偽りの先で恋をする

クズ男

 それは本当に偶然だった。
 いつもなら絶対しないような寝坊をして、学校に遅刻してしまいそうになった。だから路地裏を通って学校への道をショートカットしようとした。
 そのせいでこんな場面に遭遇してしまうだなんて思いもしなかったけれど。

――パンっ!

 乾いた音が辺りに響く。
 高校生くらいの女の子が振りかぶった手が、私と同じ制服を着た男の子の頬に直撃する。女の子の爪が頬を掠め、そこには小さな切り傷ができていた。

「最低のクズ男!」

 女の子は目に涙をため、そう叫ぶとどこかへ駆けていった。
 狭い路地に私と彼だけが取り残される。ゆっくりと彼の冷たい瑠璃色の瞳が私を捉えた。次の瞬間、静かに開いた唇によって想像を絶する言葉が紡がれた。

「何? キスでもされんの待ってんの? お金くれるならいくらでもしてあげるよ」

――こいつはやばい。

 脳が、体が、全細胞が危険信号を発している。私が驚きのあまり硬直している間にも、一歩ずつ私の方へ近付いてきてる。

「ち、近づくな!」

 思わず口から出てしまった言葉を置き去りに、私は走り出した。そのまま足を止めることなく学校に一直線に進む。
 やっとのことで学校に辿り着いたときには、息があがっていた。
 
「奈緒じゃん。どしたの、そんなに息切らしてさ」

 後ろから名前を呼ばれる。ゆっくり振り返ると、そこには同じクラスの原道莉弥(はらみちりいや)が立っていた。
 金色に染められた髪と、幾つもの大きなキーホルダーがつけられたスクールバックが存在感を放っている。

「まあ、ちょっと。色々あってね」
「なになに、また男絡み? 言い寄られてたの?」
「そ、んな感じかな……」

 視線を泳がせ、そう答えると莉弥はニヤニヤと笑いながら肩を組んできた。

「さすが奈緒。またひとり男を虜にしてしまったか」
「大袈裟だよ。ほら、早く教室行こ」

 話を逸らしつつ、莉弥の背中を押す。教室に着くとすぐにチャイムが鳴り、先生がホームルームを始めた。
 今日の朝の出来事を覗けば、あとはいつもと何も変わらない。十分休憩を挟みつつ、授業を受ける。この繰り返しだ。
 そんなこんなで今は昼休み。私と莉弥は雑談をしながら購買に向かっている真最中なわけだ。

「あー、彼氏ほしー。最近みんな付き合ってるよね。誰かうちにも告ってくれないかな」

 頭を抱えながら「彼氏ほしい」と嘆く姿に少し呆れながらも、優しく頭を撫でた。

「莉弥のその言葉、昨日も聞いたよ」
「仕方ないじゃん! そういう奈緒は何人に告られたことあるの?」
「まあ、ざっと二十人くらいかな」

 もちろん、こんなのは真っ赤な嘘だ。告白なんて生まれてこの方、一度もされたことがない。
 だけど莉弥はそんな私の嘘を信じ、憧れの眼差しを向けてくる。

「レベルが違うなあ……経験からきた余裕が更に男を引き寄せてる感じ?」
「そうそう、そんな感じ。心配しなくても莉弥は絶対告白されるって。私が保証する」
「奈緒の優しさが胸に染みる! やっぱり持つべきものは恋愛経験豊富な友達だよね」

 莉弥はそう言いながら私に抱きついてきた。その勢いに耐えきれず、よろけて一歩後ずさったとき、誰かの足を踏んでしまった。
 それと同時にその人が持っていたであろうパンが地面にばらまかれた。

「ご、ごめんなさい。大丈夫で、すか……?」

 謝っている最中、その人の頬にあった傷を見て息が詰まった。位置も大きさも今朝の男の子がつけられていた傷と同じだ。
 けれど、本人が纏っている雰囲気は全然違う。目までかかる長い前髪と黒縁メガネ。見れば見るほど、あの人と同一人物には見えない。

「あの……僕なら大丈夫です。こちらこそすみませんでした。あまり前を見ていなかったもので……」
「えっ? あっ、大丈夫なら良かったです」

 彼の言葉で意識が現実に引き戻される。辺りに散らばったパンを慌てて拾い上げ、彼に手渡した。
 男子高生にしては数が少ないパンを大事そうに抱えると、彼は一礼をしてこの場から離れていった。
 
「奈緒、ごめん! うちのせいなのに奈緒に謝らせちゃった」

 彼が去ってからすぐ、莉弥は土下座しそうな勢いで私に謝ってきた。

「全然いいよ。気にしないで」
「ほんとにありがとね。この恩は一生忘れないから」
「じゃあ期待しとこっかな」

 私がおどけたように言うと莉弥は笑って、また私の隣を歩き始めた。

「ところでさ、奈緒ってああいう感じの人がタイプなの? その……ちょっと地味そうな」

 莉弥は少し言いにくそうに最後の言葉を口にした。唐突に振られたその話題に目を見開く。まさかそんなことを聞かれるなんて。

「急になんで?」
「だってあの人の顔、ガン見してたじゃん」
「そう、だっけ?」
「結構な時間見てたよ。一目惚れでもしたのかと思うくらいには」

 それを聞いて数分前の自分の行動を後悔する。莉弥がそう思うってことは、彼にも何かしら思われてる可能性があるってことだ。
 初対面の人に、しかも男の人に変な印象を抱かれるのは我慢ならない。
 
