勇者は魔王と結婚しました

19

 唇に何か柔らかいものが触れている気がする。今まで散々触れていた気のする感触。

 とてつもなく長くて、ほんの少し懐かしい気がする夢を見ていた。頭が痛いのに、どうしてかいつもよりずっと軽い。体中を包む倦怠感と、体が作り替えられてしまったかのような違和感。永遠の眠りから目覚めたような気がするのはどうしてだろうか。ぱちりと重たい瞼を開けると、ふさふさの睫毛が見える。一本一本数えられそうだ。ゆっくりと瞬いているうちに唇から柔らかい感触が離れ、名残惜しさを覚えた。

 顔を離したところで、ニグラスが目を覚ましたことに気づいたのだろう。ハッとしたような顔で、口を開いた。

「! ニグラス……!」
「……ぇ、めり……?」

 名前を呼ぶ声は随分と掠れている。視界に映る大好きな女の子は泣き腫らしたように目を真っ赤にしていて、涙を拭ってやりたいと思った。痺れるように痛む右手を伸ばすと、柔らかくてマメのある手に掴まれた。誘われるように頬に手のひらをあて、親指でそっと拭う。ずっと昔からこうしたかったのを、覚えている。

「おはよう、ニグラス。よく眠れた?」

 そう言って、くしゃくしゃの顔で泣きそうに笑う。胸がきゅうっと締め付けられて直視できないのに、ずっと見ていたくて目を離すことができない。相変わらず可愛い、とぼんやりする頭で思った。

 *

 昼下がり、魔王城の中庭にて。

 紅茶の風味を損なう量の牛乳をティーカップに注ぎ、双子は優雅に傾ける。「茶葉の無駄だ」と魔王がゲンナリした顔をしているが聞く耳を持たない。「むしろ節約でしょ」「ティーポット一杯で四杯はいけるよ」と優雅さのかけらもないことを宣っている。ちなみに、双子が節約を気にしたことは一度もない。

「今頃どうしてると思う?」
「ニグラスとエメリ様?」
「そうそう」
「確かに。何してるのかな」

 スコーンを摘みながら、ここにはいない二人に思いを馳せる。「マルコはどう思う?」「隣国まで送ってったのマルコでしょ」とサンドイッチに手を伸ばす魔王に尋ねた。以前は厨房から自分で取ってこいと無情にも言い放っていた二人だが、魔王になったからだろうか。サンドイッチの大半が食べられても咎めることはない。何個目になるかわからないキューカンバーサンドイッチを放り込みながら、「あ? 知らねえ」とだけ返した。

「はあ?」
「何その冷たい返事は」
「いや知らねえもんは知らねえ……っておい! なんで皿持ってくんだよ!」

 キューカンバーサンドイッチを食べ尽くすことは許せても、冷たい返事を返すことは許せなかったらしい。スリーティアーズごと遠ざけながら、「没収だよ没収」「この冷徹魔王が」と怒っている。そうではない魔王が続いたけど本来魔王は冷徹だろ、というツッコミは心のうちにしまい、「なんかあったら主が俺を呼ぶだろ。契約してんだから」と付け加えた。

「へえ……」
「ふうん……」

 双子はニヤニヤしながら、スリーティアーズを元の位置に戻す。微笑ましさを全面に押し出した生温い視線を向けられ、魔王は顔を顰めた。

「おいやめろ、その『何だかんだ言いつつ気にかけてんじゃん』みたいな視線」
「なんだかんだ言いつつ」
「気にかけてんじゃん」
「うるせーな! わざわざ二人で分けんじゃねえ!」

 ギャンっと叫ぶけれど、双子に効果はない。マルコが怒鳴ろうが火を吹こうが、サキュバスからすれば可愛いものだ。うざってえ、と顔に書いているマルコだが、決して席を立たないあたり確かに可愛い男である。元の位置に戻ってきたキューカンバーサンドイッチを平らげ、ティーポットから紅茶をドボドボと注ぐ。テーブルマナーなどという概念は魔族に存在しない。全て雰囲気で賄っている。

