夜明け前のメトロノーム
終電を待つホームは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
蛍光灯の光は不自然なほどに白い。線路の向こう、遠いカーブのあたりから、かすかに金属が軋む音が近づいてくる。甲高い音を聞くと、一ヶ月前の『終わりの日』に引き戻される気がした。
友里はホームに立ったまま、身体の前で指を絡めていた。指先が冷たい。十一月の夜は、思ったより深く冷えていた。コートの襟を立てても、首筋を撫でる冷えた風を完全に防ぐことはできなかった。
——寒い、なぁ……
物理的な寒さだけではない。心臓のあたりから、内側からじわじわと広がるような冷たさがあった。
陽斗の声が、まだ耳の奥でエコーをかけて鳴り響いている。少し低くて、いつだって優しかった声。
「ごめん。……たぶん俺、男の人が好きなんだと思う」
その言葉だけで、三年分の季節が音もなく崩れ落ちた。
もっとドラマみたいに叫んだり、膝から崩れたりするのかと思っていたけれど、実際の失恋は静かだった。想像していたよりもずっと穏やかで、けれど、心が甲高く軋んで、ひどく痛かった。
友里は頷きながら「そうなんだね」としか返せなかった。裏切られたわけじゃない。責めたい気持ちもない。彼が彼自身、そして友里を大切にしようとしているのが分かるからこそ、友里は何も言えなかった。
「突然すぎて、ごめん」
陽斗はそう言って、深く頭を下げた。しばらくして顔を上げた彼の瞳には、揺るがない決心と、鈍い痛みが宿っていた。
「嘘をついてたわけじゃない。友里のことは、本当に大切だった。でも、この気持ちに気づいたからには、もう……」
それが、最後の会話になった。友里は結局、何も言えなかった。
何と話しかければよかったのだろう。いつ気付いたの? 今、好きな人がいるの――そんな野暮な質問は、目の前の現実を何も変えない。
ただ、陽斗の心が、自分とは別の場所へ、彼にしか見えない光を追って行ってしまった。ただ、それだけのこと。
——残業で疲れてるから……こんなこと思い出すのかな。
もうあの日から一ヶ月経った。そろそろ前を向かなければ。いつまでも過去を引きずっていては、正直に言ってくれた陽斗にも申し訳ない。
——ねぇ神様。私、何を間違えた?
頭ではわかっているのに、喉の奥がずきずきと痛む。痛みとは、こんなに物理的なものだっただろうか。まるで、心臓を縫い針でちくちくと刺されているかのように、胸に絶え間なく鈍い痛みが走っていた。
遠くから近づいていた軋む音が、だんだんと大きくなる。ぽつぽつと人が立つホームに、大きな風を連れて電車が滑り込んできた。
車内は予想以上に空いていた。眠りこけたサラリーマン、スマホを握りしめたまま首を垂らす学生。誰もが、自分の世界に閉じこもっている。
友里は目に付いた空いている席に腰を下ろした。座った途端、疲れがドッと一気に押し寄せてくる。
目を閉じると、鼻の奥からじんわりと熱がこみ上げてきた。泣くつもりなんてなかった。泣いたって何も変わらないことくらい、社会人五年目なのだから分かっている。
それでも、眦から一筋零れ落ちていく涙をこらえることなんてできなかった。
——泣くな……泣いちゃだめ。
強い力で唇を噛みしめても、自分の意思に反して次々と零れ落ちていく雫を止めることはできない。喉の奥から落ちていきそうな嗚咽を必死に飲み込んだ、その瞬間。
「……大丈夫ですか?」
唐突に声をかけられ、友里は顔を上げる。
向かい側の席に座っていた男の人が、こちらにハンカチを差し出していた。折り目正しく、まるで新品みたいに真っ白なハンカチ。触れるのをためらうほど清潔に見えた。
「どうぞ」
低い、でも柔らかい声だった。静かな車内に、彼の声だけがやけにクリアに響いた。
相手は軽く微笑んでいる。威圧感はなかった。電車が揺れるたび、黒髪の毛先も少しだけ揺れている。スーツの上に、ダークグレーの仕立ての良いコートを羽織っていた。
