隣の彼はステイができない
「今日こそ煮込みハンバーグ食うぞ〜! この前のリベンジリベンジ。一華ちゃんはどうする?」
向かいの席で布巾で手を拭きながら尋ねる歩に、一華は少し緊張しながら頷いた。
「私もそうします」
時刻は午後七時半。例の深夜喫茶である。歩の方もとくにトラブルなく仕事を終えて集合した。
「いや〜あれから食べたくてしょうがなかったんだよね。よかったよかった」
「私もです」
どこかギクシャクとしてしまう一華とは対照的に彼は完全にリラックスモードで、手を上げてマスターにオーダーを通した。
「今週も疲れたね。一華ちゃん今月も順調そうじゃん。新規契約二件だって、リーダーが喜んでたよ」
「歩くんほどでは……先週、駅前に新しくできた事務所の新規契約できたじゃないですか」
「あれはただのラッキーだよ。あそこの先生たまたま同じサークルの人と知り合いでさ。チームは違うけど、バスケ好きなんだって。で、一緒に試合見に行ったりしてて、そっからの繋がりだから」
こともな気に彼は言うが、同じ仕事をしている一華はそうは思わない。
キュレルのシステムの価格は決して安くない。使いやすさや盤石なセキュリティー、手厚いサポートが売りなのだが、どうしても新規開業の場合は価格に目がいきがちで、導入に至らないことが多い。親しくなったというだけで、契約成立できるものではない。
「人脈も歩くんの実力だと思いますし、説明が丁寧だったんだと思います。私が同じ立場にいても契約は無理だったんじゃないかなと思います」
思ったことを口にすると、歩が「お」という表情になる。そして「なんか新鮮。嬉しいなあ」と笑った。
「え?」
「や、なんかさ。他のやつらにこういうことを言ったら、ラッキーボーイめとか、ずるーいとかって反応が返ってくるからさ。直球で褒められるって慣れないから。自分で茶化したくせにって感じだけど、わかってもらえるのは嬉しいな」
『他のやつら』とは、いつも一緒にご飯を食べにいくメンバーだろう。
「一華ちゃんのそういう誠実なところいいよね。クライアントに信頼される長所だってリーダーも言ってたし、俺もそう思う」
褒め言葉に褒め言葉が返ってきて面食らう。
一華だってこんなふうに面と向かって褒められるのは慣れていない。
「私は面白いことはあまり言えませんので、せめて丁寧な説明を心がけているだけです」
「だけどそれがいいんじゃない? 弁護士の先生って言葉のプロだから、いい加減な話は嫌いだろうし。俺も誠実を心がけてはいるけど軽く聞こえるみたいだから見習わないと」
そこへ煮込みハンバーグが運ばれてきた。
「わ、美味しそう」
大きな器の中に熱々の具沢山のシチューの中に大きなハンバーグがドカンとある。
「でしょ? 食べよ食べよ」
ふたり、いただきますをして食べはじめる。
「あ、美味しい」
「でしょでしょ」
「結構おっきいなって思ったけど、これならいくらでもいけちゃいそう」
「俺、二個いった時あるよ」
「え、すごい」
「試合後だったりしたら余裕。ちなみにこんなにハンバーグが美味しい店を一華ちゃんに紹介した俺は、徳積みポイント1ポイントゲットでいいでしょうか?」
真面目くさって言う彼に、一華はうーんと考える。微妙に違う気がするけれど。
「……いいと思います」
ハンバーグの美味しさに甘い判定になってしまいそう答える。
彼は「おっし!」と言って笑った。
「今日は午前中に部長に頼まれて電球変えたんだけどそれは?背が高いやつがやれってうるさくてさ」
「それは、徳積みポイントには入りません」
「判定厳し」
ガクッと肩を落とす彼に、一華はなんだか不思議な気分になっていた。
誰かといる時の気まずさと居心地の悪さが薄らいでいるのを感じたからだ。
それどころか、歩との会話を楽しんでいる自分がいる。
さすがに慣れたのだろうか。あるいは念願の煮込みハンバーグのおかげか。
美味しいものを食べるのは、おひとりさま女子の一華にとって、大きな楽しみのひとつ。いつもならこれがひとりだったらよかったのに、と思うはず。今だって思わなくもないけれど、歩とあれこれ言いながら食べるのも悪くないと思っている。
あ、また、と一華は思う。
この前も感じたこの感じ……なんだっけ?