「とにかく、うちは奈緒が誰を好きでも応援するよってことが言いたかったの。奈緒にとっちゃ余計なお世話かもしんないけどさ」

 私がひとり思考を巡らせている姿が、莉弥には返答に困っているように見えたらしく、強引に話をまとめあげた。
 その口振りから垣間見える彼女の優しさが嬉しくて自然と口角があがる。

「余計なお世話なわけないでしょ。ありがとね」

 私がそう返すと、莉弥は満面の笑みを浮かべた。

「早く購買いこっ! じゃないと売り切れるかもしれないし」

 莉弥は私の手を掴み、購買の方へと走りだす。

「えっ、ちょっ、ちょっと待って」

 転けそうになりながらも、なんとか体勢を立て直し、そのまま廊下を走り抜けた。
 こういう何気ない日常を繰り返す度に思う。もし本当の私を知ったとしても、莉弥は変わらず私に笑いかけてくれるだろうか。

 その日の放課後、私は運悪く教科担当の先生に捕まって、雑用を任されていた。内容は至って単純。その先生が教室に置き忘れてしまったノートの山を職員室まで運ぶというものだった。
 先生は教室には誰もいないと言っていたけれど、念には念を入れドアを三回叩いた。

「失礼します」

 ドアの隙間からそっと顔を覗かせる。先生の言っていた通り教室内には誰もいなかった。あるのは一回では運びくれないくらいに山積みにされたノートだけだ。
 教室と職員室を何往復もしている自分の姿が目に浮かぶ。

「なんでこんな面倒事を私が……」

 小言を呟いても意味がないことはわかっているが、どうしても口から漏れてくる。
 自分が持てる限界のノート数を腕に抱えて、教室を出ようとしたとき、机の脚が足元に引っかかった。その感覚と同時に体が前に崩れ落ちる。手にあったはずのノートは辺りに散乱し、鈍い痛みが膝からじわじわと広がっていく。あまりの痛さに声も出ない。
 しばらくして痛みが治まってから散らばったノートを集めようと手を伸ばすが、私より先に誰かがそれを手にした。
 上を向くと、そこには見覚えのある顔があった。
 
「君は……」
「これで会うのは三度目ですね。二十人に告白された先輩」

 ニコリと微笑みながら差し出してきたノートを受け取り、彼が発した言葉を頭の中で復唱した。
 その意味を理解した途端、二つの理由で顔が青ざめていくのが自分でもわかった。

「あ、あんたやっぱり朝の……ていうかあの話聞いてたの!?」
「その豹変ぶり。先輩もキャラ使い分けてる感じですか……? 僕たち似た者同士ですね。それならこちらとしてもやりやすいです」

 彼はそう言うと、私の視線を合わせるようにしゃがみこんだ。

「先輩の秘密だれにも言わないからさ、あのとき見たこと全部忘れてくれない? じゃないと困るんだよね」

 口調も態度も今朝見た彼と完全に一致する。彼の顔には笑みが浮かんでいるが、その目は一切笑っていない。
 私が返事をしないでいると彼は何を思ったのか、顔がどんどんと近づいてきた。

「やっぱり思った通り。先輩、男慣れしてないでしょ。タコみたいに顔真っ赤だよ」

 自分の顔に手を当てると、確かにそこには熱がこもっていた。熱をいち早く外に追い出そうと、パタパタと手で扇ぐ。

「あんたほんとになんなの……?」
「僕はこのクラスの東條奏多だけど」
「そういう意味じゃない!」

 答えになっていない言葉に、つい大きな声を出してしまう。すると、東條くんは新しい玩具を見つけた悪魔のような顔で笑った。
 
「わかってるって。朝のことでしょ? あれは女の子の機嫌を損ねちゃってさ」
「……何したの?」
「他の子とキスしてるとこ見られたみたい」

 彼はなんてことない理由だ、とでも言うように言葉を続けた。その表情からは反省の色は少しも見えない。
 正真正銘、最低のクズ男だ。
 私の表情から何かを感じ取ったのか、東條くんは不機嫌に眉を顰めた。

「言っとくけど、好きあってたわけじゃないから。あの子は僕の顔が好きだっただけで、僕は彼女がお金をくれるから一緒にいた。ただそれだけ」

 淡々と語る彼の顔を見ていると、どんな言葉を返せばいいのかわからなくなる。
 そんなに私を横目に、東條くんは教卓の上に置かれているノートを全て抱えた。
 
「ほら、ノート運ぶの手伝ってあげる。これで取引成立ってことで。よろしくお願いしますね、先輩」

 私の返事も聞かず、そのまま教室を出ていってしまった。ひとり残された教室内で、ため息を零す。
 東條くんとのやり取りを思い出すだけで妙な疲労感に襲われる。

『僕たち似た者同士ですね』

 記憶の中の言葉に「そんなわけない」と悪態をついた。私と彼は全然違う。似た者同士どころか真反対だ。
 そうやって自分に言い聞かせながらノートを腕に抱え、彼の後を小走りで追った。
 



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