年齢は二十代後半か三十代前半くらいだろうか。整った顔立ちだが、疲れの色も見えた。
「泣く日って、ありますよね。今日は僕も、結構やらかした日なんで」
彼はそう言って、ふわりと優しく笑った。
「泣きたいときは、泣くのが一番効きます。溜め込むと、後で倍になって返ってくる」
ふっと目尻を下げて紡がれたその言葉は妙に説得力があった。彼の瞳は、本当にそう経験してきたと言っているように感じられた。
友里はためらいながらも、その白いハンカチを受け取った。そのハンカチは少し温かかった。彼の手の熱が残っているのかもしれない。
受け取ったハンカチに視線を落とすと、緊張の糸が完全に切れた。
ぽたり、と雫が頬を伝い落ち、手元のハンカチに吸い込まれていく。まるで堰を切ったように、熱い涙がとめどなく溢れてくる。
「……ありがとう……ございます」
「どういたしまして」
彼はそれ以上何も言わず、有里の隣に腰を下ろして窓の外に視線を移した。夜の街のネオンが、電車の窓を通り過ぎていく。無理に話しかけてこない。それが、今の友里には何よりの優しさだった。沈黙がひどく心地いい。
友里はハンカチを顔に押し当て、小さく息を吐いた。清潔な柔軟剤のほのかな香りが鼻腔をくすぐっていく。
「見て……ましたか?」
「最初は見てません。少ししてから」
「……聞かないんですか? 泣いている理由」
「聞きませんよ。聞いてほしいって言うまでは」
彼の柔らかな声色に、心のどこかで張り詰めていた糸がほんの少しだけゆるむ。
どれくらい時間が経っただろう。涙が少し落ち着きはじめた頃、彼がぽつりと呟いた。
「月、綺麗ですね」
その声で、友里は顔を上げた。
窓の外——ビルの隙間から見える群青色の空に、確かに大きな満月が浮かんでいる。
「……そう、ですね」
「眩しすぎて、ちょっと罪悪感湧くな。『お前まだ帰ってないのか』って言われてる気がする」
おどけたように言葉を落とした彼に、友里は小さく笑みを返した。その瞬間、胸の奥のずきずきとした痛みが、少し軽くなった気がした。水底に沈んだ重い鉛が少しだけ浮き上がったような、そんな感覚だった。
『まもなく、終点、平塚、平塚です』
もうすぐ終点だ。この一時的な隔離空間から出なければならない。
友里は通勤用のトートバッグから財布を取り出す。クリーニング代として千円札を引っ張り出し、丁寧に畳んだハンカチに添えて彼に差し出した。
「ありがとうございました。これ、クリーニング代にしてください。本当に……助かりました」
有里が差し出したそれを彼は受け取ろうとせず、軽く首を振った。
「いいですよ。気にしないでください」
「でも……」
「代わりに」
なおも言い縋る友里に、彼は少し照れたように笑った。
「コーヒー、一杯だけ付き合ってもらえません? だけど、夜も遅いですし、断ってもらっても」
押しつけがましくない。逃げ道もきちんと残した、穏やかな誘い方。
その声音に、なんだか——彼自身が、少しだけ寄り道を必要としているように見えた。
「……一杯だけ、なら」
「充分です」
彼の笑顔が、車内の中でひときわ明るく見えた。
電車を降りると、夜風が頬を冷たく撫でた。ロータリーのタクシー乗り場には行列ができている。
駅前ビルの中にある深夜喫茶は思ったより明るかった。窓際のカウンター席に横並びで座ってそれぞれコーヒーを注文する。届けられた温かいカップを両手で持つと、指先の感覚が戻ってきた。冷え切っていた身体が、内側からじんわりと温まっていく。
沈黙が少し続いた。その沈黙を破るように、友里は目の前のカップを両手で包んで小さく息を吐いた。
「一ヶ月前、彼氏に振られました」
自分でも驚くほど素直に、そして自然に。何の淀みもない言葉がまろびでた。
「『男の人が好きだって気づいた』って」
隣に腰掛けた彼は黙って聞いていた。驚きも、同情も、好奇心もない。ただ静かに頷くだけ。それがなによりも、友里を安心させた。
「裏切られたわけじゃないんです。嘘つかれたわけでも。でも……急に自分がすごく小さくなったみたいで。私じゃダメだったんだなって。なんだか……置いていかれような、そんな気もして」