にんじんをスプーンで掬い上げるながら考えていた一華は、同じようにスプーンを持ちニコッと笑う歩の目に、ふわっとあたたかいなにかに包まれたような気持ちになる。
なんだろう? この気持ち、と考えていると、先に食べ終えた歩が少し声を落とした。
「これから聞くことに嫌な意味はないから、言いたくなければ無理には答えなくていいんだけどさ」
「はい」
「一華ちゃんが、飲み会に来ないのはどうしてなのかなーって思って」
「え?」
飲み会の件を彼が気にしていてもおかしくはない。けれどこのタイミングで聞かれるとは思っていなかったから、どう答えるか迷ってしまう。
「や、言いにくいなら言わなくていいよ。そもそも参加は自由だから、参加しないのを不満に思ってるとかそういうわけじゃない。絶対にそうじゃないんだけど、どうしてかなーって気になって」
一華に嫌な思いをさせないように気を使いながら言葉を選んでくれている。それに安堵しつつ、この際だからと一華は飲み会についての本音を言うことにした。
「毎回断ってしまってすみません」
「謝ることじゃないよ。メンバー固定されつつあるし、入りにくい雰囲気あるよね。それは俺も気になってる」
「そうじゃなくて……皆さんがどうとかじゃないんです。ただ私……なんていうか、ひとりでいるのが好きなんです。だから仕事が終わったらできるだけひとりになりたくて」
歩が目を見張った。
「……ってやっぱり感じ悪いですよね」
「や、感じ悪いなんて思わないよ。でも…………それって本心で?」
問いかけられて頷くと、彼は瞬きをして沈黙する。本当に驚いているようだ。
「歩くん?」
「や、ごめん、えーっと、疑ってるわけじゃなくて、なんていうか俺、勝手に、入りたいけど入れないとかそんな感じなのかな、と思ってたんだよね。無理に誘うのもどうかな?と思ったんだけど、もし入りにくいようであればサポートっていうか入りやすいようにできればって思ったんだけど……それには及ばないってこと? 本心から?」
「はい。みなさんが飲みに行かれるのは単純に楽しそうだなと思います。でも私は参加したいとは思いません。ひとりの時間が好きなんです」
「……それは家で?」
「家もありますけど、普通に外食もします。あとレイトショーを観たり、この前は大通り公園でやってたスプリングフェスタにも行きました」
「へぇ……」
予想外だというような彼の反応にさすがに少し恥ずかしくなる。寂しいやつと思われるのには慣れているとはいえ、それはまったく見ず知らずの相手の話だ。知り合い、となれば話はべつだ。
「さ、寂しいやつって感じですよね」
思わず後ろ向きな言葉を口にすると歩が首を横に振った。
「そんなふうには思わないけど。寂しくないのかな?とは思うかな。一華ちゃん自身がね。……えーっとなんだろ、純粋な疑問? ひとりでお祭りに行って楽しいのかな?って……や、これもなんか嫌な言い方だね」
いつものどこか余裕たっぷりな感じとは打って変わって慌てているのは本当に意外だったからだろう。
これがもし他の人だったら、取り繕っているのだろうなと嫌なふうに感じたかもしれない。けれどこれまでの彼とのやり取りからそうではないと感じられた。
「ひとりでも楽しいですよ。好きなものを食べて、音楽聴きながら、夜の空をぼーっと見てるだけですけど」
「なるほど。でもさそういう時って周りは気にならない?」
「うーん、前はちょっと。でも今はそんなにです」
「話す相手がいなくてつまらなかったりは?」
呼吸をするように人と交流する歩らしい疑問だ。
一華はうーんと考えてから口を開いた。
「つまらなくはないです。逆に私にはそれが必要なんです。ひとりで、今日一日楽しかったなーとかそういう気持ちを噛み締めたり、あれはよくなかったなとか、反省したりします。自分の内面を見つめるっていうか。自分と会話してる感じです」
暗いやつだと思われているだろうかと思いながら、彼を見ると、ただただぽかんとしている。
「あと、ひとりだと自分の好みを知れたりしますよ。例えばスプリングフェスタではステージでジャズの生演奏してたんです。私、ジャズも好きかもって発見があったり」
「ああ確かに。それはあるかもね。人といると相手に注意がいくもんね」
「そうです。だから美術館とかもひとりで行きます。あと映画館も」
「映画館はひとりで行く人いるよね」
否定されずに聞いてもらえるのが嬉しくてついつい力説してしまう。
「とくになにを観るかを決めないで行くのもいいですよ。前知識なしでタイトルだけでなにを観るか決めたり」
「あ、それいいね、楽しそう」
歩が目を輝かせて笑顔になった。好意的な反応が嬉しかった。
「ひとりだと昼ごはんはホットドックで簡単に済ませて、連続で同じの観たりできますし。全部自分のさじ加減で決められるのが贅沢な時間です」
「なるほどー。新感覚。他にはどんなとこにいくの?」
「ブックカフェとかかなぁ。お庭の雰囲気がいいところがあって。とくに雨の日がしっとりして癒されるので、雨が降ったらよく行きます」
