中から消毒液と包帯を取り出す。
 消毒液が吹きかけられ、小雨のような急なつめたさに身をすくめてしまう。
「痛いですか」
「いえ……、大丈夫です」
 震えるような声が出てしまい、恥ずかしい。
 雫原は淡く微笑んだ。言葉を安心させようとしてくれているのか。
 やさしい。今日だけで、何度このひとからやさしさをもらっただろう。それはかたどったものではなく、すべて自然なものだった。見た目や手が好みだったから、本の内容が好みだったから、最初はそういう理由で好意を持ったのかもしれない。でも今は、共に過ごしていちばん惹かれているのは、このひとの優しさだった。なんのためらいもなく、ぽんと差し出してくれる。あまいお粥のような。
 これまで付き合った男たちは自分本位で、言葉をまるで自分の装飾品のように扱っていた。今までの男とは違うあまさに、こころは溶けていったのだ。
こくりと涙味のつばを飲み込む。
やわらかな包帯が、ゆっくりと巻かれ、重ねられてゆく。長いゆびが、曲げられ、足の裏をなぞり、また返されてゆく。それだけで、足首からふくらはぎにかけて、ぞぞぞ、と悪寒が走る。違う、悪寒ではない。快楽だ。
言葉は、自分の足に包帯を巻く男のゆびの感触を(こころよ)く感じていた。
足の皮膚に感じる包帯の質感。巻かれるたびにその感覚が遠のくごとに、それを惜しく思った。
「……終わった。ゆびさきを動かせますか? 痛みがあれば、おっしゃってください」
 つばを飲む。言われた通りに足のゆびをゆっくりと動かしてみる。痛みはさほどなかった。腫れを傷めないようにと、張り詰めて足を動かしていたので、ふしぶしが伸びて、痛気持ちいいくらいの感覚になっている。数回グーパーを繰り返し、安堵する。やわらかな吐息が自然と口から出て、胸の張りも溶けたみたいだ。
「大丈夫です。ちゃんと動きます」
「そうですか。よかったです」
 雫原も安堵してくれたようで、あからさまに肩の力を抜いて眉尻を下げた。
「正直、もっと痛くなったと言われたら、どうしようかと思っていました。ひとを手当することには慣れていないのです」
「ふふ」
 困り笑顔の雫原がなんだかおかしく、他にことばを何か伝えようとしていたにもかかわらず、ゆるい笑いしかできなかった。
「いえ、おじょうずでしたよ。手当してくださって、ほんとうにありがとうございました」
 脚を下ろし、パンプスを履こうとする。だが、包帯がつかえてしまって上手くパンプスの中に足を入れることができなかった。無理やり入れようとしたところで、雫原の手がふれない距離で足の甲の上に添えられる。
「やめましょう。替えの靴をご用意いたします。もう終電も出てしまったと思います。今日は客間にお泊りなさい。明日は日曜日だし、大学もお休みでしょう。明日の朝、私の車でおうちの近くまで送りますよ。高速に乗れば、東京なんてすぐですから」
「そんな……、泊めていただいて、そのうえお車で送っていただくなんて、申し訳ないです」
 でも、他に方法も浮かばなかった。
「ああ、私は自室でねむるので大丈夫ですよ。安心なさい。客用の部屋と布団と、着替えくらいこの家にはあるのです。女ものの浴衣が、確か押し入れの奥にあったかな……」
 顔を逸らし、右手を顎に添え、ひとり考えごとをしはじめる。もう雫原の中で、言葉を家に泊める方向に動いている。
 玄関の曇り硝子から漏れる月光と、蛍のともしびに照らされる、雫原の白い横顔をみつめながら、言葉は驚いていた。
__このひとは、ほんとうになんの悪意もなく、私に良くしてくれようとしている。
 まっすぐで透明な善意が、固まった心を砕いた。
「ひとまず、寝室の用意をしてきますね。布団の横に着替えも置いておきます。私は客間には入らないようにするのでご安心を」
 こちらを向いてにこりとわらった笑顔は、無垢なものだった。
 雫原がそのまま立ち上がり、遠ざかろうとする。
 言葉は、いつの間にか、その広いがどこか哀愁ただよう背中に、右手を伸ばしていた。
 雫原が、ぴたりと止まり、こちらを振り返った。夜風のような動きだった。
 思わず伸ばした腕を引っ込めた。
 雫原に気取られただろうか。
 彼はそのままかるく小首をかしげると、また前を向いて歩き出す。
 切れ長の瞳と視線がかちあう。コンマバングのゆるくうねる前髪の下で細い二重の線を持ちながら、もうすぐ朝の予感をはらんだかすかに青い黒のひとみが、しずかなともしびを浮かべながら、少し目を瞠って、こちらをみつめている。
 水のひとしずくも動かない雫原の瞳に、唖然と目を瞠った言葉が映っている。
 言葉は、頬を紅葉のように紅く染めた。頬に首から下の熱がすべて集まったように火照(ほて)っている。
「浅桜さん、瞳が、ゆれていますよ。大丈夫ですか」
「あ……」
 からだを傾けてこちらを向いていた雫原は、やがてゆっくりと真正面から言葉に向かい合った。
 凪いだ月のもとの湖のようだった雫原のひとみが、くらりと大きく揺らいだ。
