隣の彼はステイができない
隣の彼はリトリバー
 外回りから戻り営業課があるフロアに足を踏み入れて、加藤一華(かとういちか)は眉を寄せた。
 自席付近に人が集まっている。
 一瞬、自分の仕事になにか不手際でもあったのだろうかと不安になるが、すぐにそうではないと気がついた。彼らは一華の席ではなく、隣の席の男性社員を囲んでいる。
「ねえ、新しくできた定食屋にしよ? あそこヘルシーで美味しいって口コミ見た」
「えーできたばかりだし混んでるでしょ。いつものラーメン屋にしようぜ」
 時刻は午後七時、どうやら彼らはすでに業務を終えていて、この後夜の街に繰り出すようだ。今日は金曜日だから一週間のプチ打ち上げといったところだろうか。
 ここ、キュリルテクノロジー株式会社は、法律事務所向けの業務支援ソフトウェアの開発販売を行っている会社である。
 設立十年目と社歴は浅く若い社員が大半を占める。ただ急成長中にもかかわらず社員のワークライフバランスが整っていて離職率が低い。職場の雰囲気がよく、終業後に誘い合って食事に行くというのは、頻繁に目にする光景だ。
「もー先週はがっつり系だったじゃん。今日は女子に合わせてよ」
「でもさー。大は小を兼ねるじゃん?」
「いやいや、メニューの話だから」
「てかあそこのラーメンがっつり系か?」
「どう考えてもがっつりでしょ。背脂多め!」
「まあまあ。ならまずその定食屋覗いてみて、並んでたらいつものとこでいいじゃない?」
 白熱する議論に、彼らの中心にいる男性社員がやんわりとした声で割って入った。
「確かにあのラーメン屋は量が多くてうまいけど、脂っこいから太るし、回数抑えたいところだよね」
 彼、加藤歩(かとうあゆむ)は一華の同期社員である。
「でしょでしょ、やっぱ歩はわかってくれるわ」
「おい、歩。自分だけ好感度上げようとしてるだろ」
「あ、バレた? じゃなくて。石橋(いしばし)ちゃんはいいかもしんないけど、俺は油断したらすぐに体型崩れるし、これでも気にしてるんですよ」
 歩が石橋の脇腹を肘でつつくと、石橋がふははと笑い出した。
「おいやめろって。てか俺もべつに大丈夫じゃないし。普通にヤバい」
「だろ? だから回数減らそ。でも並ぶのはちょっとね。金曜の夜、俺ら社畜にそんな体力は残ってない」
 ニコッと笑って歩が言うと、女子チームが納得する。
「確かに、並ぶのはうちらもちょっとしんどいかな。歩の意見に一票」
「じゃあ、そうすっか」
 石橋はじめ男子チームも賛成して、あっさり意見はまとまった。
 ドアに手をかけたまま、なりゆきを見守っていた一華は、さすがだなと感心する。
 さすがは、キュレルの人間磁石と呼ばれているだけのことはある。
 加藤歩は、百八十五センチの長身と、ビジネスマンらしからぬ筋肉質な身体つきの二十六歳。学生時代はバスケットボール選手で、今も社会人サークルに所属しているという。
 背が高くがたいがいいのにちっとも威圧的なものを感じないのは、いつもなにかを面白がっているような大きな目と、ふわりとパーマがかった柔らかそうな髪のせいだろうか。
 加えて人懐っこいフランクな話し方は、社内の人間だけでなくクライアントからも評判がよく、営業成績は常にトップだった。
 同じ部署に加藤姓がふたりいるややこしさから、皆あたりまえに彼を下の名前で呼んでいる。一華なら考えられないが不思議と彼なら自然に聞こえてしまう。彼のキャラクターがそうさせるのだろう。
『加藤さんは敬意を込めて"さん"付けなのに、なんで俺が呼び捨てなのよ。絶対に舐めてるでしょ』
 本人は冗談ぽくぼやいているが、そうではないと一華は思う。単純に好かれているだけなのだ。
『歩って、存在がゴールデンリトリバーなんだよね』と言っていたのは誰だったか。
 言い得て妙だと一華は思う。確かに身体が大きく常にオープンマインドで、誰にでもフレンドリーなところは、リトリバーを彷彿とさせる。
 無事に夕食の店が決まり、歩を含む社員たちはゾロゾロと一華がいるところへやってくる。
「あ、加藤さん。おかえりなさい」
「戻りました。おつかれさまです」
「お先です」
「お疲れさまです」
 挨拶をしながら脇へ避けて、一華が彼らが通り過ぎるのを待っていると、歩が足を止めた。
「加藤さん、おかえり。まだ仕事する? 終わらないなら、なにかもらおうか?」