「わーいいね。確かに贅沢な時間の使い方かも」
歩がほうっと息を吐いた。
「じゃあ本当に飲み会に参加してなくて寂しいとかは思わないんだね。……よかった」
最後の呟きに一華は首を傾げる。
「よかった……?」
すると彼はしまったというように、目を泳がせる。どうやら心の声が思わず漏れてしまったようだ。目を閉じて一瞬考えてから申し訳なさそうにこちらを見た。
「本当に勝手な思い込みなんだけど俺ちょっと気になってたんだよね。一華ちゃんが飲みとか皆んなの集まりに来ないの……その、言葉は悪いけど寂しい感じなのかなーって気になってて」
「そうなんですか?」
意外な言葉だった。もちろん飲み会に行かない人認定はされていると思っていたが、まさか心配されているとは。
「なんかごめん、勝手に可哀想な人認定しちゃってた……」
しゅんとして歩が言う。
「そんな、むしろ心配かけてしまってすみません」
彼は職場のムードメーカーだから放っておけなかったのだろう。
「いやいや俺の勝手な取り越し苦労だから……」
そこで彼は言葉を切ってハッとする。そして重大なミスを犯したかのように愕然とした。
「てかもしかして、今この会自体も一華ちゃんにとっては、微妙だったりする? せっかくの金曜日の夜なんだから行きつけのBARでひとりでまったりしたかった……的な?」
俺やらかした⁉︎とでもいうように真っ青になる彼がおかしくて、一華は思わず噴き出した。
「BARは行かないですけど……!」
彼には申し訳ないけれど、さっきから驚いたりしゅんとしたり、気持ちがくるくる変わってしかもそれがそのまま口にも顔にも出ている。それがおかしかった。
そのままくすくす笑っていると、歩が瞠目する。
そしてなぜか斜め四十五度を向いて右手で口元を覆った。
「……やば」
「え? やばい?」
不可解な言葉に、一華は笑うのを止めて首を傾げる。
歩がもぞもぞと姿勢を正して咳払いをした。
「いや、えー……と、なんでもない。てか、本当に今さらなんだけど、一華ちゃんって彼氏とかいたりは……?」
「え?」
「いや……! なんていうか、もしいたらご飯誘ってよかったのかな?って……て、なんで今このタイミングで気になりだしたのか自分でも不明なんだけど」
気まずそうに尋ねる彼に一華は即座に否定する。
「大丈夫。いません。私、おひとりさま女子なので」
「そう、よかった」
「てかそういう歩くんは?」
こちらも今さらだ。どちらかというと人気者の彼の方が可能性は高い。一華の睡眠不足解消ボランティアをしてていいのだろうか?
「俺もいないよ。いたらサシでご飯はしないでしょ」
「ですよね」
「てか本当に今更だな」
「ですね」
目を合わせてふふっと笑い合うと、心の中のなにかがふわっと解けていく。あ、この感じ、とまた思う。歩の目と笑顔に、考えるより先に言葉が出た。
「……トモに似てるんだ」
歩と過ごす時間の中でふいに襲われる謎の既視感の正体だ。
彼の裏表のない感情表現と、口下手な一華でも安心していられる空気感は、トモといる時に似ている。
だからひとりでいるのがなにより好きな一華でも、今日は楽しく過ごせているのだ。
「似てるってもしかして俺?」
一方で歩は、不思議そうに瞬きをする。いきなりなにを言いだしたんだと思っているのだろう。
「えーっと……」
「髪が似てるんだよね」
「も、そうですけど、なんていうか存在が……?」
「え、そんなに?」
思わず口にしたけれど、犬に似ていて嬉しいはずがない。けれど言ってしまったものは誤魔化せない。
失礼にならないように言葉を選びながら説明する。
「えーっと。トモってすごく感情表現が豊かな子だったんです。嬉しいとか悲しいとか、全部の感情が全身から溢れてて、そういうとこが少し。あと、私変な反応してしまうことがありますけど、歩くんはそれを嫌なふうに取らないでくれるので、そういうところも、トモといる時みたいでちょっと安心というかなんというか……」
精一杯言葉を選んだけれど、結局言ってることは変わらない。気を悪くしたらどうしようと心配になるけれど彼は真逆の反応をした。
「まじで? それはめちゃくちゃ嬉しいなぁ」
ぱぁと花が咲くような笑顔だった。つられて一華の口から言葉が出る。
「私、ひとりが好きですけどトモとの時間はべつでした。トモには嬉しいことも嫌だったことも全部話してて……。ひとりでも寂しいって思わなかったのはその時間があったからかも……」
けれど途中で、喉の奥が熱くなって言葉が途切れる。
そうだった、と、今改めて思う。おひとりさまを孤独を感じずに楽しめていたのは、いつもそばに大切な存在がいたからだ。トモとの時間が一華の心を強くしていた。
だからトモを失ってから、ひとりを楽しめなくなったのだ。
ひとりの夜がつらくて、眠れなくなったのだ。
いなくなってはじめてその存在にどれだけ支えられていたのかを痛感する。
もうトモはどこにもいないのに。これからこの気持ちをどうしたらいいんだろう?
