仮面のアイドルの正体は、記憶を失った少年だった 「記憶を失った少年が、“仮面のアイドル”として生きる運命とは――?」

Scene23 寄り添う夜のはじまり

 夜はすっかり更けていた。
 海からの帰り道、ふたりのあいだに言葉はなかった。
 けれどその静けさは、どこか心地よい温もりを帯びていた。

 優香の部屋。
 カーテン越しの街の灯りが、照明の代わりに部屋をほのかに染めていた。
 窓を揺らす夜風には、まだ遠くの波音がかすかに混じっている。

 ソファに並んで座ったふたりは、帰宅してからしばらく、ただ黙っていた。
 それでも、その沈黙すらも心地よかった。

「……今日は、ありがとうな」
 ぽつりと蓮が言う。その声には、少しだけ照れが滲んでいた。

「私のほうこそ……本当に、今日は嬉しかった」

 優香はカップを両手で包み込みながら、小さく笑った。
 その笑顔を横目に見た蓮は、ふと視線を落とす。

 ――さっき、あんなこと言っちゃったのに。
 隣にいるだけで、胸がこんなに熱くなるなんて……。

 彼の指先が、ゆっくりとソファの上を動き出す。
 ほんの少しずつ、優香の手に近づいて――そっと、触れた。

 優香の心臓が、どくんと跳ねた。

 ――あったかい……。
 さっき海で手を握ってくれた時と、同じ温度。

「……触ってても、いい?」
 その声は、どこか怯えるように震えていた。
 優香はそっと手を開き、彼の指を包み込む。

「うん……」

 再び沈黙が降りる。
 でも今度のそれは、甘くて、夜の静けさをゆっくりと溶かしていった。

「なあ……」
 蓮がぽつりとつぶやく。
「……優香の肩、借りていい?」

 不意の言葉に優香は驚いたが、すぐにやさしく頷いた。

「うん。……どうぞ」

 蓮の頭がそっと優香の肩に触れる。
 かすかに触れ合った髪が、ふたりの距離をやわらかく教えてくれる。

 ――こんなに近いのに、いやじゃない。
 むしろ、落ち着くなんて……不思議。

 優香は、彼の髪に指を滑らせた。
 そのぬくもりを確かめるように、ゆっくりと撫でる。

「……あったかいな」

 蓮が小さくこぼしたその声に、優香の胸の奥に、じんわりと何かが広がっていった。

 夜は深く、静かだった。
 ふたりの世界は、言葉のないまま、そっとひとつの温度に溶けていった。



 
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