「ていうか仕事はどうしたの仕事は」
「そうよお。こんなところで油打ってていいの?」
「そっくりそのまま返す」
「うちらはエメリ様専属の侍女だったから」
「別に仕事も何もないから」

 相変わらずの減らず口である。双子のサキュバスは人間の男から精気をもらい、足りなければ牛乳を飲んで気ままに過ごす。そういう生き物である。魔王夫人の侍女、などという職に就いて大人しく働いていたのがイレギュラーだったのだ。

「お前ら、そんなんでよくあいつに従ってたよな」
「あいつって?」
「エメリ様?」
「ああ。様なんて俺にもニグラスにもつけたことねえくせに」

 元魔王であるニグラスにも、現魔王であるマルコにも、双子は敬称をつけない。唯一敬称をつけるのが、元勇者であり人間のエメリだった。マルコにとっては契約主であり、従わなければならない相手だが堅苦しく「様」をつけて呼ぼうとは思ったことがない。いっそおちょくっているのだろうか、とも思ったけれど。双子は顔を見合わせてから、マルコに視線を戻した。

「エメリ様は真の勇者だったからね」
「うん、勇者だった」
「はあ? どのあたりが」

 確かに守護の力をその身に宿していたけれど、それ以外は勇者らしくない勇者だった。魔力があるわけでも、剣術に秀でていたわけでもない。こんな小娘一人送り込んで、本気で魔王討伐ができると思ったのかと王国側に問いただしたくなるほどだ。エメリに呼び出されて訪れた王国の王城を思い出し、顔を顰める。が、そんなマルコに構わず双子は、「魔王を二人も無力化したところだよ」「そうそう」と答えた。

「元魔王は骨抜きにされたし」
「現魔王は契約で手懐けられたし」
「手懐けられてねえわ」

 とはいえ、エメリに逆らえないのは事実である。

 ニグラスを目覚めさせたエメリは、寿命と引き換えに二つのことをマルコに願った。一つは、エメリとニグラスを隣国まで送り届けること。もう一つは、マルコが魔王でいる限り王国に手を出さないことだ。おかげでマルコは王国に瘴気を伸ばすことも、侵略することもできない。寿命が尽きれば契約も破棄されるのか、それとも継続されるのだろうか。わからないが、マルコはエメリの死後も願いを叶え続けるだろう。

「うちらよくわかってないんだけどさ」
「結局何がニグラスを治したの?」
「あー……」

 双子の素朴な疑問に、マルコは顎に手を当てて逡巡した。

 *

 トゥルシーに侵され、昏睡状態に陥っていたニグラス。彼を目覚めさせたエメリは、勇者になるよりずっと昔にニグラスと契約していた。何らかの願いを叶える対価に記憶を取られていたのか、契約のことは覚えていなかったけれど。唐突に彼女は全てを思い出した。ニグラスが弱っていたせいで、奪われた記憶の一部が戻ってきたのだろうか。きっかけが何だったのか、定かではない。いずれにせよ、マルコは二人の契約関係を利用することにした。

 魔族と人間の契約は、曖昧かつ漠然と結ばれるにも関わらず、強制力は絶大だ。契約主に「目覚めろ」と、寿命という対価と共に命じられれば従うしかない。例え昏睡中だとしても、だ。けれど、絶大な強制力を誇る契約も、トゥルシーの毒には打ち勝てない。人間は知らないようだけれど、魔族は聖なるものには敵わないのだ。契約により目覚めさせることができたとしても、トゥルシーの毒が体内に残る限りニグラスを蝕み続けるだろう。

 そこで苦肉の策として思いついたのがニグラスの角――魔力の源を使うことだった。魔力の源は触れたものに感情を伝え、取り込んだものに持ち主の記憶をもたらし、寿命を与える。それを、持ち主本人が取り込んだらどうなるのか。マルコは魔力の源の、「寿命を与える」特質に着目した。魔王城の図書室にある、どの書物にも記載はないし、伝聞ですら聞いたことはない。自分で自分の魔力の源を食べようなんて魔族は、黒い森の歴史上一人も存在しなかったのだから当然だろう。それで解決する確証はないし、一種の賭けのようなものだ。けれど、迷っている間にもトゥルシーはニグラスを蝕み続ける。何も試さないよりはマシだと思った。

