勇者は魔王と結婚しました

2

 王国の端っこに存在する黒い森。建国の歴史を紐解いても、その存在がいつからあったのか誰もわからない。わかるのは、気が遠くなるほど昔から存在し、いつからか魔族が住み着いているということだけ。魔族――悪魔とも称される彼らとは、名前を付けて血を飲ませることで契約を結ぶことができる。そして、大切な何かを捧げることで望みを叶えてくれるのだ。

 大切な何か、とは。実家に大量にある、魔族に関する書物の数々。その中の一冊を読んだエメリは単純な疑問を覚えたけれど、それに正確な答えを返せる人は誰一人としていなかった。悪魔の指す、人間にとっての「大切な何か」が何なのか、エメリは今も知らない。

 *

 まだ日が高いはずなのに、光は一筋たりとも差し込まない。充満している冷気は瘴気と呼ばれるものなのだろう、気絶はしないが寒気がする。頭上から聞こえる鳴き声は王国で聞かない類のもので、どうしようもなく不安を煽る。葉も枝も幹も黒い木々が生い茂る黒い森――エメリが足を踏み入れるのは初めてではない。

 エメリが一人、黒い森に放りこまれたのは十数年は前のこと。たった一度だけのことで、もうほとんど記憶もない。守護力を伸ばすため、というのが名目だったらしい。父親は泣いて嫌がるエメリを引きずり、魔獣を十匹倒すまで帰ってくるなと言いつけた。泣きながら森を彷徨い歩くエメリは、それでもやはり守護力で守られているのだろう。一歩足を踏み入れただけで気絶した父と違い、体調が悪くなることはなかった。けれど、それで恐怖心がなくなることはない。暗くて不気味な黒い森は同じような景色が続くせいで、簡単に方向感覚を失う。泣きながら歩いているうちに帰り道はわからなくなっていた。

 ――そういえば、あのときはどうやって帰ったんだろう。

 丸一日一人で彷徨った森から、どうやって抜けたかの記憶がすっぽり抜け落ちている。結局魔獣の首一つ持ち帰ることができなくて、父親にこっ酷く叱られた記憶しかない。誰かに助けてもらった気もするのだけれど、魔族しか住んでいないこの森で誰がエメリを助けてくれるというのか。森に入ったときのことはもちろん、抜けてからも何かを忘れているような気がする。幼少期のことだから覚えていないというわけではなく、記憶が丸ごとなくなっているような感覚だ。どう頑張っても思い出すことはできそうにないけれど。

 相変わらず変わり映えのしない景色を、ひたすら歩き続ける。気づけば、昔放り込まれたときですら入り込んだことのない奥地にまで達していた。振り向くと、先ほどまで歩いていたはずの道は閉ざされているようで、後戻りは許されない。運良く魔王を討伐できたとして、無事に森を抜けられるのだろうか。これまでの祖先がどうやって森を抜けてきたのか、もっと詳細に聞いておけば良かったと今更な後悔を覚えた。

 気が狂いそうなほどに同じ景色が続く森を黙々と歩くこと数時間。たまに襲ってくる魔獣は小ぶりなせいもあり、倒すのにそこまでの苦労はない。それより、目的地も見えないままにひたすら歩き続ける方が、体力と精神力を消耗した。瘴気の濃い方へ歩いているつもりだけれど進んでいる気は全くしない。一体いつまで歩き続ければ良いのか、と思ったときだった。不意にそれは目の前に現れる。

「ま、魔王城……」

 急に現れた、というのがエメリの感想なのだけれど。遠目に見えていたわけでもないのに、まるで最初からそこにあったかのようだ。王国の王城に比べれば要塞としての面が強そうなその城は、見上げるだけで足が竦む。木の陰から様子を伺うけれど、門番の一人も見当たらない。警戒する必要もないということなのだろうか。

 恐る恐る近づき、正門の前に立つ。特に何も起こらない。ぐ、と力を込めると重たそうな門は、意外にもあっさりと開いた。まるで魔法か何かがかけられたように。どっどっどっどっ、と心臓が早鐘を打つ。勇者の勘というわけではないけれど、おそらくエメリの侵入は魔王城に伝わっているのだろう。伝わった上で、ここまで来いと挑発的に誘われているようだ。

 すう、と息を大きく吸い込むと腹の底から声を張り上げる。

「わ、我が名は勇者エメリ! 国王の名を受け魔王討伐にやってきた!」

 こんなふうに宣言する必要なんてきっとない。黙って突入すればいいことはわかっている。けれど、恐怖と緊張で震えが止まらないエメリにとって、こうして大声を出すことは自分を鼓舞する意味でも必要だった。少しして、ぶわりと魔王城から強い風が吹く。気づけば頭上で聞こえていたはずの鳴き声は聞こえなくなっていた。

 腰に提げた剣の柄に触れる。エメリの一族が営んでいる、最古の鍛冶屋工房。そこで鍛えてもらった剣はいつまで経ってもエメリの小さな手に馴染まないけれど、何かあるとつい触れてしまう。ぎゅ、と柄を握ったまま深呼吸し、城門の内側へと一歩踏み出した。