 営業社員はそれぞれにクライアントを持っていて、各々、独立したスケジュールで動いている。
 一華の仕事を彼が手伝う義務はないが、先に帰る際は必ずこうやって声をかけてくれる。自身の業務から解放され、夜の街に繰り出そうという時も、同僚としての配慮を忘れない。
 さすが、いつも人の輪の中心にいるだけのことはある……と感心していた一華は、そんな場合ではないとハッとする。彼につられて足を止めた他の社員が微妙な表情になっている。
 一華が歩の社交辞令を真に受けて、歩になにかを頼んでしまい、彼が夕食のメンバーからはずれてたら面白くないと思っているのだろう。慌てて口を開く。
「いえ、結構です。私も見積もりを一社分やったらお終いなので」
 すると歩の隣の夏木という女性社員が、不快そうに眉を寄せた。
 その彼女の反応に、一華はドキッとする。
 自分のことは気にしないで、帰ってほしいということをいち早く伝えようとした結果、少々素っ気ない言い方になってしまった。
 感じが悪いと思われたかも……。
「そう? ならいいけど」
 歩の方はとくに気にする様子もなく納得する。
 その彼の後ろから、別の社員が遠慮がちに口を開いた。
「あの……見積書……ですか?」
 彼女、河西彩香(かわにしあやか)は一華とペアを組んでいるアシスタント社員だ。
 営業とアシスタント、ペア内の業務の割り振りに明確な区分はなく、営業がアシスタントに指示する形で決まる。
 とはいえ見積書の作成はアシスタントに任せることも多いから、今から一華がやるならば、自分も残った方がいいのでは?と思ったのだろう。
 真面目な彼女がそう思うのは当然だ。
 ただ見積書の作成はつい一週間ほど前に異動してきたばかりの彼女には、まだまだ時間がかかる内容だ。新しい業務に慣れるチャンスではあるけれど、残業してまですることでもない。またの機会で十分だ。
 さらに言えば一華としては、彼女にはぜひ歩たちとの食事会に参加してほしかった。
「大丈夫です。私がやりますから、河西さんは帰ってください」
「……わかりました。お先に失礼します」
 河西が小さな声で答えると、夏木の表情がさらに険しくなる。
 またもや胸がドキッとした。
 またよくない方向に解釈されてしまったような……。
 早くフォローしなくてはと、次の言葉を探していると、明るい声が割って入る。
「ま、加藤さんなら、見積書ひとつくらい余裕だよな。自分のことは気にせずに行っていいよってことだよね」
 歩からの助け舟に、一華がこくこくと頷くと、河西がホッと肩の力を抜いた。
「河西さんはラッキーだよね、ペアの営業が優秀でさ。俺なら押し付けて帰っちゃうなー」
「ちょっとー」
 彼のペアである夏木が口を尖らせて突っ込むと、河西がふふっと笑う。場の空気が柔らかくなり、一華もホッと息を吐いた。
 さりげなくその場を去ろうとするが、再び歩に呼び止められた。
「そういえば、加藤さん。来週金曜、みんなでタイ料理の店に行こうってなってるんだけど、参加できそう?」
 歩からの問いかけは、部署ごとに不定期に開催される参加自由の飲み会の話だ。彼はよく幹事をしていて、一度も参加したことのない一華のことも毎回律儀に誘ってくれる。
「すみません、欠席で」
 いつものごとく断ると、また夏木の表情が険しくなった。
 せっかく誘ってるのに、と思われているのだろう。
「残念、じゃあまた次の機会に」
 歩はとくに気にするふうでもなくそう言って、話を切り上げた。
「じゃ、お疲れさま」
「お疲れさまっす」
 口々に言って、彼らは部屋を出ていった。
「ねえ、誘っても意味ないって。そろそろ諦めたら?」
「いやいや、全員に声をかけないと」
 ドアが完全に閉まる間際、不満そうな夏木とそれに答える歩の声が聞こえた。
 見回す時と、フロアに残っているのは各部門のグループリーダーのみだった。
 自席に座り、一華はふうっと息を吐いた。
 ——またやっちゃった。
 せっかくの楽しい雰囲気に、水を差してしまったかもしれないと思うと、申し訳ない気持ちになった。
 反省しながら窓の方に目をやると、日が落ちたあとの暗い窓ガラスにストレートの髪をひとつにまとめた無表情の女が映っている。
