部長と私の秘め事
「昭人」

 昭人が警官と共に目の前を通り過ぎようとした時、私は彼を呼び止めた。

 足を止めた昭人は、疲れ切った顔でうっとうしげに私を睨む。

「……昭人に不幸な事があったのは気の毒だと思う。でも人間、どんな事があっても、超えたらいけない一線があるんだよ」

 そう声を掛けると、昭人は怒りとも嘆きともつかない表情を浮かべる。

 そのあと、彼はせり上がった感情を押し殺し、ボソッと言う。

「……朱里と別れたあとから、すべてがおかしくなった。……もう一度お前とやりなおせたら、失われた人生を取り戻せると思ったんだ」

 彼の言葉を聞き、ズキンと胸が痛む。

 けれど、精一杯の気持ちを込めて伝えた。

「……罪を償って、やり直せばいいじゃん。『失われた人生』って、あんたまだ三十歳にもなってないんだよ? 自分の生き方一つで人生なんて変わっていく。考え方を変えて再出発しなよ」

 尊さんと出会う前の私なら、「ふざけんな! 地獄に落ちろ!」と怒鳴っていただろう。

 でも私は今まで何回も、尊さんの懐の広さを見せられていた。

 だから、彼が見ている前で口汚く罵る事だけはやめようと思ったのだ。

 ――尊さんが誇りに思ってくれる恋人でありたい。

 どんな苦境に立たされても、絶望を前にしても、絶対に醜い行動だけはとらない。

 それが私の矜持だ。

 人は追い詰められた時こそ本性が出ると言われているから、感情的になりそうな時こそ、グッと堪えて〝人〟らしくいなければならない。

「恵を危険な目に遭わせた事だけは許さない。……でも、この先ずっと昭人を憎んで生きていくわけじゃない。私は尊さんと結婚して幸せになるし、その生活の中で昭人を思い出す事はない。結婚後にはその時に向き合わないとならない事があるだろうし、子供ができたら模範になる母になりたい。……いつまでも過去を恨んで過ごすわけにはいかないの」

 そこまで言ったあと、私は努めて微笑み、グッと拳を握って前に突き出した。

「お互い、別の道で幸せになろう。私の事はもう忘れて」

 昭人は私の言葉を聞き、毒気を抜かれたような顔をしたあと、――泣きそうな表情で笑った。

「……ほんとお前、変わったな。俺の知る朱里じゃねーわ」

 そのあと、昭人は警官に連行されていく。

 最後に私はハッと気付き、私と尊さんの様子を見に来た警官に訴えた。

「私と親友のスマホをとられたままなんです!」

「分かりました」

 三十代後半の若い警官は、返事をしたあとに軽く走って連行された人たちの元へ向かい、他の警官と話してからスマホを二台持って戻ってきた。

 彼と同時に救急隊員も二名やってきて、私の様子を窺う。

「後日、事情聴取のために署へ来てもらえますか? その時に送られてきたメッセージを確認させてもらいたいです」

「分かりました」

「外に救急車が来ていますから、念のために病院で検査を受けたほうがいいでしょう」

「……そうですね」

 頬はまだジンジン痛んで熱を持っている。

 大丈夫とは思うけれど、人に思いきり叩かれた事なんてないので、念のため診てもらったほうがいいんだろう。

「朱里、救急車乗るか? それとも、緊急性がないなら俺の車で行くか?」

 尊さんに尋ねられ、私は即答した。

「尊さんの車で行く」

 そのやり取りを聞き、救急隊員は頷いた。

「問題なく話せていますし、歩行にも支障がないみたいですからいいでしょう。その代わり、指定の夜間病院で検査を受けてください」

「分かりました」

 警官……と言ったけれど、彼らはフェイスシールドのついたヘルメットに、透明な小型の防弾盾という物々しい装備をしていて、自分が〝誘拐〟されたのだと自覚した。

「……本当はこんなにすんなりスマホを返してくれるか、わかんねぇけどな。……一般人の俺が単身飛び込むっていう危ない真似をしてもお咎めなしなのは、涼のお陰だ」

 尊さんは私を抱きかかえるように歩いて言い、私は長い一日がやっと終わろうとしているのを感じる。

「恵は……?」

 頭の中がゴチャゴチャになっているけれど、彼女の事だけはずっと心配していた。

「大丈夫。涼が保護した。今は病院に向かってるはずだ。気絶していたが、命に別状はないし基本的に元気らしい」

「良かった……」

 安堵のあまり脱力した私は、大きな溜め息をつく。
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