有里は抱え込んでいた感情を一気に吐き出して、俯いた。視線を落とした先のコーヒーの水面に、自分の顔が歪んで映っている。泣き腫らした、ひどく痛々しい顔だ。
しばらくすると、彼が静かに口を開いた。
「置いてかれたんじゃなくて、ちょっと立ち止まっただけですよ」
「……立ち止まった?」
彼の言葉の意図がわからず、友里はふっと顔を上げた。
「うん。誰だってあります。僕も、しょっちゅう」
視線を合わせた彼は、困ったような、それでも少し苦しそうな笑みを浮かべながら頬を掻いていた。
「デザインの仕事してるんですけど、定期的に『俺何やってんだろう』ってなるんです。トレンドの賞味期限は短すぎるし、どんなに最高だと思ったデザインでもクライアントの好みでNG喰らったり。毎日フォントと余白の戦いで、これで人生終わんのかって思うと、三年に一度くらい死ぬほど落ちてしまう。今も、正直その真っ最中」
「そんなになります?」
「なりますよ。三十路過ぎた男が何言ってんだって感じですけど、実家に帰ろうかと思ったこともあります」
小さく肩を竦めた彼が、ゆっくりとコーヒーを口に含んでいく。
「でも、立ち止まるのって悪いことじゃない。休憩してるだけですから。走り続けたからこそ、立ち止まる場所が必要になる。立ち止まることは後退じゃなくて、次の一歩のためのエネルギーチャージみたいな感じ」
休憩——その言葉が、友里の胸の奥にじんわり染みた。
ずっと立ち止まって、うずくまっているような気がしていた。陽斗に置いて行かれ、仕事でも成長してるのか分からず、同期はどんどん結婚したり昇進したりするのに、自分だけ取り残されているような、そんな焦りが友里の中で靄ついていた。
「終電って、ある意味、立ち止まる人専用の乗り物だと僕は思ってて。心身共に疲れ果てて、誰にも見られたくない。それでも明日にはまた歩き出す。終電っていうのは、そういう人たちが一時的に身を寄せる場所。言わば——夜だけの避難所、みたいな」
ひどく抽象的で曖昧な表現だ。けれど、今の友里にとっては小さな光のような、心の靄をゆっくりと霧散させてくれるような、そんなあたたかな言葉だった。
ふっと——肩の力が抜けたような気がして、友里は小さく笑った。涙の跡が残る頬がわずかに緩む。
「終電に、そんな役割あったんだ」
「あったはずですよ。少なくとも、今日の僕はそう思って乗ってました」
彼はそう言って、また優しく微笑んだ。
友里はカップの縁を指でなぞりながら、小さく息を吐いた。コーヒーの湯気がふわりと上がって、少しだけ目元を温めていく。
「なんか……変、ですね。誰かにこんなこと話すつもりじゃなかったのに」
誰にも零すつもりはなかった。失恋なんて、誰にでもあることだから。
友里が自嘲混じりの笑みを浮かべると、彼は緩やかに目尻を下げた。
「大抵、話そうと思った相手には話せなくて、話すつもりのなかった相手には話しちゃうものですよ。特に終電帰りなんて」
「……そんなもの、ですかね」
「そんなものです」
彼は軽く頷いたあと、カップを静かに受け皿へ戻した。その仕草が妙に丁寧で、ひどく落ち着いていた。
「ちょっとだけ……救われました」
ぽつりと言葉を漏らすと、彼は驚いたように目を瞬かせ、それからふっと柔らかく笑った。誰かを励ます余裕なんて本当はない人が、それでも自分の手元にある小さな光をほんの少しだけ分けてくれたような——そんな微笑みだった。
「あなたも……少し、救われました?」
無意識のうちに口にしていた質問に、彼は一瞬だけ言葉を探すように視線を落とした。
「はい。ちょっとだけ」
小さく頷きながら緩やかに返された「ちょっとだけ」の一言に、妙なリアルさがあった。彼の穏やかな微笑みは、見ているだけで胸の奥に張りついていた薄い氷を少し融かしてくれるような気がした。
「そろそろ……」
友里がそう言うと、彼は「ですね」と同じように静かに返した。