唇を噛み込み上げるものを堪えようとするけれど、あっという間に視界がにじみ、涙が溢れた。
歩が驚いているのはわかっていても止められない。
慌てて涙を拭う。
「ご、ごめんなさ……」
「謝らなくていいよ」
歩の声に遮られ、驚き視線を上げると、彼は机を回り込んで一華の隣にやってきた。
「そういえば、今日の徳積みがまだだったね」
鼻を啜って彼を見ると、ふわふわの頭を一華に傾けてにっこりと笑っている。
こんなのやっぱりどうかしてると思うのに、トモに会いたい、もう一度だけでも触りたいという気持ちが抑えられず目を閉じて手を伸ばす。
指先に感じるふわりとした感触に、胸がぎゅーっと痛くなる。このどうしようもなく寂しくて苦しい気持ちをなんとかしたくて触ったのに、また涙が溢れてしまう。
たまらずに一華は、両手で顔を覆って泣き出した。
こんなの、歩が困ってしまうと思うのに、肩が震えるのを止められない。
彼は何も言わずにただ寄り添ってくれている。それもどこかトモに似ていた。
「すみません」
ようやく少し落ち着いて鼻を啜りながらそう言うと、歩が「気にしないで」と首を横に振った。
「俺と一緒にいると、トモを思い出してつらい?」
その問いかけに一華は被りを振る。つらいというなら、ずっとつらい。仕事をしている時は忘れられる。けれど、ふとした時に頭に浮かぶ喪失感は言葉にできないつらさだ。
彼といるとトモを思い出すのはその通りだが、喪失感に懐かしい気持ちが混ざっている。寂しいだけではなくて元気だった頃のトモと一緒にいた時の安心感と楽しさも一緒に思い出せるのだ。
考えてみればトモを失ってから心から笑えたのもさっきがはじめてだった。
「懐かしい気持ちにもなるしそれから楽しかったことも思い出すので、つらいだけではないです」
「じゃあさ、やっぱりこうやってちょくちょく会おう。大切なトモの代わりになれるなんて思わないけど、少しでも楽しいことを思い出せるなら。トモの話し聞かせてよ」
さっきまでは、安眠のために頭を撫でるという提案は断ろうと思っていた。絶対変だし効果もあやしい。けれど今は、もしかしたら自分に必要なことかもしれないと思っている。
だってこのつらさをどうすればいいかわからないのは事実だ。
ペットロスを甘くみるのはよくない。中には心療内科に通う人もいて、亡くなったペットの話を語り合う会などもあるくらいなのだから。
けれどそれに彼を付き合わせるのは申し訳ない。
「そんな迷惑かけるわけにはいきません」
会社の付き合いしかない一華でも彼はあっちこっちから誘われているのを知ってる。その上サークル活動もしているのだから、一華が想像するよりももっと交友関係は広いのだろう。
それなのに一華ひとりのためにそうちょくちょく時間を割いてもらうわけにはいかない。
「全然迷惑なんかじゃないよ。俺も一華ちゃんといるの楽しいし」
そう言ってはくれるけれど。
「でも……。そんな頼るわけには……」
それでも躊躇してしまうのは、人に頼るのが苦手だから。完全なる自分都合で彼になにかをしてもらうのが申し訳ないと思ってしまう。
「ひとりが好きで、いつもしっかりしてる一華ちゃんはすごいって思うよ。でもさ、誰だってつらい時をひとりで乗り越えられない時もあるよ。そういう時はさ、誰かに頼っていいんだよ」
優しい目は、やっぱり大好きだった存在を思いだす。
包み込むようなあたたかい声が、胸にじんわりと染みていく。
いつもの自分なら絶対に頷かない。けれど、ほかにこのつらい現状を変えるなにかは思いつかない。真っ暗な中で泣いている自分に差し出された大きな手。今の自分にはその手を取るしかないように思えた。
藁にもすがるような気持ちで一華はこくんと頷いた。
向かいの席で布巾で手を拭きながら尋ねる歩に、一華は少し緊張しながら頷いた。
「私もそうします」
時刻は午後七時半。例の深夜喫茶である。歩の方もとくにトラブルなく仕事を終えて集合した。
