仮面のアイドルの正体は、記憶を失った少年だった 「記憶を失った少年が、“仮面のアイドル”として生きる運命とは――?」

第0章・Scene2.5 深夜の決断

 玄関の扉を閉めた瞬間、外の雨音が途切れた。
 静寂が、重い湿気とともに部屋に沈む。耳の奥で、自分の呼吸だけがやけに大きく響いていた。

 三島はびしょ濡れのまま、ぐったりとした青年をソファへ横たえた。
 血と雨に濡れた黒髪が、白いクッションにじわりと色を移していく。

「……わかるか? ここがどこか」

 低く問いかけると、青年――黒瀬蓮のまぶたがゆっくりと震え、重たげに開く。
 焦点の合わない瞳が天井をさまよい、やがて三島の顔を探すように動いた。

「……ここ……? 俺……どうして……」

 声は途切れ、霧の中をさまようように弱い。
 三島は一瞬だけ息をのみ、そして冷静を装って口を開く。

「事故に遭ったんだ。……覚えてないか」

 蓮はしばらく考えるように目を細めたが、やがて小さく首を振った。

「……全部……ぼやけて……何も……」

 その言葉を聞いた瞬間、三島の胸に鋭いものが走る。
 安堵か、恐怖か、あるいはもっと黒い感情か――自分でも判別できなかった。

 テーブルの上で、スマホが光を放つ。
 画面には「璃子」の名前が何度も並んでいた。

 三島はそれを睨みつけ、口元にゆるい笑みを浮かべる。

(……あの女も、こいつを失ったら終わりだ)

 握りしめた拳がわずかに震えた。
 胸の奥で、ささやく声がする。

――今なら、すべてを塗り替えられる。

 事故のことを知る者はいない。
 黒瀬蓮は「失踪した」ことにしてしまえばいい。

 ふと、視界の端に積み上げられた古い資料が映る。
 事務所がかつて描いた、理想のアイドル像――“宅麻大地”。
 若き日の自分が情熱を注ぎ込み、夢と野望を詰め込んだ計画だ。

 三島はそれを引き寄せ、ページをゆっくりとめくった。
 そこに並ぶ言葉が、失いかけた未来を呼び戻す。

「……お前には、まだ価値がある。
 いや……お前じゃなきゃダメなんだ」

 その視線が、ソファでかすかに息をしている蓮に落ちる。

「今日から……お前は――宅麻大地だ」

 冷たい宣告のような声が部屋に沈む。
 蓮の唇がわずかに動きかけたが、そのまま力を失い、意識が闇の底へと沈んでいった。

 その夜、彼の本当の名前は――静かに封じられた。


 
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