席を立ってコートを羽織りながら、友里は胸の奥にほんの少しだけ温かなものが灯っているのを感じた。消えそうなほどに弱いけれど、確かに自分の中にある光だった。
店を出て外気に触れた瞬間、友里はほんの少しだけ背筋を伸ばした。首元を撫でる風は冷たいはずなのに、さっきより痛くない。
駅前のロータリーで、二人は立ち止まった。
「……今日は、ありがとうございました。本当に」
友里はぺこりと頭を下げた。ハンカチと、この場所を与えてくれたこと。何より、無理に慰めることなくただ話を聞いてくれたこと。
「こちらこそ。コーヒー、ごちそうさまでした。お互い……今日は休憩ってことで」
少しの沈黙ののちに、ふわりとした優しい風が二人の間を通り抜けていった。
「お名前……聞いても?」
自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。この夜の終わりに、次の始まりを求めている自分がいた。
まだ胸の痛みは消えない。陽斗と過ごした日々が、急に消え去るわけではない。でも、その痛みの隣に、小さな灯りがともったような気がしていた。
彼は驚いたように目を瞠ったのち、この夜一番の柔らかな笑顔を見せた。スーツの胸ポケットに手を入れ、そこから名刺を一枚差し出してくる。
「別に連絡しなくてもいいし、してもいいです。ただ……もうちょっと元気になったら、またコーヒー一杯くらいなら付き合ってください」
「……はい。たぶん、そのうち」
「うん。『そのうち』が一番いいですよ。……おやすみなさい」
彼は軽やかにそう言うと、小さく頭を下げてタクシー乗り場へと歩きだした。その背中は、どこか疲れていて、でも確かに前へ進んでいるような気がした。
友里は彼の後ろ姿を見つめながら、深く息を吸った。冷たい空気が胸の奥まで届く。
——一歩……だけなら。歩き出せそうな気がする。
なんだか今日の夜は、少しだけ特別なものになった気がした。
蛍光灯の光は不自然なほどに白い。線路の向こう、遠いカーブのあたりから、かすかに金属が軋む音が近づいてくる。甲高い音を聞くと、一ヶ月前の『終わりの日』に引き戻される気がした。
友里はホームに立ったまま、身体の前で指を絡めていた。指先が冷たい。十一月の夜は、思ったより深く冷えていた。コートの襟を立てても、首筋を撫でる冷えた風を完全に防ぐことはできなかった。
——寒い、なぁ……
物理的な寒さだけではない。心臓のあたりから、内側からじわじわと広がるような冷たさがあった。
陽斗の声が、まだ耳の奥でエコーをかけて鳴り響いている。少し低くて、いつだって優しかった声。
「ごめん。……たぶん俺、男の人が好きなんだと思う」
その言葉だけで、三年分の季節が音もなく崩れ落ちた。
もっとドラマみたいに叫んだり、膝から崩れたりするのかと思っていたけれど、実際の失恋は静かだった。想像していたよりもずっと穏やかで、けれど、心が甲高く軋んで、ひどく痛かった。
友里は頷きながら「そうなんだね」としか返せなかった。裏切られたわけじゃない。責めたい気持ちもない。彼が彼自身、そして友里を大切にしようとしているのが分かるからこそ、友里は何も言えなかった。
「突然すぎて、ごめん」
陽斗はそう言って、深く頭を下げた。しばらくして顔を上げた彼の瞳には、揺るがない決心と、鈍い痛みが宿っていた。
「嘘をついてたわけじゃない。友里のことは、本当に大切だった。でも、この気持ちに気づいたからには、もう……」
それが、最後の会話になった。友里は結局、何も言えなかった。
何と話しかければよかったのだろう。いつ気付いたの? 今、好きな人がいるの――そんな野暮な質問は、目の前の現実を何も変えない。
ただ、陽斗の心が、自分とは別の場所へ、彼にしか見えない光を追って行ってしまった。ただ、それだけのこと。
——残業で疲れてるから……こんなこと思い出すのかな。
もうあの日から一ヶ月経った。そろそろ前を向かなければ。いつまでも過去を引きずっていては、正直に言ってくれた陽斗にも申し訳ない。
——ねぇ神様。私、何を間違えた?
