部長と私の秘め事
 お昼が近くなると、北原さんが漫画部屋に現れた。

「そろそろお腹すいてませんか?」

「すいてます!」

 私は漫画本に栞を挟み、テーブルに置くとスックと立ちあがる。

「お二人とも、何か食べたい物はあるでしょうか? 定食系に丼もの、麺類も色々ありますし、カフェっぽい物も作れます」

 恵と顔を見合わせると、「朱里は麺がいいんでしょ?」と言われる。

「恵は? この家の女主人になるんでしょ?」

「やめい。……私は別にそんなに好き嫌いないし、なんでも食べるから大丈夫」

 私たちはリビングダイニングに向かいながらそんな会話をし、最終的にパスタに決めた。

 先ほどの掃除と違って北原さんに話しかけても大丈夫な雰囲気だったので、私たちはキッチンにある椅子に腰かけ、働いている彼女に話しかけた。

「涼さんって、本当にこの家に女性を上げた事ありませんか?」

 私が尋ねると、北原さんはニコリと笑う。

「ないと思います。私は早い日は今日のように十時に来て、お掃除や作り置きの料理をして夕方になる前には次のお宅へ向かいます。時間帯の遅い時は夕ご飯の時間帯にもいますが、その時にご家族以外の女性がいた事はありませんし、前日から日を跨いで朝に誰かがいた事もありません」

 答えたあと、北原さんは「秘密ですよ」と人差し指を口の前に当てて微笑んだ。

 確かに、雇用主のプライベートについて話すのはタブーだ。

 でも彼女は恵が特別な女性だと知り、安心させるために教えてくれたのだと思う。

 きっと、私が尊さんについて聞いた時の町田さんも同じだったろう。

「質問ついでに、涼さんのご家族ってどんな感じですか?」

 今度は恵が尋ねる。

「三日月家の皆さんは、高身長で美形の方々ばかりだと思います。女性陣はとても社交的で、威圧感がなく私にも気さくに話してくださる方々で、親しみやすいです。日本を代表する大企業の創業者一族の方々ではありますが、感覚は信じられないぐらい庶民派で、お話していて心地いいです」

「へぇぇ……」

 私は感心して頷き、「良かったね」と笑顔で恵を見る。

「……そういえば涼さん、赤羽でよく飲むって言ってたな」

「安くて美味しいしね」

 私が住んでいた西日暮里から赤羽までは三十分ぐらいで、商店街やショッピングモール、スーパーマーケットもあるのでよく買い物をしていた。

〝センベロ〟と呼ばれる、千円でベロベロに酔えるお店も沢山あり、安くて美味しい定食屋や居酒屋、意外に若者をターゲット層にしたカフェもあるし、ラーメン屋もある。

 下町情緒溢れる所で、私は好きだ。

 恵ともよく一緒に行ったけど、飲んでいる席の隣のおじさんが、経営コンサルをやっている人だった……とかも、実際にあった。

 その時は興味深い話を聞いて、ついでに悩みも聞いてもらい、経営者側の目線を知って「なるほど~」と思った事もあった。

 お金持ちがハイソな場所だけにいると思えば、意外とそうでもないのだ。

 話しているうちに北原さんは素晴らしい手際でパスタを作り、手作りのドレッシングがかかったシーザーサラダも作ってくれる。

「どうぞ~。召し上がれ」

 テーブルの上に載せられたのは、本格的な海老のトマトクリームパスタ(しかもフィットチーネ)とシーザーサラダ、コンソメスープだ。

「いただきます!」

 思わずスマホでパシャッと写真を撮ったあと、私たちは美味しいランチに舌鼓を打つ。

 北原さんはすぐに片付けを始め、冷蔵庫の中を確認してから「買い物に行って参りますね」と出掛けて行った。

 やがて彼女は一時間ぐらいで戻り、作り置きの料理を何種類も作り始める。

 北原さんは五日に一度ぐらいの頻度で来ているらしく、他にも窓やシャンデリアなどの高い部分を掃除する業者さんなども、定期的に来ているようだ。

 基本的に床はお掃除ロボットが複数動いているので、ゴミ一つなくピカピカだ。

 あとは水回りの掃除、拭き掃除などを北原さんが決まっている範囲をやり、残りは業者さんが請け負っているそうだ。

 確かに料理を得意としている人が掃除まですべてやっていたら、次の家に行く時間がもったいないだろう。

 北原さんがクルクルと忙しく働いている時、佳苗さんから電話が掛かってきた。

「もしもし」

 恵がハンズフリーにして応答すると、佳苗さんの声がする。

《荷物を纏め終わったから、三日月さんのお宅に搬入する予定なんだけど……、お母さんも入っちゃっていいの?》

 佳苗さんの声を聞き、私と恵は顔を見合わせる。

「……多分いいと思う。朱里もいるよ」

《分かった~! 六本木のタワマンで待ってて~!》

 佳苗さんは明るく言うと電話を切った。

「……さて、騒がしくなるぞ」

 恵が溜め息をついた時、北原さんが言う。

「じゃあ、荷物を片づけ終えた時にお茶を楽しめるよう、お菓子も作っておきますね」

「やったー!」

 恵の引っ越しなのに私が喜ぶ。

 いっぽうで恵は、佳苗さんにこの凄いマンションを知られると思ってか、落ち着かない顔をしている。

「大丈夫だよ。喜んでくれるんじゃない? 牡丹海老で明石鯛が採れたとか」

「私そこまで高級じゃないよ」

「またまたぁ~。クリクリ」

 私が恵の脇腹をつつくと、彼女は「やめてって」と笑い出す。
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