「いや〜あれから食べたくてしょうがなかったんだよね。よかったよかった」
「私もです」
どこかギクシャクとしてしまう一華とは対照的に彼は完全にリラックスモードで、手を上げてマスターにオーダーを通した。
「今週も疲れたね。一華ちゃん今月も順調そうじゃん。新規契約二件だって、リーダーが喜んでたよ」
「歩くんほどでは……先週、駅前に新しくできた事務所の新規契約できたじゃないですか」
「あれはただのラッキーだよ。あそこの先生たまたま同じサークルの人と知り合いでさ。チームは違うけど、バスケ好きなんだって。で、一緒に試合見に行ったりしてて、そっからの繋がりだから」
こともな気に彼は言うが、同じ仕事をしている一華はそうは思わない。
キュレルのシステムの価格は決して安くない。使いやすさや盤石なセキュリティー、手厚いサポートが売りなのだが、どうしても新規開業の場合は価格に目がいきがちで、導入に至らないことが多い。親しくなったというだけで、契約成立できるものではない。
「人脈も歩くんの実力だと思いますし、説明が丁寧だったんだと思います。私が同じ立場にいても契約は無理だったんじゃないかなと思います」
思ったことを口にすると、歩が「お」という表情になる。そして「なんか新鮮。嬉しいなあ」と笑った。
「え?」
「や、なんかさ。他のやつらにこういうことを言ったら、ラッキーボーイめとか、ずるーいとかって反応が返ってくるからさ。直球で褒められるって慣れないから。自分で茶化したくせにって感じだけど、わかってもらえるのは嬉しいな」
『他のやつら』とは、いつも一緒にご飯を食べにいくメンバーだろう。
「一華ちゃんのそういう誠実なところいいよね。クライアントに信頼される長所だってリーダーも言ってたし、俺もそう思う」
褒め言葉に褒め言葉が返ってきて面食らう。
一華だってこんなふうに面と向かって褒められるのは慣れていない。
「私は面白いことはあまり言えませんので、せめて丁寧な説明を心がけているだけです」
「だけどそれがいいんじゃない? 弁護士の先生って言葉のプロだから、いい加減な話は嫌いだろうし。俺も誠実を心がけてはいるけど軽く聞こえるみたいだから見習わないと」
そこへ煮込みハンバーグが運ばれてきた。
「わ、美味しそう」
大きな器の中に熱々の具沢山のシチューの中に大きなハンバーグがドカンとある。
「でしょ? 食べよ食べよ」
ふたり、いただきますをして食べはじめる。
「あ、美味しい」
「でしょでしょ」
「結構おっきいなって思ったけど、これならいくらでもいけちゃいそう」
「俺、二個いった時あるよ」
「え、すごい」
「試合後だったりしたら余裕。ちなみにこんなにハンバーグが美味しい店を一華ちゃんに紹介した俺は、徳積みポイント1ポイントゲットでいいでしょうか?」
真面目くさって言う彼に、一華はうーんと考える。微妙に違う気がするけれど。
「……いいと思います」
ハンバーグの美味しさに甘い判定になってしまいそう答える。
彼は「おっし!」と言って笑った。
「今日は午前中に部長に頼まれて電球変えたんだけどそれは?背が高いやつがやれってうるさくてさ」
「それは、徳積みポイントには入りません」
「判定厳し」
ガクッと肩を落とす彼に、一華はなんだか不思議な気分になっていた。
誰かといる時の気まずさと居心地の悪さが薄らいでいるのを感じたからだ。
それどころか、歩との会話を楽しんでいる自分がいる。
さすがに慣れたのだろうか。あるいは念願の煮込みハンバーグのおかげか。
美味しいものを食べるのは、おひとりさま女子の一華にとって、大きな楽しみのひとつ。いつもならこれがひとりだったらよかったのに、と思うはず。今だって思わなくもないけれど、歩とあれこれ言いながら食べるのも悪くないと思っている。
あ、また、と一華は思う。
この前も感じたこの感じ……なんだっけ?