頭ではわかっているのに、喉の奥がずきずきと痛む。痛みとは、こんなに物理的なものだっただろうか。まるで、心臓を縫い針でちくちくと刺されているかのように、胸に絶え間なく鈍い痛みが走っていた。
遠くから近づいていた軋む音が、だんだんと大きくなる。ぽつぽつと人が立つホームに、大きな風を連れて電車が滑り込んできた。
車内は予想以上に空いていた。眠りこけたサラリーマン、スマホを握りしめたまま首を垂らす学生。誰もが、自分の世界に閉じこもっている。
友里は目に付いた空いている席に腰を下ろした。座った途端、疲れがドッと一気に押し寄せてくる。
目を閉じると、鼻の奥からじんわりと熱がこみ上げてきた。泣くつもりなんてなかった。泣いたって何も変わらないことくらい、社会人五年目なのだから分かっている。
それでも、眦から一筋零れ落ちていく涙をこらえることなんてできなかった。
——泣くな……泣いちゃだめ。
強い力で唇を噛みしめても、自分の意思に反して次々と零れ落ちていく雫を止めることはできない。喉の奥から落ちていきそうな嗚咽を必死に飲み込んだ、その瞬間。
「……大丈夫ですか?」
唐突に声をかけられ、友里は顔を上げる。
向かい側の席に座っていた男の人が、こちらにハンカチを差し出していた。折り目正しく、まるで新品みたいに真っ白なハンカチ。触れるのをためらうほど清潔に見えた。
「どうぞ」
低い、でも柔らかい声だった。静かな車内に、彼の声だけがやけにクリアに響いた。
相手は軽く微笑んでいる。威圧感はなかった。電車が揺れるたび、黒髪の毛先も少しだけ揺れている。スーツの上に、ダークグレーの仕立ての良いコートを羽織っていた。
年齢は二十代後半か三十代前半くらいだろうか。整った顔立ちだが、疲れの色も見えた。
「泣く日って、ありますよね。今日は僕も、結構やらかした日なんで」
彼はそう言って、ふわりと優しく笑った。
「泣きたいときは、泣くのが一番効きます。溜め込むと、後で倍になって返ってくる」
ふっと目尻を下げて紡がれたその言葉は妙に説得力があった。彼の瞳は、本当にそう経験してきたと言っているように感じられた。
友里はためらいながらも、その白いハンカチを受け取った。そのハンカチは少し温かかった。彼の手の熱が残っているのかもしれない。
受け取ったハンカチに視線を落とすと、緊張の糸が完全に切れた。
ぽたり、と雫が頬を伝い落ち、手元のハンカチに吸い込まれていく。まるで堰を切ったように、熱い涙がとめどなく溢れてくる。
「……ありがとう……ございます」
「どういたしまして」
彼はそれ以上何も言わず、有里の隣に腰を下ろして窓の外に視線を移した。夜の街のネオンが、電車の窓を通り過ぎていく。無理に話しかけてこない。それが、今の友里には何よりの優しさだった。沈黙がひどく心地いい。
友里はハンカチを顔に押し当て、小さく息を吐いた。清潔な柔軟剤のほのかな香りが鼻腔をくすぐっていく。
「見て……ましたか?」
「最初は見てません。少ししてから」
「……聞かないんですか? 泣いている理由」
「聞きませんよ。聞いてほしいって言うまでは」
彼の柔らかな声色に、心のどこかで張り詰めていた糸がほんの少しだけゆるむ。
どれくらい時間が経っただろう。涙が少し落ち着きはじめた頃、彼がぽつりと呟いた。
「月、綺麗ですね」
その声で、友里は顔を上げた。
窓の外——ビルの隙間から見える群青色の空に、確かに大きな満月が浮かんでいる。
「……そう、ですね」
「眩しすぎて、ちょっと罪悪感湧くな。『お前まだ帰ってないのか』って言われてる気がする」
おどけたように言葉を落とした彼に、友里は小さく笑みを返した。その瞬間、胸の奥のずきずきとした痛みが、少し軽くなった気がした。水底に沈んだ重い鉛が少しだけ浮き上がったような、そんな感覚だった。
『まもなく、終点、平塚、平塚です』
もうすぐ終点だ。この一時的な隔離空間から出なければならない。