 *

 城の中は奇妙なほどに静まり返っている。今の魔王城には魔族はどのぐらい住んでいるのだろう。祖先が残した文献では、魔王城に入った瞬間から襲いかかる魔族の数々をバッタバッタと斬り払っていたと書かれていたけれど。エメリの見る限り、人っこ一人見当たらない。本当にこんなところに魔族は住んでいるのだろうか。

 石畳の長い廊下を歩いていくと、一際大きくて豪奢な扉が現れる。きっとこれが玉座の間に続く扉なのだろう。祖先の文献に書いてあったのを思い出しながら扉を開くと、想像していた通りの景色。昨日王国で見たばかりの玉座の間とよく似た造りだけれど、色彩が異なる。王城では赤い絨毯が敷かれていたが、魔王城では敷かれていない。凸凹した石の床には何も敷かれておらず、岩をそのままくり抜いて作られたかのような玉座は大きいというよりも巨大だ。

「……っ!」

 思わず息を呑む。逆光でよく見えなかったけれど、玉座に一人の男が足を組み肘掛けに肘をついて座っているのが見えたのだ。それなりに距離が離れているのに、金色の瞳に見つめられている感覚を鮮明に覚える。ぞくりと全身が総毛立った。男は座っているだけで武器を構えているわけでもない。人間の小娘一人、警戒するに値しないのだろうか。周りに側近らしい側近も見えない。無防備とすら言っても良いだろう。だというのに、全く気が抜けないのはどうしてか。

「お、お前が魔王だな?」

 震えの収まらない手で剣を抜く。カチカチと小刻みに震えてしまう右手を、左手で押さえ込む。エメリの質問に、相手は何も答えない。エメリが一歩ずつ近づいてもなお、優雅に足を組んで座ったままだ。

 ――怖い。

 まだ何もされていないのに。向こうはただ座っているだけなのに。どうしてこんなに怖いのだろう。勝てる未来が全く想像できないのだろう。エメリの祖先は、この恐怖を感じなかったのだろうか。容赦なく切り掛かることができたのだろうか。いっそのこと今からでも尻尾を巻いて逃げ出してしまいたい、という気持ちに駆られたけれど。臆病風に吹かれそうなエメリを踏みとどめさせたのは父親の顔だった。エメリが敵前逃亡したと合っては、どんな仕打ちが待っているかわかったものではない。

 ぐ、と痛いぐらいに両手で剣を握りしめる。やりたくなくても、向いていなくても、やらなければならない。

「お前に恨みはないが、ここで討たせてもらう」

 ぴくり、と相手が反応したかに見えたが、それ以上の反応は待たずに地面を蹴る。何度も何度も父親に教え込まれた、最初の一撃の動き。助走の勢いのまま、玉座前の段差を飛び越えて剣を振りかぶる。斬り掛かる直前、エメリを見上げる魔王と目が合った。無造作な黒髪から覗く、大きく渦巻いた山羊の角。エメリと同じ年頃だろうか、顔の造形は整っていると言っていいと思う。金色の瞳はギラギラと不気味に輝いていて、口元にはうっすら笑みすら浮かんでいた。振りかぶった剣をそのまま一直線に振り下ろす。

 ――獲った。

 そう思ったのも束の間だった。ぐにゅり、とおおよそ剣で何かを切りつけたとは思えない感触。肉を切ったような感覚に似ているが、これ以上刃が進まない。ダンっと着地した衝撃で足の裏がビリビリと痛い。ぐ、と両手に力を込めたままよく見ると、触手が剣を受け止めているのが見えた。

 ――触手!?

 うぞうぞと蠢く無数の触手は青年の後ろから伸びている。祖先の残した文献に触手の記載なんてなかった。「魔族は魔法を使う」の類のことしか書いていなかったはずなのに。どうして、なにこれ、と混乱するエメリをよそに触手は剣に絡みつく。

「ひっ……!」

 思わず剣から手を離して、後ろに飛び退いた。勢いがつき過ぎてしまったせいか、後ろによろけてしまう。あ、段差、と転ぶことを覚悟したのだが、その瞬間座ったままの青年が立ち上がった。触手ではなく右手を伸ばすと、そのままエメリの左手を掴んだ。力強く引っ張られ、そのまま腕が腰に回る。後ろに倒れるのは阻止されたが、代わりに青年との距離がとんでもなく近くなってしまった。気づけば左手は指が絡み合うようにして、感触を確かめるように握られている。抱きしめられていると言っても過言ではない姿勢に、エメリの頭には疑問符が浮かんだ。

 ――な、なんで?

 困惑しているのがよっぽど顔に出ていたのだろうか。青年は面白いものを見たと言わんばかりに吹き出し、にっこりと微笑んで口を開く。

「こんにちは、勇者エメリ。よくここまで来たね」
「っ、は、離して!」

 胸を押して抵抗したけれど、びくともしない。魔法を使われているわけでもなさそうなのに。金色の瞳はエメリの顔を覗き込むように見つめている。見透かされるような視線に居心地が悪い。おそらく正体は予想通りだけれどこの男は一体。青年はエメリと目が合ったことに嬉しそうにして、口を開いた。

「僕は魔王ニグラス。結婚しよう」
「……は?」
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