 卵型の輪郭に、大きくてややつりぎみ目、すっと通った鼻。一般的には整った容姿の部類に入るのだろう。昔から『お人形さんみたいだね』とよく言われた。それは褒め言葉だと受け止めているけれど、残念ながら自分にとって有利に働くことは少なかった。
 黙っていると周囲に冷淡な印象を与えるようで『怒ってる?』と聞かれることがたびたびあった。もちろん家族や親しくしている友人は、そうではないとわかってくれている。けれど、一定の距離がある関係、……例えば会社の人間関係などでは支障をきたす。
 努力した結果としての学歴や、営業成績二位というオプションが、その印象に拍車をかけるようで、ごく普通に受け答えをしているつもりでも"お高く留まっている"あるいは"自分が優秀だから他の人をバカにしてる"と思われているようだ。
 女子トイレでひそひそと言われているのを耳にしたことが何度かある。
 もちろん、そんなつもりは微塵もない。そもそも自分は優秀などではなくどちらかというと要領が悪い方だと自覚している。さっきだって気の利いた言葉ひとつ出てこないのだから。
 そんな自分が会社という場所で一定の結果を出すためには、他の人より業務に集中していなくてはならず他の社員のように雑談している余裕がない。それがさらによくない印象につながるのだとわかっているけれどあまりうまくいかなかった。
 会社は友だち作りの場ではないし、雑談できなくても仕事はできる。
 だからある程度は諦めている部分もある。人付き合いがうまくない分、成果で貢献します、という気持ちだ。
 ——とはいえ、さっきのはよくなかったよね。
 河西に対する言い方だ。一瞬でも彼女に嫌な思いをさせてしまったことを、心の底から反省した。
 異動してきたばかりの彼女にとって、新しい部署の社員とのコミュニケーションはとても大事。だからこそ一華のことは気にせずにプチ打ち上げに行ってほしかった。そしてそれをいち早く伝えたくて慌てて返事をした結果、嫌な感じになってしまった。
 きつい言い方をしたつもりはないが、今日一日のハードな外回りの疲れが出て無表情だったような気がするし、平坦な抑揚と事実のみの告知はかえって怖く感じたかも……。
 と、今になって思う。
 いつもこうだ。あの時こう言えばよかったのかも、というのはその時はうまく口にできず、後になって気がつく。
 歩が入ってくれて本当によかった。今頃定食屋かラーメン屋で、愚痴でも言ってスッキリしてるといいけど……。
 ——月曜日にチャンスを見つけて謝った方がいいのかな?
 パソコンを立ち上げながら、一華はウジウジと考える。
 気持ちとしては謝りたいけど、わざわざ蒸し返すのもどうなんだろう? 
 実は見積書をやってほしかったのかもと深読みされてしまうかも。
 考えれば考えるほどわからなくなる……。
 月曜日の彼女の様子を見てから考えよう。
 とりあえずそう結論を出して気持ちを切り替える。そして見積書の作成に取り掛かった。
 十五分ほどで作業は終わりパソコンをシャットダウンさせると、フロアに残っているのはもう一華だけだった。
 セキュリティをオフにして、会社が入っているビルの正面玄関を出ると、目の前にライトアップされた満開の桜並木が広がった。
 会社のビルは観光スポットでもある大通り公園に面している。昼間はポカポカしていたけれど、さすがに夜になるとまだ肌寒かった。どことなく春の香りがする風が一華の頬を撫でて吹き抜けてゆく。
 星の少ない都会の夜空はいつもは素っ気なく感じるけれど、今夜は白い雲のような花のおかげで華やかだ。
 河西との一件で、下降気味だった気分が少し持ち直すのを感じた。なにはともあれ、今週も一週間よく働いた。
 ささやかな充実感と解放感に、さっき飲みにいった彼らと同様自分にもなにかご褒美をあげたくなる。
 大通り公園に視線を移すと、わいわいと陽気に騒ぐ人たちでいっぱいだった。日が落ちても昼間のように賑わっているのは、目下スプリングフェスタが開催中だからだ。
 ご当地メニューやスイーツのワゴン車が並び、フードコートも設置されている。即席ステージでのジャズバンドによるライブも開催されているのだろう。生演奏と歓声が風に乗って聞こえてくる。
 一華は口もとに笑みを浮かべ大通り公園に向かって弾む足取りで歩き出した。
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