友里は通勤用のトートバッグから財布を取り出す。クリーニング代として千円札を引っ張り出し、丁寧に畳んだハンカチに添えて彼に差し出した。
「ありがとうございました。これ、クリーニング代にしてください。本当に……助かりました」
有里が差し出したそれを彼は受け取ろうとせず、軽く首を振った。
「いいですよ。気にしないでください」
「でも……」
「代わりに」
なおも言い縋る友里に、彼は少し照れたように笑った。
「コーヒー、一杯だけ付き合ってもらえません? だけど、夜も遅いですし、断ってもらっても」
押しつけがましくない。逃げ道もきちんと残した、穏やかな誘い方。
その声音に、なんだか——彼自身が、少しだけ寄り道を必要としているように見えた。
「……一杯だけ、なら」
「充分です」
彼の笑顔が、車内の中でひときわ明るく見えた。
電車を降りると、夜風が頬を冷たく撫でた。ロータリーのタクシー乗り場には行列ができている。
駅前ビルの中にある深夜喫茶は思ったより明るかった。窓際のカウンター席に横並びで座ってそれぞれコーヒーを注文する。届けられた温かいカップを両手で持つと、指先の感覚が戻ってきた。冷え切っていた身体が、内側からじんわりと温まっていく。
沈黙が少し続いた。その沈黙を破るように、友里は目の前のカップを両手で包んで小さく息を吐いた。
「一ヶ月前、彼氏に振られました」
自分でも驚くほど素直に、そして自然に。何の淀みもない言葉がまろびでた。
「『男の人が好きだって気づいた』って」
隣に腰掛けた彼は黙って聞いていた。驚きも、同情も、好奇心もない。ただ静かに頷くだけ。それがなによりも、友里を安心させた。
「裏切られたわけじゃないんです。嘘つかれたわけでも。でも……急に自分がすごく小さくなったみたいで。私じゃダメだったんだなって。なんだか……置いていかれような、そんな気もして」
有里は抱え込んでいた感情を一気に吐き出して、俯いた。視線を落とした先のコーヒーの水面に、自分の顔が歪んで映っている。泣き腫らした、ひどく痛々しい顔だ。
しばらくすると、彼が静かに口を開いた。
「置いてかれたんじゃなくて、ちょっと立ち止まっただけですよ」
「……立ち止まった?」
彼の言葉の意図がわからず、友里はふっと顔を上げた。
「うん。誰だってあります。僕も、しょっちゅう」
視線を合わせた彼は、困ったような、それでも少し苦しそうな笑みを浮かべながら頬を掻いていた。
「デザインの仕事してるんですけど、定期的に『俺何やってんだろう』ってなるんです。トレンドの賞味期限は短すぎるし、どんなに最高だと思ったデザインでもクライアントの好みでNG喰らったり。毎日フォントと余白の戦いで、これで人生終わんのかって思うと、三年に一度くらい死ぬほど落ちてしまう。今も、正直その真っ最中」
「そんなになります?」
「なりますよ。三十路過ぎた男が何言ってんだって感じですけど、実家に帰ろうかと思ったこともあります」
小さく肩を竦めた彼が、ゆっくりとコーヒーを口に含んでいく。
「でも、立ち止まるのって悪いことじゃない。休憩してるだけですから。走り続けたからこそ、立ち止まる場所が必要になる。立ち止まることは後退じゃなくて、次の一歩のためのエネルギーチャージみたいな感じ」
休憩——その言葉が、友里の胸の奥にじんわり染みた。
ずっと立ち止まって、うずくまっているような気がしていた。陽斗に置いて行かれ、仕事でも成長してるのか分からず、同期はどんどん結婚したり昇進したりするのに、自分だけ取り残されているような、そんな焦りが友里の中で靄ついていた。
「終電って、ある意味、立ち止まる人専用の乗り物だと僕は思ってて。心身共に疲れ果てて、誰にも見られたくない。それでも明日にはまた歩き出す。終電っていうのは、そういう人たちが一時的に身を寄せる場所。言わば——夜だけの避難所、みたいな」