 ニグラスの角を切れ、と言ったときのエメリの顔を、マルコはきっと忘れられない。眉間に皺を寄せてたっぷりと間を置き、「考えさせてほしい」と絞り出すように告げた。角を切るとどうなるのか知っていたのだろう。魔力の源を失うと、魔法が使えなくなり寿命も短くなる。言ってしまえば、人間になるようなものだ。長生きするのに飽きたから、という信じられない理由で先代魔王は勇者に角を渡していたが、あんなのは特例中の特例だ。

 ――俺なら、死を選ぶ。

 魔法も使えず、長生きもできず、弱いくせに強いものに楯突こうとするいけ好かない種族。そんな存在と同じになるぐらいなら、トゥルシーに蝕まれて死んだ方がマシだ。エメリに甘い双子だって同じ考えだろう。エメリのことを真の勇者と評価しているけれど、本質的には人間を舐めている。同等の存在になるつもりなど毛頭ないのだ。

 けれど、ニグラスはきっと違う。誰よりも早く玉座に座ろうと必死だったけれど、魔王という座や魔族という種族に固執していたかと言われればそうではない。彼は魔王になって勇者に――エメリに会いたかっただけだ。エメリと一緒にいられるのであれば、魔族であることすら捨てる。そんな確信がマルコにはあった。

 三日三晩悩んだ末に、エメリはマルコの提案に頷いた。「それでニグラスを助けられるのなら」と呟く声が泣きそうだったのを、よく覚えている。双子の手によって打ち直された短剣を握る手は震えていたが、マルコの手を借りることなく二本の角を切り落とした。好きな人の一部を切り刻み、擦り潰す彼女の心境を、マルコは知る由もない。ただ、こうまで苦しむのであれば、相応の結果は出て欲しいと、契約主の肩が震えるのを見つめながら思った。

 *

 長い沈黙の間、双子は珍しく黙ったままマルコを見つめていた。何がニグラスを目覚めさせたのか、一言で表し切れるものではない。それでもあえて一言で言うのであれば。

「……我が主の頑張りってやつだろ」
「えっ」
「マルコがなんか魔王っぽくないこと言ってる」
「うるせえ」

 そう言うと、スコーンを鷲掴んで立ち上がる。魔王にテーブルマナーというものは備わっていない。背後でキャンキャン騒ぎ立てる双子の小言を全て聞き流し、スコーンを口に放り込んでその場を後にする。口の中の水分が全て持っていかれたので、紅茶も取ってくればよかったかとほんの少し後悔した。

 契約主が今頃どうしているのかはわからない。何かあれば契約で呼びつけられるだろうから、音沙汰ないということは元気にやっている印なのだろう。勇者らしくない勇者だった彼女は、願いの対価に守護の力と寿命を差し出した。今は勇者ですらない、弱くて他人より寿命が短くなってしまった人間の少女。彼女の寿命が尽きれば契約関係は破棄されるが、生前に約束した願いを破棄することが許されるかはわからない。「マルコが魔王でいる限り王国には手を出さない」という願いを叶え続けなければならないのか、曖昧な契約から推し量ることは難しい。あれから、王国から何かが送られることも攻め入ろうとする気配もないけれど、いずれきっと王国は魔王を討伐しにやってくる。今までに何度も何度も何度も何度も、繰り返されてきたのだから。エメリに釘を刺された程度で諦めるとは思えない。

 けれど、それでもきっと、エメリの寿命が尽きたとしても、エメリの願いを願いを叶え続けるのだろう。自らそう予感している。

「……ニグラスのこと、助けてくれたしな」

 経緯はどうあれ、友人を助けてくれたのだから。寿命を削り、守護の力を差し出してまでニグラスを助けることに尽力したのだから。マルコにとって、願いを叶え続ける理由はそれで十分だった。
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