声にならない、さよならを

プロローグ ――「再会しないでほしかったのに、会いたかった人。」

雨が降り始めたのは、仕事帰りのバス停に着いた瞬間だった。
細かい雨粒が街灯に照らされ、糸みたいに落ちていく。
折りたたみ傘を出す気にもなれなくて、私はただぼんやりと空を見上げた。
湿った風に乗って、どこか懐かしい匂いがした。
夏の終わりの、あの時の匂い。
胸の奥が、何年ぶりかにじくりと痛む。
こんな感覚、もうとっくに忘れたと思っていたのに。
私は左手の薬指に視線を落とす。
光沢を抑えた細い指輪。
温かくて、優しい人と一緒に選んだ、大切な証。
なのに、
“違う誰か”の名前が、ゆっくりと、じわりと心の奥に浮かび上がる。
――会いたい。
――でも、会いたくない。
そんな矛盾が、胸の中でずっとくすぶっていた。
ふと、
バス停の向こう側に、人影がひとつ。
傘も差さず、街灯の下で立ち止まっている。
背の高さ、姿勢、首の傾け方。
全部、忘れたはずなのに、忘れられなかった形。
心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
まさか。
こんな偶然、あるはずがない。
そう思うのに、目が離せなかった。
その人影がゆっくりとこちらを向く。
街灯の光が、彼の横顔を薄く照らす。
息が止まった。
間違いようがなかった。
私が初めて“恋”というものを知って、
そして初めて“失う痛み”を覚えた相手。
あの夏に離れたきり、
一度も会わなかった人。
…いや、会わないようにしていた人。
彼は少しだけ驚いたように目を細め、
でもすぐに、懐かしさを隠すように微笑んだ。
「……久しぶりだね」
その声を聞いた瞬間、
時間が、恐ろしいほど静かに巻き戻った。
高校の渡り廊下も、夜のバス停も、
笑った顔も、泣きそうな横顔も、
全部一気に胸に流れ込んでくる。
こんな再会なんて、望んでなかったはずなのに。
彼の左手にも、指輪が光っていた。
胸の奥が、ずしん、と沈む。
それでも――
それでも、どうしてか呼吸が楽になる。
「……うん。久しぶり」
やっとの思いで返すと、彼はふっと目を伏せた。
その表情が、何年経っても変わらなくて、
ほんの少しだけ優しすぎて、
涙が出そうになる。
あの頃みたいに、
二人の間に言葉はいらなかった。
ただ、雨の音だけが静かに降り続ける。
ほんの一瞬、
指輪の冷たさよりも、
心の奥に残った彼の温度のほうが強くなる。
――再会なんて、しないほうがよかった。
――それでも、会えてよかった。
相反する気持ちが胸の中で交差し、
私はただ雨に濡れながら立ち尽くす。
過去でもなく、未来でもなく、
今だけが、二人をそっと繋ぎとめていた。
そんな、
“終わった恋”の始まりみたいな夜だった。
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