ひどく抽象的で曖昧な表現だ。けれど、今の友里にとっては小さな光のような、心の靄をゆっくりと霧散させてくれるような、そんなあたたかな言葉だった。
ふっと——肩の力が抜けたような気がして、友里は小さく笑った。涙の跡が残る頬がわずかに緩む。
「終電に、そんな役割あったんだ」
「あったはずですよ。少なくとも、今日の僕はそう思って乗ってました」
彼はそう言って、また優しく微笑んだ。
友里はカップの縁を指でなぞりながら、小さく息を吐いた。コーヒーの湯気がふわりと上がって、少しだけ目元を温めていく。
「なんか……変、ですね。誰かにこんなこと話すつもりじゃなかったのに」
誰にも零すつもりはなかった。失恋なんて、誰にでもあることだから。
友里が自嘲混じりの笑みを浮かべると、彼は緩やかに目尻を下げた。
「大抵、話そうと思った相手には話せなくて、話すつもりのなかった相手には話しちゃうものですよ。特に終電帰りなんて」
「……そんなもの、ですかね」
「そんなものです」
彼は軽く頷いたあと、カップを静かに受け皿へ戻した。その仕草が妙に丁寧で、ひどく落ち着いていた。
「ちょっとだけ……救われました」
ぽつりと言葉を漏らすと、彼は驚いたように目を瞬かせ、それからふっと柔らかく笑った。誰かを励ます余裕なんて本当はない人が、それでも自分の手元にある小さな光をほんの少しだけ分けてくれたような——そんな微笑みだった。
「あなたも……少し、救われました?」
無意識のうちに口にしていた質問に、彼は一瞬だけ言葉を探すように視線を落とした。
「はい。ちょっとだけ」
小さく頷きながら緩やかに返された「ちょっとだけ」の一言に、妙なリアルさがあった。彼の穏やかな微笑みは、見ているだけで胸の奥に張りついていた薄い氷を少し融かしてくれるような気がした。
「そろそろ……」
友里がそう言うと、彼は「ですね」と同じように静かに返した。
席を立ってコートを羽織りながら、友里は胸の奥にほんの少しだけ温かなものが灯っているのを感じた。消えそうなほどに弱いけれど、確かに自分の中にある光だった。
店を出て外気に触れた瞬間、友里はほんの少しだけ背筋を伸ばした。首元を撫でる風は冷たいはずなのに、さっきより痛くない。
駅前のロータリーで、二人は立ち止まった。
「……今日は、ありがとうございました。本当に」
友里はぺこりと頭を下げた。ハンカチと、この場所を与えてくれたこと。何より、無理に慰めることなくただ話を聞いてくれたこと。
「こちらこそ。コーヒー、ごちそうさまでした。お互い……今日は休憩ってことで」
少しの沈黙ののちに、ふわりとした優しい風が二人の間を通り抜けていった。
「お名前……聞いても?」
自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。この夜の終わりに、次の始まりを求めている自分がいた。
まだ胸の痛みは消えない。陽斗と過ごした日々が、急に消え去るわけではない。でも、その痛みの隣に、小さな灯りがともったような気がしていた。
彼は驚いたように目を瞠ったのち、この夜一番の柔らかな笑顔を見せた。スーツの胸ポケットに手を入れ、そこから名刺を一枚差し出してくる。
「別に連絡しなくてもいいし、してもいいです。ただ……もうちょっと元気になったら、またコーヒー一杯くらいなら付き合ってください」
「……はい。たぶん、そのうち」
「うん。『そのうち』が一番いいですよ。……おやすみなさい」
彼は軽やかにそう言うと、小さく頭を下げてタクシー乗り場へと歩きだした。その背中は、どこか疲れていて、でも確かに前へ進んでいるような気がした。
友里は彼の後ろ姿を見つめながら、深く息を吸った。冷たい空気が胸の奥まで届く。
——一歩……だけなら。歩き出せそうな気がする。
なんだか今日の夜は、少しだけ特別なものになった気がした。