彼の瞳に映っていた言葉の紅い顔が、溶けてゆがむ。
自覚はあったはずだ。ずっと彼に恋をしていたという自覚は。なのに、今まで彼とこんなにも近く行動を共にしておいて、何も踏み出せなかった自分はばかだ。もっと積極的な女ならば、並んで歩いているときに愛の告白をしたり、手をつないだり、距離を縮めただろう。そんな機会は、この数時間にいくらでもあったはずだ。なんてばかなんだろう。なんて愚かで、情けなくて、それでいて自分が大切で、自分が傷つくのが怖くて__。
彼に恋をしていると自分に言い聞かせながらも、自分のことばかり考えていた。
「浅……桜さん?」
 いつの間にか、言葉は泣いていた。すすり泣きのようなしずかなものではなく、完全な嗚咽(おえつ)だった。
 傷ついてもいい。身の内側でくすぶり続け、皮膚を食い破りそうになるような、このマグマの想いを打ち明けよう。
「先生……。私、先生のことがすきです」
 熱い涙が降りるのをやめ、うすらいでいく中で、言葉は告白した。頬の上で止まったなみだを拭うこともなく、気持ちを落ち着かせてことばを放つ。
「浅桜さん」
「高校生のときに、先生のご著作と偶然出逢って、本を読んだときから、本当は始まっていたのかもしれません。先生の文章とコンタクトして、直接心臓があたたかく濡らされてゆきました。サイン会で直接お逢いして……、小説を読み続けてから、私はずっと、かすかにふれた先生の手を思い出していました」
 言葉はかるく上体を落とし、両手を胸の前で重ねた。淡い空気が髪となって、からだを覆ってくれ、とつとつと自分の中からあふれてくることばは温かく、皮膚の上をすべって鼓舞してくれている。開花直前の花のように、満ち溢れてくるものがあった。
自然とやわらかな笑みが浮かぶ。
「小説を読みながら、本当はずっと、これを書いたひとに抱いてほしいと思っていました」
 まなじりに溜まっていた、最後のなみだがはらり、ひとしずく頬をすべっても気にしなかった。
 自分がとても恥ずかしいことを言っている自覚はある。こんなこと、自分が口走るとは思わなかった。こぼれることばは、まさにからだの血流を乗ってそのまま出た自然なものだった。こんなことを眼の前で口走るなんて、頭のおかしい女だと思われただろうか。普通の男ならば気持ち悪がって悪態をつくか、逃げるか、すぐに縁切りするかだ。
 だが、雫原はさきほどと変わらずそこに佇んで、しずかに言葉の話を聞いてくれていた。
「浅桜さん……」
 ただ、さきほどよりも大きく目を瞠っている。
 どう思われただろうか。いや、もう、どう思われても良いような気がしていた。このまま雫原と共に過ごして、食われてめちゃくちゃにされても良い。玄関に捨て置かれて、そのまま朝まで放置されても良い。外に追い出されて、二度と会えなくなっても良い。今はただ、この衝動に身を任せることが、一番したいことだった。衝動が、理性を喰らって雨雲のように覆って、逃げられなくしている。
 頭の芯だけ変に冷えて、ゆびさきは炎をともしたように熱かった。
 驚いたまま凪いでいた雫原のまなこが、一瞬大きく震えた。濡れて膜の水を増したようにみえたが、戻ったひとみは落ち着いていた。そしてひかりを失った。
「私もそうだ。ずっとあなたに惹かれていた。あのサイン会のときから、いや、あなたからのお手紙を読んだときから。こんなに心惹かれて、会ってもいないのに想い続けた女性は、あなただけだった。触れなくてもいいと……、存在がどこかにあるだけで、それだけでいいと思っていたのに……」
 語尾をかすれて震わせると、言葉の眼の前は暗闇に染まり、重いものが落ちてきた。ずっしりとしているような重さのはずなのに、たくさんの羽が一箇所に集まってきたようなかろやかさを感じた。
 気がつけば、言葉は雫原に抱きしめられていた。
彼の広い肩に、ちいさな白い顔が乗っている。月のひかりがまっすぐに差し込んできて、まぶしくて、見開いたひとみから涙が流れた。そうこれは、そういう涙だ。けっして彼に抱かれたことを、喜んでいるわけじゃないはず__。そんなしあわせなことは、今宵、起こるはずがない。
 熱い涙は次から次へと頬を伝い、まぶたを半分閉じると、さらに質量を増し、雫原の肩を濡らしてゆく。背中までこぼれたところで、雫原の吐息混じりの、だがはっきりとした声が顔の横から聞こえた。
「浅桜さん、泣いてくれているのですか」
「あっ……」
 思わず声が漏れた。反射的に、雫原のほうを向いてしまった。
 濡れた視界の向こうで、探るような青混じりの黒いひとみと視線がかち合う。
 くちびるがふれあう瞬間、この男は、金木犀の香りをかすかに纏っていたことに気付く。きっと、庭に花咲く金木犀を浴び続けたことで、この男の肌にも、その香りが染まったのだろう。
そんな、どうでもいいことを考えながら、くちびるから訪れる快楽に震えないように気を張って。
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