にんじんをスプーンで掬い上げるながら考えていた一華は、同じようにスプーンを持ちニコッと笑う歩の目に、ふわっとあたたかいなにかに包まれたような気持ちになる。
なんだろう? この気持ち、と考えていると、先に食べ終えた歩が少し声を落とした。
「これから聞くことに嫌な意味はないから、言いたくなければ無理には答えなくていいんだけどさ」
「はい」
「一華ちゃんが、飲み会に来ないのはどうしてなのかなーって思って」
「え?」
飲み会の件を彼が気にしていてもおかしくはない。けれどこのタイミングで聞かれるとは思っていなかったから、どう答えるか迷ってしまう。
「や、言いにくいなら言わなくていいよ。そもそも参加は自由だから、参加しないのを不満に思ってるとかそういうわけじゃない。絶対にそうじゃないんだけど、どうしてかなーって気になって」
一華に嫌な思いをさせないように気を使いながら言葉を選んでくれている。それに安堵しつつ、この際だからと一華は飲み会についての本音を言うことにした。
「毎回断ってしまってすみません」
「謝ることじゃないよ。メンバー固定されつつあるし、入りにくい雰囲気あるよね。それは俺も気になってる」
「そうじゃなくて……皆さんがどうとかじゃないんです。ただ私……なんていうか、ひとりでいるのが好きなんです。だから仕事が終わったらできるだけひとりになりたくて」
歩が目を見張った。
「……ってやっぱり感じ悪いですよね」
「や、感じ悪いなんて思わないよ。でも…………それって本心で?」
問いかけられて頷くと、彼は瞬きをして沈黙する。本当に驚いているようだ。
「歩くん?」
「や、ごめん、えーっと、疑ってるわけじゃなくて、なんていうか俺、勝手に、入りたいけど入れないとかそんな感じなのかな、と思ってたんだよね。無理に誘うのもどうかな?と思ったんだけど、もし入りにくいようであればサポートっていうか入りやすいようにできればって思ったんだけど……それには及ばないってこと? 本心から?」
「はい。みなさんが飲みに行かれるのは単純に楽しそうだなと思います。でも私は参加したいとは思いません。ひとりの時間が好きなんです」
「……それは家で?」
「家もありますけど、普通に外食もします。あとレイトショーを観たり、この前は大通り公園でやってたスプリングフェスタにも行きました」
「へぇ……」
予想外だというような彼の反応にさすがに少し恥ずかしくなる。寂しいやつと思われるのには慣れているとはいえ、それはまったく見ず知らずの相手の話だ。知り合い、となれば話はべつだ。
「さ、寂しいやつって感じですよね」
思わず後ろ向きな言葉を口にすると歩が首を横に振った。
「そんなふうには思わないけど。寂しくないのかな?とは思うかな。一華ちゃん自身がね。……えーっとなんだろ、純粋な疑問? ひとりでお祭りに行って楽しいのかな?って……や、これもなんか嫌な言い方だね」
いつものどこか余裕たっぷりな感じとは打って変わって慌てているのは本当に意外だったからだろう。
これがもし他の人だったら、取り繕っているのだろうなと嫌なふうに感じたかもしれない。けれどこれまでの彼とのやり取りからそうではないと感じられた。
「ひとりでも楽しいですよ。好きなものを食べて、音楽聴きながら、夜の空をぼーっと見てるだけですけど」
「なるほど。でもさそういう時って周りは気にならない?」
「うーん、前はちょっと。でも今はそんなにです」
「話す相手がいなくてつまらなかったりは?」
呼吸をするように人と交流する歩らしい疑問だ。
一華はうーんと考えてから口を開いた。
「つまらなくはないです。逆に私にはそれが必要なんです。ひとりで、今日一日楽しかったなーとかそういう気持ちを噛み締めたり、あれはよくなかったなとか、反省したりします。自分の内面を見つめるっていうか。自分と会話してる感じです」
暗いやつだと思われているだろうかと思いながら、彼を見ると、ただただぽかんとしている。
「あと、ひとりだと自分の好みを知れたりしますよ。例えばスプリングフェスタではステージでジャズの生演奏してたんです。私、ジャズも好きかもって発見があったり」
「ああ確かに。それはあるかもね。人といると相手に注意がいくもんね」
「そうです。だから美術館とかもひとりで行きます。あと映画館も」
「映画館はひとりで行く人いるよね」
否定されずに聞いてもらえるのが嬉しくてついつい力説してしまう。
「とくになにを観るかを決めないで行くのもいいですよ。前知識なしでタイトルだけでなにを観るか決めたり」
「あ、それいいね、楽しそう」
歩が目を輝かせて笑顔になった。好意的な反応が嬉しかった。
「ひとりだと昼ごはんはホットドックで簡単に済ませて、連続で同じの観たりできますし。全部自分のさじ加減で決められるのが贅沢な時間です」
「なるほどー。新感覚。他にはどんなとこにいくの?」
「ブックカフェとかかなぁ。お庭の雰囲気がいいところがあって。とくに雨の日がしっとりして癒されるので、雨が降ったらよく行きます」
