秘めやかなる初恋 〜姉の許嫁に捧ぐ淡雪〜

第2章:姉の許嫁

朝食の後、志穂は楽しげに今日の予定を話していた。悠真と都心でランチをとり、午後からは新しい美術館を訪れるらしい。その言葉を聞くたび、雪菜の胸は淡い痛みで締め付けられる。無理に作った笑顔で「楽しんできてね、お姉様」と言うのが精一杯だった。

「あら、もうこんな時間。悠真さん、もうすぐ着く頃だわ」
志穂が時計を見て、身支度を急ぐ。その背中に、雪菜はそっと目を向けた。鮮やかなローズピンクのワンピースが、志穂の華やかな雰囲気に良く似合っている。太陽のような姉と、月のように控えめな自分。二人は姉妹でありながら、まるで光と影のようだった。
数分後、玄関のベルが鳴り、使用人が悠真を招き入れた。

「悠真さん!」
志穂の明るい声が、ホールに響く。雪菜は、リビングの入り口の影から、そっとその姿を見守った。
一条悠真。
端正な顔立ちに、品格のある佇まい。仕立ての良いダークスーツを完璧に着こなし、その姿はまるで雑誌から抜け出してきたかのようだ。彼の瞳は知的で、冷静さを湛えているが、志穂を見つめる時には、確かに穏やかな光を宿しているように見えた。
「志穂、待たせたね」

「いいえ、ちょうど今、準備ができたところよ」
二人の間に流れる空気は、穏やかで満ち足りていた。お互いを深く信頼し、愛し合っていることが、その表情や仕草から伝わってくる。雪菜は、その光景を見るたびに、胸の奥がきりきりと締め付けられるのを感じた。
「雪菜も、おはよう」

不意に、悠真の視線が雪菜を捉えた。雪菜は、隠れていたことを恥じながら、慌てて姿を現す。
「おはようございます、悠真さん」
いつも通りの、抑揚のない声。心臓が早鐘を打っていることを、悟られないように。
悠真は雪菜に向かって、少しだけ柔らかな笑みを浮かべた。

「今日は出かけないのかい?」
「ええ、私は…家で読書でもしようかと」
「そうか。あまり部屋に籠りすぎないようにね」
その言葉は、あくまで「姉の妹」に対する、気遣いと優しさ。雪菜はそう理解していた。だからこそ、その優しさが、胸の奥深くに沁みて、じんわりと痛むのだ。もし、この優しさが、自分だけに向けられたものだったら。そんな禁断の思考が、頭の片隅をよぎる。

「じゃあ、行ってくるわね、雪菜。お土産、何か買ってきてあげようか?」
「大丈夫よ、お姉様。楽しんできて」
志穂と悠真は、並んで玄関を出て行った。車が静かに走り去る音だけが、広すぎるホールに響く。
一人残された雪菜は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

幼い頃から、悠真は片桐家にとって身近な存在だった。姉の志穂とは、幼馴染であり、政略結婚の意味合いも含めて、早くから許嫁として将来を約束されていた。雪菜が物心ついた時には、すでに二人は夫婦同然の関係性で、それは片桐家の中でも、一条家の中でも、揺るぎない既成事実として存在していた。
悠真は、いつも優しかった。

雪菜が幼い頃、志穂と悠真が遊んでいる輪に、一人混ざれずにいると、いつも悠真が雪菜の手を引いてくれた。絵本を読んでくれたり、庭で花を見つけて教えてくれたり。雪菜にとって、悠真は、理想の兄であり、憧れの王子様だった。
いつからだろう。その憧れが、淡い恋心へと変わっていったのは。

いつからだろう。彼の笑顔を見るたびに、胸の奥が締め付けられるようになったのは。
姉の許嫁。
どれだけ願っても、どれだけ想っても、決して届くことのない人。
その事実が、雪菜の心を、淡い色の檻の中に閉じ込めていた。

雪菜は、窓の外に広がる庭園の、満開の桜並木を見つめた。
薄紅色の花びらが、風に舞い、はらはらと散っていく。
まるで、彼女の秘めたる想いのように、儚く、そして切なく。
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