白衣とエプロン②お医者様は今日も妻に恋わずらい
「これから“約束の言葉”を使うことってあるでしょうか?」

「どうだろう? ただ、いつでも使おうと思えば使える状態にあるのが大事だと思ってるよ」

「それは、そうですね」

彼がパジャマを脱ぐのをぼんやり眺めながら、頭の中でけっこう真剣に考える。

理性を失う秋彦さん?

抑えがきかなくなる秋彦さん?

私の事情などはそっちのけで、自身の欲求を満たすのに夢中になる秋彦さん?

(……まったく想像できないけど???)

どうしても中止したい状況って、例えば……私がいきなりお腹が痛くなっちゃうとか?

けど、そういうことが起きたらたぶん、約束の言葉は使わずに、フツーに「お腹痛くなっちゃった」とか言うだろうし。

彼はきっと「大丈夫!?」ってすごく心配してくれて、行為どころじゃなくなるに違いない。

「えー、いいとこなのにぃ」と、あからさまにがっかりしたりしないでしょうし。

ましてや「なんだよ、こんなときに腹痛かよ」と舌打ちするなんて絶対にありえない。

(ああ、私ってばこんな最悪ケースを引っ張り出してきたりして……)

でも、昔の私は本当に心から恐れていたのだもの。

相手の気分を害するようなことはしてはいけない。

そのために、自分はできるかぎり我慢をしなければいけないのだ、と。

そういった我慢は行為を成立させるために必要なことだと思っていたし。

(本当、バカみたい)

そもそも“成立させる”とか、そのための“我慢は必要”だなんて。

今はもう、ちゃんと自分を大事にできる。

だって、彼が何よりそれを望んでくれているし。

「秋彦さん」

「なんだろう? て、ええっ……」

私はえいやっと起き上がると、彼を素早く押し倒した。

THE・不意打ち(卑怯とも言う……)。

いわばいつもと逆の体勢?

馬乗りになるかっこうで彼を見下ろす。

(まったく私も大胆になったものだ、なんて)

「秋彦さんのことが好きすぎて発狂しそうです」

そうして、私は本当にちょっと困りながら、思い切って唇を重ねた。

それは、ふわりと重なるだけのキスのつもり、だったのに――。

「そんな嬉しいこと言われたら――」

「えっ」

(ああっ)

あっと言う間に形勢逆転。

熱っぽい彼の眼差しが、私の揺れる瞳をつかまえた。

「発狂しそうなのは僕のほう」

彼は叫ぶかわりに(?)とびきり甘いとろけるようなキスをくれた。

唇を重ねては情熱を交換し、甘い体温を共有する。

求められているのは、我慢でもなければ、無条件に体を差し出すことでもない。

ただ、いまこのときを幸せに分かち合うこと。

(ああもう、いつまでもこうしていたいくらい……)

なのに、唇がゆっくりと離れて、ちょっと淋しくて名残惜しくて。

その気持ちを適当に誤魔化すように、これまた適当な質問をする。

「このマンションが防音に優れているとして、人間の声って実際どれくらい通るものなんでしょう?」

「さあ。よそ様の声やペットの鳴き声が気になったことはないが、どうだろう?」

「確かに。発狂する声なんてしたら事件か何かって心配しちゃいそうです」

「もし、僕が発狂しそうになったら――」

「え?」

「君がこうして止めて」

彼はそう言ってくすりと笑うと、再び唇を重ねた。

(もう、かなわないなぁ……)

私はというと――発狂しないかわりに(というか、これでは発狂しようがないのだけど)、キスにはキスでお応えした。

いつもいつも、またいつも、彼に与えてもらってばかり。

そんな気持ちがやっぱり心の片隅にある。

でも、心のありかたはずいぶん変わった気がする。

まえは「お返しをしなくては」みたいに、どこか申し訳なさを感じたりもしていたけれど。

今はちょっと違っていて。

彼が私を知りたいと思ってくれるように、私も彼を知りたくて。

彼が私を甘やかし倒したいと思うように、私も彼をどうしようもなく困らせてみたくて。

こういう“欲”が出てくるなんて自分でも想定外。

まったく、我ながらだいそれた野望をもったものだ。

「秋彦さん」

私を愛でる彼の手にやんわりと触れ、そっと止める。

「よかったらですけど、その……」

どんな大きな野望も、はじめは小さな一手から。

「“私がしてあげる”というのはどう、ですか……?」

今日はバレンタインデー。

女性が男性に甘い贈り物をして、愛を告白しまくる(?)日。

優しい夜に、ふたりのときが、しっとり甘やかにとけていった――。







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