恋のリハーサルは本番です

第161話 待つ役と、踏み出す役(二)

稽古場は、いつもより少しだけ騒がしかった。
次の舞台に向けた本読み前の時間。

役者たちは台本を手に雑談し、亜理沙はその中心で、無邪気に笑っている。

「えー、ここってこういうテンポなんですか?
 私、もっと間がある方がキュンとすると思うんですけど!」

その一言で、数人の視線が自然と水無月あかりに集まった。

あかりは、一瞬だけ言葉を探す。

「……そこは、まだ仮だから。
 稽古で詰めていこう」

いつもの、脚本家としての落ち着いた声。

けれど、指先がほんのわずかに震えているのを、蓮は見逃さなかった。

(……昨夜の続きだ)

眠れない夜。

同じ月の下で、互いに気づいてしまったこと。

それを、何事もなかったように飲み込もうとしている姿が、逆に痛い。

「水無月さん」

翔が、軽い調子で声をかける。

「その“間”、
 蓮が入るなら成立しますよね」

空気が、わずかに張りつめる。

「……そうね」

あかりは視線を落とし、頷いた。

「桜井くんは、待つ芝居ができるから」

その言葉に、胸の奥がきゅっと締まる。

“待つ役”。

評価としては正しい。

役者として、誇るべきことだ。

なのに──

(それで、いいのか)

蓮は、台本を持つ手に力を込めた。

そのとき。

「でも、それって」

亜理沙が、首をかしげる。

「待つ側ばっかり、しんどくないですか?」

全員が、一斉に亜理沙を見る。

本人はまったく気づいていない様子で、続けた。

「だって、踏み出す人がいなかったら、
 物語、ずっと動かないじゃないですか」

しん、と静まり返る稽古場。

(……刺さるなあ)

誰の胸にも。

特に──

あかりの指が、台本の端を強くつかむ。

「……役の話、よね?」

絞り出すような声。

「はい、役の話です!」

亜理沙はにっこり笑う。

「でも、現実も一緒じゃないですか?
 待ってる人と、踏み出す人。
 どっちもいないと、恋って成立しないですし」

爆弾だった。

悪意ゼロ。

むしろ純度100%の正論。

(やめろ……)

蓮は、思わず一歩踏み出しそうになって、止まる。

あかりが、顔を上げる。

視線が、蓮とぶつかった。

一瞬。

ほんの一瞬だけ、脚本家ではない“一人の女性”の目をしていた。

迷い。

不安。

そして──期待。

(……あ)

その瞬間、蓮の中で、何かが音を立てて崩れた。

“越えない”と決めていた一線。

“待つ”ことが優しさだと思っていた自分。

(俺は……)

踏み出す役を、誰かに押し付けていただけじゃないのか。

「……桜井さん?」

亜理沙の声で、我に返る。

「次の読み、ここからでいいですか?」

「あ、ああ……」

返事をしながらも、心はまったく別の場所にあった。

稽古が再開される。

台本の文字が、いつもより近く、重く感じる。

(待つ役でいる限り)
(俺は、何も変えられない)

その自覚だけが、はっきりと胸に残っていた。

稽古場の隅で、翔がその様子を見て、静かに笑う。

(気づいたか)
(でも──)

踏み出すのは、覚悟がいる。

そして、覚悟の遅れは、致命傷になる。

誰よりも、それを知っているのは──
舞台に立ち続けてきた、役者自身なのだから。
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