「わーいいね。確かに贅沢な時間の使い方かも」
歩がほうっと息を吐いた。
「じゃあ本当に飲み会に参加してなくて寂しいとかは思わないんだね。……よかった」
最後の呟きに一華は首を傾げる。
「よかった……?」
すると彼はしまったというように、目を泳がせる。どうやら心の声が思わず漏れてしまったようだ。目を閉じて一瞬考えてから申し訳なさそうにこちらを見た。
「本当に勝手な思い込みなんだけど俺ちょっと気になってたんだよね。一華ちゃんが飲みとか皆んなの集まりに来ないの……その、言葉は悪いけど寂しい感じなのかなーって気になってて」
「そうなんですか?」
意外な言葉だった。もちろん飲み会に行かない人認定はされていると思っていたが、まさか心配されているとは。
「なんかごめん、勝手に可哀想な人認定しちゃってた……」
しゅんとして歩が言う。
「そんな、むしろ心配かけてしまってすみません」
彼は職場のムードメーカーだから放っておけなかったのだろう。
「いやいや俺の勝手な取り越し苦労だから……」
そこで彼は言葉を切ってハッとする。そして重大なミスを犯したかのように愕然とした。
「てかもしかして、今この会自体も一華ちゃんにとっては、微妙だったりする? せっかくの金曜日の夜なんだから行きつけのBARでひとりでまったりしたかった……的な?」
俺やらかした⁉︎とでもいうように真っ青になる彼がおかしくて、一華は思わず噴き出した。
「BARは行かないですけど……!」
彼には申し訳ないけれど、さっきから驚いたりしゅんとしたり、気持ちがくるくる変わってしかもそれがそのまま口にも顔にも出ている。それがおかしかった。
そのままくすくす笑っていると、歩が瞠目する。
そしてなぜか斜め四十五度を向いて右手で口元を覆った。
「……やば」
「え? やばい?」
不可解な言葉に、一華は笑うのを止めて首を傾げる。
歩がもぞもぞと姿勢を正して咳払いをした。
「いや、えー……と、なんでもない。てか、本当に今さらなんだけど、一華ちゃんって彼氏とかいたりは……?」
「え?」
「いや……! なんていうか、もしいたらご飯誘ってよかったのかな?って……て、なんで今このタイミングで気になりだしたのか自分でも不明なんだけど」
気まずそうに尋ねる彼に一華は即座に否定する。
「大丈夫。いません。私、おひとりさま女子なので」
「そう、よかった」
「てかそういう歩くんは?」
こちらも今さらだ。どちらかというと人気者の彼の方が可能性は高い。一華の睡眠不足解消ボランティアをしてていいのだろうか?
「俺もいないよ。いたらサシでご飯はしないでしょ」
「ですよね」
「てか本当に今更だな」
「ですね」
目を合わせてふふっと笑い合うと、心の中のなにかがふわっと解けていく。あ、この感じ、とまた思う。歩の目と笑顔に、考えるより先に言葉が出た。
「……トモに似てるんだ」
歩と過ごす時間の中でふいに襲われる謎の既視感の正体だ。
彼の裏表のない感情表現と、口下手な一華でも安心していられる空気感は、トモといる時に似ている。
だからひとりでいるのがなにより好きな一華でも、今日は楽しく過ごせているのだ。
「似てるってもしかして俺?」
一方で歩は、不思議そうに瞬きをする。いきなりなにを言いだしたんだと思っているのだろう。
「えーっと……」
「髪が似てるんだよね」
「も、そうですけど、なんていうか存在が……?」
「え、そんなに?」
思わず口にしたけれど、犬に似ていて嬉しいはずがない。けれど言ってしまったものは誤魔化せない。
失礼にならないように言葉を選びながら説明する。
「えーっと。トモってすごく感情表現が豊かな子だったんです。嬉しいとか悲しいとか、全部の感情が全身から溢れてて、そういうとこが少し。あと、私変な反応してしまうことがありますけど、歩くんはそれを嫌なふうに取らないでくれるので、そういうところも、トモといる時みたいでちょっと安心というかなんというか……」
精一杯言葉を選んだけれど、結局言ってることは変わらない。気を悪くしたらどうしようと心配になるけれど彼は真逆の反応をした。
「まじで? それはめちゃくちゃ嬉しいなぁ」
ぱぁと花が咲くような笑顔だった。つられて一華の口から言葉が出る。
「私、ひとりが好きですけどトモとの時間はべつでした。トモには嬉しいことも嫌だったことも全部話してて……。ひとりでも寂しいって思わなかったのはその時間があったからかも……」
けれど途中で、喉の奥が熱くなって言葉が途切れる。
そうだった、と、今改めて思う。おひとりさまを孤独を感じずに楽しめていたのは、いつもそばに大切な存在がいたからだ。トモとの時間が一華の心を強くしていた。
だからトモを失ってから、ひとりを楽しめなくなったのだ。
ひとりの夜がつらくて、眠れなくなったのだ。
いなくなってはじめてその存在にどれだけ支えられていたのかを痛感する。
もうトモはどこにもいないのに。これからこの気持ちをどうしたらいいんだろう?
唇を噛み込み上げるものを堪えようとするけれど、あっという間に視界がにじみ、涙が溢れた。
歩が驚いているのはわかっていても止められない。
慌てて涙を拭う。
「ご、ごめんなさ……」
「謝らなくていいよ」
歩の声に遮られ、驚き視線を上げると、彼は机を回り込んで一華の隣にやってきた。
「そういえば、今日の徳積みがまだだったね」
鼻を啜って彼を見ると、ふわふわの頭を一華に傾けてにっこりと笑っている。
こんなのやっぱりどうかしてると思うのに、トモに会いたい、もう一度だけでも触りたいという気持ちが抑えられず目を閉じて手を伸ばす。
指先に感じるふわりとした感触に、胸がぎゅーっと痛くなる。このどうしようもなく寂しくて苦しい気持ちをなんとかしたくて触ったのに、また涙が溢れてしまう。
たまらずに一華は、両手で顔を覆って泣き出した。
こんなの、歩が困ってしまうと思うのに、肩が震えるのを止められない。
彼は何も言わずにただ寄り添ってくれている。それもどこかトモに似ていた。
「すみません」
ようやく少し落ち着いて鼻を啜りながらそう言うと、歩が「気にしないで」と首を横に振った。
「俺と一緒にいると、トモを思い出してつらい?」
その問いかけに一華は被りを振る。つらいというなら、ずっとつらい。仕事をしている時は忘れられる。けれど、ふとした時に頭に浮かぶ喪失感は言葉にできないつらさだ。
彼といるとトモを思い出すのはその通りだが、喪失感に懐かしい気持ちが混ざっている。寂しいだけではなくて元気だった頃のトモと一緒にいた時の安心感と楽しさも一緒に思い出せるのだ。
考えてみればトモを失ってから心から笑えたのもさっきがはじめてだった。
「懐かしい気持ちにもなるしそれから楽しかったことも思い出すので、つらいだけではないです」
「じゃあさ、やっぱりこうやってちょくちょく会おう。大切なトモの代わりになれるなんて思わないけど、少しでも楽しいことを思い出せるなら。トモの話し聞かせてよ」
さっきまでは、安眠のために頭を撫でるという提案は断ろうと思っていた。絶対変だし効果もあやしい。けれど今は、もしかしたら自分に必要なことかもしれないと思っている。
だってこのつらさをどうすればいいかわからないのは事実だ。
ペットロスを甘くみるのはよくない。中には心療内科に通う人もいて、亡くなったペットの話を語り合う会などもあるくらいなのだから。
けれどそれに彼を付き合わせるのは申し訳ない。
「そんな迷惑かけるわけにはいきません」
会社の付き合いしかない一華でも彼はあっちこっちから誘われているのを知ってる。その上サークル活動もしているのだから、一華が想像するよりももっと交友関係は広いのだろう。
それなのに一華ひとりのためにそうちょくちょく時間を割いてもらうわけにはいかない。
「全然迷惑なんかじゃないよ。俺も一華ちゃんといるの楽しいし」
そう言ってはくれるけれど。
「でも……。そんな頼るわけには……」
それでも躊躇してしまうのは、人に頼るのが苦手だから。完全なる自分都合で彼になにかをしてもらうのが申し訳ないと思ってしまう。
「ひとりが好きで、いつもしっかりしてる一華ちゃんはすごいって思うよ。でもさ、誰だってつらい時をひとりで乗り越えられない時もあるよ。そういう時はさ、誰かに頼っていいんだよ」
優しい目は、やっぱり大好きだった存在を思いだす。
包み込むようなあたたかい声が、胸にじんわりと染みていく。
いつもの自分なら絶対に頷かない。けれど、ほかにこのつらい現状を変えるなにかは思いつかない。真っ暗な中で泣いている自分に差し出された大きな手。今の自分にはその手を取るしかないように思えた。
藁にもすがるような気持ちで一華はこくんと頷いた。